フォト

ウェブページ

無料ブログはココログ

« 排中律がダメなわけ≪無限は実在するか10≫ | トップページ | 必然性と可能性の表裏<非現実は実在するか1> »

2011年5月29日 (日)

おとぎ話としての実無限・懐疑論としての可能無限≪無限は実在するか11≫

この節では無限についての考察を一旦まとめて、無限をめぐる2つの立場(可能無限と実無限)から検討してきたことをふり返り、独我論と実在論について捉え直してみたい。

 

可能無限 

 

 

実無限 

 

 

無限の果てなど実在せず、どこまでも展開される可能性が存在するのみ。 

 

 

無限の果てが実在する。

 

アキレスと亀の追いかけ合いを無限に追求しつくすことはできない。

 

 

アキレスと亀の追いかけ合いを無限に追求し終えることができる。

 

0.999…」の「…」は「どこまでも展開することが可能である」というだけの意味で、実際に取り出すことができるのは「0.9999」という有限の数値になる。それゆえ、

9.999…<1

になる。

 

0.999…」の「…」は「無限の果てにまで展開し尽くす」という意味で、終わらないはずの無限の終わりにまで達することができる。それゆえ、

0.999…=1

になる。

 

有理数しか認めない。

無理数は可能性として存在し、空想上の数であると捉える。

 

 

無理数も実在する。

 

外延的意味指定だけしか認めない。

 

 

内包的意味指定も許容する。

 

ことばや記号はその意味する対象によって個々に確定される。外延的意味指定ができるときに限って、ことばは意味を持つ。

 

 

ことばや記号が意味指定する対象が確定できなくてもよい。内包的意味指定だけでも、ことばは意味を持つ。

 

厳密に対象を確定させることを要求する。だから、懐疑論的。

 

 

厳密に対象が確定できなくてもよい。だから、おとぎ話的。

 

排中律が否定され、使えない。

 

 

排中律が使える。

 

人間の視点(私の視点)で認められるか否かしか、存在を問う基準は無い。

 

 

神の視点では実在しているか否か決定できる。

 

突き詰めて考えると、独我論や独今論・観念論に通じ、未来や他者や因果律を否定する。

 

 

未来の実在を認め、他者の存在を認める。

実在論的である。

 

可能無限は「人間が取り出せる範囲での無限」

可能無限の立場では、アキレスと亀が「無限の果て」や「永遠の終わり」に到達することは無い。「無限の果て」や「永遠の終わり」などという自己矛盾はおとぎ話でしかないとする。

可能無限では、「無理数」は可能性として存在するだけの空想上の数である。「0.999…」の「…」も「どこまでも展開することが可能である」というだけの意味で、実際に取り出すことができるのは「0.999…9」という有限の数値になる。実無限での「…」が「無限の果てにまで展開し尽くす」という意味で、終わらないはずの無限の終わりにまで達することができるのに対して、ずいぶん控え目な無限である。実無限から見ると「無限」と呼べるものではないだろう。

 

神の視点による「本当」など可能無限では意味がない

だから、可能無限は実質的な「無理数」を認めない つまり、可能無限による「数の意味」とは、実際に取り出すことができる対象を示すものである。外延的に対象を取り出すことができるときに限って、その数は意味を持つことができるのである。
この考え方においては、実無限のいう無理数などという数はおとぎ話にすぎないとするものになる。

たとえば、円周率πの数値の列の中に「0」が100回連続するか否か…という問いは、可能無限では意味がない。そこに意味があると考えるのは、「神の視点によると、本当は0が100回連続しているのだ」というように「神の視点」なるものを勝手に取り入れてしまっているとするのだ。

 01hontou_2

そして、可能無限は、世界のあらゆることについて「『A』か『Aでない』かのどちらかだ」とする「排中律」を否定する。可能無限は「排中律」に対して、何かの「真偽」が決められるとは限らないと考えたり、神の視点で「真偽」を決定することには意味が無く、人間の視点(あるいは「私」の視点)で「真偽」を問うことにのみ意味があると考えたりすることになっていく。だから、人間の知らないところで勝手に、「世界」が某かの性質であるか、ないかのどちらかだとすることは、できない話なのだ。

 

おとぎ話としての実無限・懐疑論としての可能無限

その意味で、突き詰めて考えると、可能無限は観念論的だと言える。

「3分後のカップ麺」は、その外延を手にすることなど、原理的にできないのだから、その実在の真偽を問うことは意味がない。ある意味で「独今論」につながっていく。

「他者」の存在も、厳密に考えて疑っていくと、その外延を手にすることなど、原理的にできないのだから、その実在の真偽を問うことは意味がない。ある意味で「独我論」につながっていく。

「因果律」も、厳密に考えて疑っていくと、その外延を手にすることなど、原理的にできないのだから、その実在の真偽を問うことには意味がない。ある意味で「懐疑論」につながっていく。

 

そう考えると、実無限はおとぎ話でしかなく、可能無限は懐疑論に陥ってしまう。

実無限も可能無限も、単純にどちからか一方だけが正しく、どちらかが間違っているとはいえないものであるようだ。

                     ※

しかし、私が私の人生から逃れられないように、あるいは、この世界だけが実在の世界とするしかないように、矛盾を承知で実無限を認めないといけないのだろうか。それとも、何か方法が在るのだろうか。

ここからは、章をあらためて、「直観主義」を考えたり、そこから発展して作られてきた「様相論理」について考えたりして、「実無限と可能無限」あるいは「実在論と独我論」の関係について見ていきたい。

 

つづく

無限は実在するか目次へ

大阪哲学同好会へのお誘い

« 排中律がダメなわけ≪無限は実在するか10≫ | トップページ | 必然性と可能性の表裏<非現実は実在するか1> »

コメント

このシリーズも、かなり面白かったです。数式は飛ばして、結論部だけ辿ったところもありますが、読めたと思います。要はこのページの表ですよね。

私の思考は、面白いほど、可能無限の方に偏っています。ある意味、自分の思考に一貫性があるという裏付けを頂けたということでしょうか。

しかし、実際問題として、現実の日常では、独我論では生きていけませんよね。だから、部分的に、一時的に、実無限的は考え方も取り入れて生きているということになると思います。大人になるってそういうことじゃないですかね。

自分の中の純粋論理と日常の実践論理を分けて生きているという感じです。双方に固執しすぎると分裂症になりそうですね。

私は、このブログをつまみ読みしているので、統合したところを、もう読んでるんですかね。カントの話の最後のところの独我論と実在論が一つの地平になるという話が結論なんですか?

taatooさん、僕のブログを楽しんでもらえてとてもうれしいです。ありがとうございます。

taatooさんの仰る通り、このブログを始めた3年前の僕の思いとしては「独我論と実在論が一つになる地平」をゴールにしたいと思っていました。
でも、このブログを綴るのに哲学書を読み進めるうちにウィトゲンシュタインなどの影響を受けて、さらに先に進めて来たように思います。今のところ「ウィトゲンシュタインの言語論的なアイデアで、心の哲学と様相論理などを捉え直して、存在論を考えたい」というのが目指すところです。
でも、書いていくうちに変わっていくだろうと思います。まだまだ、結論まで行けそうにありません。

独我論については、現時点では、「私的言語がナンセンスであるゆえに、独我論もナンセンスな問題でしかあり得ない。ただ語り得ない問題として世界開闢の奇跡が眼前にあるだけだ」というのが結論みたいなものとしての僕の思いです。
だめですね。この言い方じゃ、まさしく「宗教」ですね。

工藤さん
宛名を書かずコメントしてしまいました。失礼しました。
上はtaatooさんへの返答でした。お気になさらないでください。

工藤さん、

工藤さんの[固有名を与えられた身体から開けた生]と僕の「世界開闢の奇跡」はかなり似ていますが、違うものだと思います。

工藤さんのは、「現実の在り方に忠実」に表現できるもののようですが、僕のは現実の存在ではありませんし、もともと言語化できるものじゃありません。不明瞭なのは当然で、原理的に、自分ででもその意味を捉えられず言語の先に逃げていく夢だからです。・・・と言うこの言い方も混乱を起こすだけの不明瞭な表現になっていますね。でも詩的表現でお茶を濁して理解したふりをするしか仕方がないものを、僕は考えているつもりなのです。今後のブログで表現できない夢を表現することに挑戦したいと思っていますが、所詮は無駄な徒労であると思います。

それと、こちらの設定で誰か個人がコメントし辛くなるように仕組むことは決してありません。送られるデータが重すぎたりしていませんか。それともニフティがチェックを入れてしまう何かの原因があるのか。ニフティは自分で迷惑スパムを排除しようとする機能があるようですから勘違いして必要以上に排除してしまうのかもしれません。でも僕にはわかりません。すみませんが、コメントが付き返されるようなことがあっても、何度かチャレンジしてもらえますか。

「世界開闢の奇跡」なる表現はtaatooさんとのやり取りでたまたま出たものであり、他の方に理解してもらおうと書いたものではありませんので、返答は不要です。

工藤さん

ならば、工藤さんは言語化不可能な事柄を言語化したものを「精確」だとしてオススメくださった訳ですね。

いえ、まあどうでもいい突っ込みです。返答不要です。

工藤さん、
だから、やっぱり、工藤さんの「固有名を与えられた体から開けた生」と僕の「世界開闢の奇跡」は別物なんです。
工藤さんのは、言語化不可能でも自分で自得できるのなのでしょう。僕のは前述したとおり自分ででもその意味を捉えられず言語の先に逃げてゆく夢なのです。自分ででも何を言ってるのか分かり得ないはずのものを追いかけているだけなのです。ですから、そんなものに、適切で精確な表現など、あるはずがないのです。一人遊びにもならないことを書いてしまった僕がバカなのです。

もう本当に返答不要です。

工藤さん
返答不要とのことなのに失礼します。
指示可能な諸対象と指示不可能な視野の差異が理解可能であるというのが、実は、ドグマなのではないかというのが、今スゴく興味のあるところです。「開闢の奇跡」のナンセンス性と一緒に、このブログにまとめていきたいと考えています。書けましたら、またご批判ください。

工藤さん
では、それによって示すものが実は理解不能であることを承知した上での「方便」のために、言語化不可能な事柄を言語化して「精確」な表現だとオススメしてくださった訳ですね。それも、わざわざ僕が他の人と通信しているので気にしないで下さいと断わっているところに横レスで入って来て。
すごいですね。

横山さん、回答ありがとうございます。開びゃくの奇跡もナンセンスなんですね。独我論がナンセンスなら、そうなりそうですね。

哲学と宗教を区別する場合の宗教と哲学も宗教だと言ってしまう場合の宗教は違いますよね。哲学と宗教を区別する場合の境目は、論理の飛躍だと思います。よく瞑想をして光を見たって言うじゃないですか。あれを信じるって、幽霊を見たっていうのと変わらないですよね。それから、言語、論理に対する誠実さだと思います。論理から信念へ変容する瞬間、誠実さが変容すると思うんです。何か道徳的、宗教的誠実さへと質が変わるというか。どんな状況においても、自分自身の言語、論理を疑うような誠実さって必要かなと思います。以前、カントの哲学を宗教と揶揄したかのような話になりましたが、ぜんぜんそうではありません。私はカントの哲学全般には親和的な印象をもっています。純粋理性批判も読んでないのに偉そうですが。

「不明瞭なのは当然で、原理的に、自分ででもその意味を捉えられず言語の先に逃げていく夢だからです。」

いいですね。かっこいいし、美しい。

taatooさん、お誉めのことば美しいと言ってもらえて純粋にうれしいです。ありがとうございます。

工藤さん、
ご批判のとおり、「開闢の奇跡」はもちろんまっとうな哲学ではありません。語り得ない奇跡を語ろうともがいている単なる「ブンガク」です。でもまあ僕が僕の疑問に丁寧に考えようとすると、どうしてもこのような無意味なアガキ、モガキになってしまいます。批判されたところで、どうしようもなく、仕方ないと言ったところです。

哲学の美しさについて、思いつきを一言。

哲学は文学より数学的です。けど、言葉を使っているところが、文学と共通しています。多少、詩的な部分はやむを得ないと思います。ニーチェとかとても詩的ですよね。

確かに言語表現なので、詩的な美しさもありますが、数式だって美しいし、ゼロ戦だって美しい。カウンタックのフォルムも美しいと思う。哲学の言語表現の美しさって、機能美に近いように思います。

 今更ながら「0.999・・・=1」に興味を持ちここにたどりつきました。このシリーズおもしろいですね。

 「0.999・・・は1である」と高飛車に言われると、現実世界(自然)ではそんな事は確認されていない。私は「0.999・・・<1」だと思う(断定ではなく推測)と言ってしまいます。ここでは「現実世界とはなにか?」と問われそうですが・・・(笑)。

 「おとぎ話としての実無限」この言葉いいですね、何かの時に使いたい。現代数学は実無限を想定との事。 このおとぎ話は(結果的に)「0.999=1」であるよに作られていると考えています。もちろん、このおとぎ話が現実世界を理解するのに大いに役立っている事に異論はありません。

 ついでながら、このおとぎ話の設定では、現実世界では確認されていない(と思う)、「大きさの無い存在(点)、その結果としての無限大」が想定それており、それが現実世界とは異なる不思議な状況を招いているのではないか思います。
 例えば「lim(n->無限大)1/n=0」。現実世界では物質が分割されると存在しなくなる(0になる)なら、「質量保存の法則」に反します。

 このおとぎ話の世界では、条件が想定通りなら「アキレスは亀に追いつけない」のが正しいのではないかと思います。

 当方数学にも哲学にも素人ですが、当HP内容理解できないながらも興味があります。時々つまみ読み?させていただきます。 古い記事ですが足跡を残したくコメントしました。 

 

上の書き込みの一部訂正

(誤)このおとぎ話は(結果的に)「0.999=1」であるよに作られていると考えています。
(正)このおとぎ話は(結果的に)「0.999・・・=1」であるよに作られていると考えています。

朝寝坊さん、ようこそ。コメントありがとうございます。
僕はこの記事を書いたときには、実無限が「おとぎ話」的であることをやや否定的な感覚で捉えていたのですけど、いま振り替えってみると、現実世界というのは「生の物語」でしかないと思えてきて、実無限にたいしてもずいぶん肯定的な感触をもつようになってきました。
それで、この無限の問題に関してもまだまだ考えるべき課題は多いなあと感じているところです。
ですので、いろいろとご意見いただけるととてもうれしいです。今後もよろしくお願いしまう

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 排中律がダメなわけ≪無限は実在するか10≫ | トップページ | 必然性と可能性の表裏<非現実は実在するか1> »