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2011年5月 8日 (日)

可能無限は無限なのか≪無限は実在するか9≫

「実無限」の立場でその考えを突き詰めていけば、「無限が無限個集まったものがさらに無限個集まったものが…以下無限に続く」という「無限の無限の無限…」、あるいは「べきべきべき…集合」や、「全ての集合の集合」、「自身を要素としない集合の集合」などのように、矛盾を内在しているものを実在しているものとして捉えなければならなくなる。実無限を認めるのであれば矛盾することを受け入れるしかないのである。

しかし、矛盾を受け入れてしまうわけにはいかない。

そんなことをすれば、何でもアリの世界になってしまう。矛盾からはどんな馬鹿げた結論でも導出することができ、あらゆる記述についてその真偽を問うことが意味を失ってしまうからだ。世界記述の真偽に意味が無くなってしまっては、何のための世界記述か、何のための数学か、哲学か、言語か、全てが意味を失ってしまうだろう。そんなことが許されるはずがない。

ならば、「可能無限」の立場でいいんじゃないのか。

「可能無限」は「無限」をどこまででも限りなく続くことができる可能性として捉える。どこまでも続くことができるのだけれど実際に数値を取り扱うためには、有限の値を取り出すしかできないとするのだ。
このような「無限」の捉え方をするなら、「無限」は果てしない可能性として空想の世界に存在するだけで、実際に操作される数値は有限のモノでしかないようになる。だから矛盾をはらむこともなく、パラドクスを作ることもない。

ここで、本当に矛盾が出てこないのか。可能無限の立場での数体系とはどんなものなのか、一つずつ確かめてみよう。

 

可能無限では「0.999…=1」か

可能無限では、「0.999…」は実質的な意味で有限小数でしかない。「0.999…」の「…」はどこまでも続く可能性があるだけである。実際に数値として取り出す時には、小数位を遡っていく作業をどこかの時点で中断し、有限の値を取り出すことができるだけなのである。…とする立場であるので、「0.999…」は実際には「0.999…9」(「…」をいくらでも好きなだけ続けてよいことを表すものとするが、その最後は有限の「9」で終わる)として捉える。

だから、
「0.999…」と「1」の間には有意味な有理数qが存在することになる。また、デデキント切断の考えにおいても、その間には有理数qが存在するのなら、「0.999…9未満の全ての有理数の集合」と「1未満の全ての有理数の集合」は異なるものになるので、両者は同じ値ではないことになる。

可能無限の立場では「0.999…<1」なのである。

 

無限の濃度に差はあるのか

実無限の立場での対角線論法において、全ての有理数を並べた表から対角線の数値を採ると無理数が得られることになるということを、「無理数と有理数と対角線論法」のページで確かめたが、
可能無限の視点でこれを再度確かめてみよう。

実無限派の対角線論法では、「有理数一つ一つの値は有限なのに、全ての有理数を並べてその対角線を採ると、そこから得られる数値は無限を内在する無理数になる」という、有限から無限を生む操作が、対角線論法の肝であった。

可能無限派が対角線論法の操作をしたとしても、同じ操作をするのだから無限の値をもつ数が出てくるのではないかと疑われる。
しかし、「有理数一つ一つの値は有限なのに、全ての有理数を並べてその対角線を採ると、そこから得られる数値は無限を内在する無理数になる」…ということにはならないのだ。

可能無限の立場では、「全ての有理数を並べ終わらせる」という操作はできないからだ。

有理数を十分多く並べることができるだけで、その操作はどこか途中で中断させてしまうしかない。だから、その有限個の有理数が並んでいる表の対角線を取り出たとしても、有限の値を持つ数が得られるだけで、無限の値をすでに持っている小数としての無理数が出現することは無いのだ。

つまり、可能無限では、対角線論法によって無限を作りだすことはできないのだ。

だから、可能無限では、無理数は有理数よりも高濃度であると言えない。そもそも、無理数などと言っても、無限に小数展開される可能性があるだけで、実際に無限を内在しているものでは無いのだ。

さらに、可能無限では、どれだけ冪集合を作ったとしても、その集合は可能性としてあるだけで実際に取り出されることは無い。それは無限の彼方に触れ得るところにまで達するものではないのだ。実際に取り出されるのはやはり、単に有限な値でしかないからだ。

そしてそれゆえ、「アレフ0」や「アレフ1」などのような無限の濃度差なるものは存在し得ない。それどころか、可能無限の無限は、或る意味で有限でしかないので、実無限での最小の無限濃度「アレフ0・ℵ 」にさえならないのだ。その意味で、可能無限は無限と言えるものではないのかもしれない。

 

パラドクスはどうなるか

だから、可能無限では、カントールのパラドクスは逆理にならない。

「あらゆる集合の集合など無い」…これで、カントールのパラドクスは解決する。あらゆる集合を集めようとする操作は可能ではある。しかし、あらゆる集合をすべて集め終わらせるという操作は不可能なのだ。
また、冪集合そのものが可能性としての存在でしかないので、「べきべきべき…集合」も「そんなものは無い」としてしまえる。そして、それでこの話は終わりになるのだ。

同様に、可能無限では、ラッセルのパラドクスも逆理にならない。

「自身を要素として持たない集合の集合」…これについても、「自身を集合として持たない集合の集合の全て」を集めようとする操作は可能である。しかし、集め終わらせるという操作は不可能なのだ。そうすると、「自身を要素として持たない集合」には、それが自分自身を含めているモノとして捉えているパターンと、含めていないモノとして捉えているパターンを、ひっくるめて一つに納めきってしまう必要はなくなる。自分自身を含めている時と、含めていない時とが別々に捉えられてよいのだ。

だから、可能無限では「集合」の意味を「その要素をすべて集め終えたもの」として捉えることは許されないし、そのような捉え方はしようとしても不可能なのである。
ウィトゲンシュタインが「集合」を否定したのは、「可能無限」の立場を採っていたからであろう。「集合」の「世界の全てを集合の内外に振り分け切ってしまえる」とする実無限的な考えを否定し、「振り分けようとする」ことができるだけであるとする「関数」的な世界把握の立場が、ウィトゲンシュタインをして、「6・031 集合論は数学では全くよけいである。」と言わしめたのだと僕は思う。
「可能無限」は、実在論的な集合を否定するのである。

 

無理数は無限小数か

さらに、「円周率が無限小数である」というのも、「円周率」の全ての値がすでに決定しているという意味でとらえるのではなく、どこまでも展開し続けることができる可能性があるだけだとするものである。無限の果てまですでに存在しているはずがない。無限の果ては決して到達しえないものなのだから、無限とはそんなものだとするしかないのである。仕方ないのである。

だから、「円周率の値の列の中に「0」が100個連続して並ぶか否か」という問いについても、その答えを我々が知らないだけなのではなく、その答えはあらかじめ存在するものではないとするのだ。

この実無限と可能無限との違いは、実在論と独我論との違いに酷似している。この違いをさらに見ていくと、直観主義と呼ばれる考え方に辿りつき、排中律を否定しなければならないことになっていくらしいのだが、続きは次節にまわそう。今日はここまで。

つづく

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    コメント

    はじめまして
    独我論についていろいろ読ませてもらいました
    結局は信じるしか無いということなんでしょうね、でもそれでいいです
    今見ている物を受け入れるんですよね

    自分がいかにして発生したかとかも不思議に思います、今まで大量の意識が作りあげられてる中で何故自分なのか
    思えばここから独我論に興味を持ちました

    iPodさん。はじめまして、コメント、ありがとうございます。

    独我論についていっしょに考えてくれる仲間がいることはとても心強いです。(冗談のようですが本心です。)
    おっしゃる通り、ぼくも最後は、信じるしかない…という信仰にも似た観点で見るしかないものなのだと思っています、実在論も、独我論も。

    「だってそーなんだもん。」と言いながら生きていくしかないような、あるいは「自分の人生は自分で引き受けるしかない。」というような道徳的な価値観にも、独我論は通じていくものだと思います。

    自分の意識も、世界も全く不思議ですよね。実際にここにあるんですもの。この奇蹟は驚嘆に値すると思います。

    自分の意識がここに唯一として在るのは不思議であって当然かもしれませんね
    もはや人間の手に余ります

    その「私の生」の「不思議さ」と「当然さ」というものは、この章で取り上げている「実無限の矛盾性」と「可能無限の不自由さ」と、リンクしているものかもしれません。
    この先、その辺りの事やゲーデルなどについて考え、ウィトゲンシュタインの言語ゲームへと考察をつなげていきたいと考えています。

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