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2011年5月22日 (日)

排中律がダメなわけ≪無限は実在するか10≫

排中律がダメなわけ

可能無限の立場から考えると排中律がなぜ拒否されるのかを考える。

実無限の立場では、たとえば円周率πの無限に続くすべての数値がすでに決定していると考える。「πの値の中に『7』が4回連続で出現するか」という問いの答えもすでに決定されているはずだとする。

だから、「πの数値に『7』が4回連続するか、しないかのいずれかである」…ということになる。

これに対して、可能無限の立場では、無限は可能性としてあるだけで、実際には有限の値を取り出すしかできないと考える。

「πの数値の中に『7』が4回連続するか」の答えも、人間には到達することができない…とするのだ。
また、「人間には分からないだけで、神の視点でなら決定しているのだ」とする考えに対しても、もともとその「神の視点」を拒否したのが可能無限の立場なのであるから、「人間に分からないのなら、それ以上の真理などないのだ」とすることになるのだ。

そのため、「πの数値に『7』が4回連続するか否か」という問いの答えは存在しない。その4回連続が発見されていない以上、世界のどこにもその問いに答えられる人も神も存在しないし、その答え自体が存在し得ない。

だから、「πの数値に『7』が4回連続するか、しないかのいずれかである」…は認められない。

こうして、排中律は可能無限の立場から否定される。排中律とは、「A∨¬A」(Aであるか、Aでないかのどちらかである)とする規則の事である。可能無限では、何事かが真か偽か分からないのであれば、そのどちらかだということもできないとするのだ。

実無限の矛盾を拒否し、可能無限の立場に立つのであれば、排中律が使えなくなってしまうのだ。

 

多値論理と直観主義論理

可能無限の立場から考えられる論理パターンは、大きく分けて二つある。
その一つが多値論理と呼ばれるもので、あらゆる物事は「真偽」の2つの値を持つだけでなく、「定まらない」「未定義」「無意味」などの第3の値があるとするものである。この論理の方法では、排中律の「A∨¬A」(AまたはAではない)が認められないだけでなく、矛盾「A∧¬A」(AかつAではない)が「偽」として全否定されないで、その3つ目の値に入れられてしまう。かなり、使いづらく厄介な論理形式である。
またもう一方が、直観主義論理と呼ばれるものだ。これも排中律が使えないが、矛盾は否定できる。神の視点によって「真偽」の2値を定めるのではなく、人間の視点によって「証明できるか否か」で2値を定めるのである。
いずれにしても、排中律は認められない。

「『本当は○○である』のような実在論的な視点で真理値を求める」のが実無限の立場であるのに対して、「『本当は』などという視点は誰かが身勝手にでっちあげた判断でしかないのだから、それを人間が(あるいは私が)言えるか言えないかが真理値の基準になる」というのが可能無限から生まれた直観主義の立場である。カントのいう超越論的な世界観に共通する部分があるので、直観主義論理を作るときにブラウワーがカントの「直観」から名前をもらったらしい。

しかし、排中律が使えないとなると、数学で頻繁に出てくる「背理法」の多くが使えなくなる。そのような不便な数学で我慢しなくてはいけないのだろうか。矛盾なく有意味で自由に背理法が使えるような数学は無いのだろうか。

無限や数の存在をどのように捉えるべきなのだろうか。実無限と可能無限の間に求めている真実があるのだろうか。

 

つづく

無限は実在するか目次へ

大阪哲学同好会へのお誘い

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コメント

もし、下記ページの値を信じるなら、ctr+Fで検索すると見つかる。
http://www.geocities.jp/f9305710/PAI1000000.html
から、排中立の成り立たない例に円周率の値に7が4回連続するかどうかは使えない。

問いの難しさと計算の速さの兼ね合いの話かもしれない。
問いのほうを実無限の中で、どれだけ難しくできるかになる。

いや、むしろ、実無限で7が100個並ぶところを探すとき、ずーっと探していって、見つかったときはいいけれど、見つからないとき、ずーっと探し続けて、先へ先へさがしつづけたままになっちゃう。

問いが難しくて、すごい計算力で、さがしつづけたままずーっと2億年ぐらい経っちゃうよ。答えでないよっていう説明だと、実無限で排中立だめかなぁという気になります。

ずーっとさがしつづける具合の程度によるよね。
実無限と排中立というよりも、人間と神様と排中立で考えるといいと思う。


すなぼうずさん、こんにちは。コメントありがとうございます。よくいらっしゃいました。
円周率のページも教えてくださってありがとうございます。

「円周率の値に7が4回連続するかどうかは使えない」と仰るのは正しいです。実は僕もすでに1589桁から7777があることは知っていました。だから、7の4回連続でなく100回連続にしようかとも考えたのですが、それも程度問題でしかないので、ウィトゲンシュタインが「探究」で例に挙げていた7の4回並びを選んだのです。

>問いが難しくて、すごい計算力で、さがしつづけたままずーっと2億年ぐらい経っちゃうよ。実無限と排中立というよりも、人間と神様と排中立で考えるといいと思う。

との指摘は大変興味深い考察をされていると思います。
しかし、僕が排中律のダメなわけで言いたっかのは、その、難しすぎて人間には追いつけないというレベルのダメさではないのです。

その対象が難しすぎるから排中津が言えないのではなくて、その問いがナンセンスになるから排中律がダメになるということを僕は言いたかったのです。
たとえば、
「ビッグバンの1時間前に音が鳴ったか鳴らなかったかの何れかである」という言明。
これは一見正しいように見えますが、ナンセンスです。なぜなら、ビッグバン以前には時間さえ存在していなかったと考えられているからです。時間が存在していなかったところで1時間前と問うてもナンセンスでしかないということを考えているのです。

無限についても、人間は人間の思い込みによって無限を立ち上げていますが、あらゆる規則は有限の基準のままでは確立されるわけではないことを以下のページで紹介していますので、よろしければそちらもご覧ください。
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/l2-e619.html
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-80b4.html

トラックバック先よみました。言葉の参照先ってどこよ!という叫びは小学生も感じるようです。

先日近所の小学生に「ねえちゃんとふろはいってる?」と問いかけられました。私は「むかしね」とだけ答えました。
小学生は、「ねえちゃんいる?」と返してきて私は「いるよ。」と答えました。
小学生は、「きのうふろはいった?」と返してきました。
私は「けさはいったよ。」と答えました。

しばらくあるいて、わたしは「ざんねんでした」といいました。
小学生はくやしそうな様子でした。

さて、排中律がダメなわけというタイトルは釣りです。ずるいです。
「可能無限の立場だと、円周率の値は文の中に使えない」
が正しいと思います。

可能無限の立場では、下記のようになら問えます。
「[πの値の小数点以下100万桁]中に『7』が4回連続で出現するか」

排中律がダメなのではありません。
可能無限の立場の人が円周率の値を文字として文の中に使うとき、自動で、円周率の値があることになるからダメなのです。

本文も可能無限の立場が原因と読めます。
当然、タイトルも、「わけ」の部分を強調する意図です。
可能無限と実無限が主題なのです。

だからさ、主題は可能無限と実無限の間をなんとなく作って
はまりやすいってゆーはなしじゃん。はまりやすい例で排中律でてきてんじゃん。おれ、かんけーねーじゃん。はまんなくてもいいのに、間にはまってんじゃん。ちきしょう。
くやしい…でも…感じちゃう。ビクビクッ。

考えるスイッチを押してくれたので良いです。
 

すなぼうずさん

クワス算のページを紹介したのは、「有限の説明による規則設定から無限の規則を確定させることができない」ということの例示がしたかったからなのですが、意図がわかりにくかったですかね。
その例示が一つでもあれば、排中律の破れることは明らかになると思って紹介したのでした。
まだ、理解しにくいでしょうか。誤解ないように説明するのってむずかしいと思います。

クワス算の例が言いたいのは、規則が可能無限個ある。全部見れない。排中立は成り立たないということでしょうかね。まだ全部読んでません。(たぶんクワス星人は手足が合計で57本あります。)

排中立と可能無限についての理解の難しい箇所は、
 可能無限の立場では、
  ア)無限は可能性としてある
  と
  イ)「人間に分からないのなら、それ以上の真理などないのだ」
です。

それで
2つの立場が可能無限の立場の中にある。
ウ)一度にどっちかにしか立てない。
どっちに立つのか本文から判断がつかない。
ことです。

で、3つ目の立場があるじゃんというわけで、無限が可能性としてあってずーとかんがえて人間の真理を広げ続けりゃいーじゃんてことでなんとか、排中立ダメとつじつまをあわせて、最初のコメントになります。

改めて考えると、下記の①から⑧ような推論をしています。

①円はある点 からの距離が等しい点の集合でできる曲線
②円があると、直径dと円周Cがある。
③すべての円の直径dと円周長Cの比が一定。
④C/d=π
⑤人間は望むだけ詳しく、πを計算できて計算して無いのこりを残しておける。
⑥可能無限の人は、計算した範囲しか考えない。
⑦計算した値のなかで、7777が並ぶかどうか確かめられる。ほかの数字の列が並ばないことも確かめられる。
⑧排中律がだめなことをしめすのは、しょーがないのでずーっと計算する

アのフリをして問いを立て、イの立場に移って、排中立だめじゃんってなる話だとおもっています。

ア)とイ)が同時成り立つウ)を否定する説明があるんでしょう。
でも端折っているか、別の場所に書いてあるんだとおもいます。
それで、理解しにくいんです。

すなぼうずさん、

説明を端折ってしまっているというご指摘はもっともだと思います。
不十分だったと思われるところを埋めておきたいと思います。それでも不十分なものでしかないでしょうが、不足があれば、また教えてください。

「「A」かnot「A」のどちらかが真になる」という判断が必ずしも正しいとは限らなくなるのは何故か。排中律が保障されなくなるかもしれなくなるのは何故か。それは、言語論的に規則の適用がどこまでも(無限に)確定させ得るとは限らないというのが可能無限の立場であることが、その理由です。

例えば、野矢茂樹は可能無限のことを木材から彫刻を彫り出すようなものだと言っていますが、これは、もとからそこに存在していたものを掘り出すだけのことではなく、それまで存在していなかったものを造り出す作業、として捉えているという意味合いが強いです。可能無限の立場で、可能的に無限の値を紡ぎ出す作業とは、(既に決定しているが人間には知られていなかったような数値を掘り出すだけの作業なのではなく、)その数列を並べるための規則を新たに意味付けして造り出す作業であるのです。

足し算の規則を誰かと共有するには、その仕方を有限個の具体例によって確認し合い、そのあとは「以下同様に」と言ってそれぞれが「同様に」と思うやり方でやっていく以外ないです。しかし、同様にやっているつもりでもプラスをクワスとして解釈してしまう人が出現するかも知れない。
円周率の数値の出し方についての規則を誰かと共有するには、その仕方を有限個の具体例によって確認し合い、そのあとは「以下同様に」と言ってそれぞれが「同様に」と思うやり方でやっていく以外ないです。しかし、同様にやっているつもりでも違う規則解釈をしてしまう人が出現するかも知れないです。
人類が1京桁の円周率の出し方について、みな、その規則解釈を一致させられるのは、人類が「たまたま」円周率解釈について1京桁まで同じ習性をもっていたからに過ぎないのです。
プラス人とクワス人のどちらが本当に正しいのかを論理的に決定する術はありません。それと同じように、我々と違う円周率解釈をしてしまう人が出現したときに、(我々と違う言語で違うゲームをする人だとして、我々の「円周率値計算ゲーム」から排除することはできますが、)我々と違うからと言って、それが「論理的に」間違っているとすることはできないのです。

それゆえ、可能無限の立場に立つとすると、円周率の数値の中に「7777」が有るか否かが掘り出されても彫り出されてもいないような状況において、「そこに「7777」が有るか無いかのどちらかが真だと既に(論理的に)決定しているはずだ」とは言えないのです。

(あ)「無限は可能性としてある」という文を上記のように「無限は造り出し得る」という意味合いで捉え、
(い)「人間に分からないのなら、それ以上の真理などない」という文を上記のように「有限個の例示しか示せない人間にとって無限が決定しているとする論理的根拠はない」という意味合いで捉えるのなら、この(あ)と(い)の2点は、必然的に両立するのです。

不足している部分は、
「実無限の排中立な人が必要」
ということです。

クワス理論から理解しました。
まず、
「数字を数(頭の中にある気がする)と対応すると考えてはいけない。」
と心の中で3回唱えます。
つらい。

そうすると
まだわかってない足し算の規則を別の人と共有できない場合、および
まだわかってない円周率の規則を別の人と共有できない場合も
あります。

「円周率の数字を途中まで決めて」も、ここからさきの規則ただしくないんじゃー!っていう別の人がいるともうだめで、円周率という言葉が無意味になることがわかりました。

規則が数え切れないだけあって、可能無限の人がいる場合
命題が無意味になります。

本文から排中立をダメにするために2通りの筋が読み取れて
②の場合がつながらないです。

①命題が無意味で、
(可能無限の人は無意味な命題に、わざわざ排中立したく無い気分でいたところ、)
さらに
実無限の人がやってきて、命題か有意味で、排中立だろ!と言い出して
可能無限の人と口論になって排中立がダメになります。

②最初に「排中立です!」って言って、
さらに
命題を立てて、
(無意味な命題わざわざ立てるのってマゾいです。)
無意味ってわかって、
(無意味と排中立ダメはつながりません。)
終わりです。排中律がダメになりません。

実無限の排中立な人が必要です。
可能無限の立場だけでは排中立ダメにできません。

無意味な命題から、排中立ダメという意味を引き出すのは嫌です。
本文の意図する実無限と可能無限がまざると排中立で危険だと言いたい気持ちがしみじみと感じられました。
いいブログですね。

すなぼうずさん、コメントありがとうございます。

すなぼうずさんの軽快な文章は読んでいて心地よく、僕の好みです。でも今回のコメントは真意がよくわからないところがありました。
「実無限の排中立な人が必要です。可能無限の立場だけでは排中立ダメにできません。」というところです。

「実無限の排中律な人」というのは、「無限を実無限的に捉えながら、排中律(「A」かnot「A」かのどちらかが必ず真になるという決まり)を認める人」、という意味ですよね。
でも、それって一般的な数学の立場で、どこにでもある「常識」だと言えるものです。
実無限派の立場では排中律が言えて、可能無限の立場では排中律が言えなくなる、ってまとめ方でいいのじゃないでしょうか。

すなぼうずさんは実無限派と可能無限派の同居を考えておられるように感じましたが、実無限派と可能無限派は互いを排除しあうしかできないように、僕には思えます。

文章を好まれてうれしいです。

私の一連のコメントの原因は、ブログを読む前から
「実無限派と可能無限派は互いを排除しあうしかできないように思える。」・・・(ⅰ)
と考えていたためです。

(ⅰ)をなかったことにして、エントリを読まないといけません。
(ⅰ)はもともと、どこにも書いてありません。

エントリの趣旨は、可能無限の説明です。

 排中立がダメなわけは、
 可能無限が実無限と違うからです。
 違うので、円周率が無意味になったり、ある値をとったりします。
 可能無限と実無限が違うので混ぜると矛盾します。

 可能無限の性質がわけです。
  かつ
 可能無限と実無限を混ぜるというわけもあります。

順番があります。
 ・命題がある。
 ・命題が排中立かどうか問う。
 ・無限を考える。
 ・無限には、実無限派と、可能無限派があるとわかる。
 ・それで、もう一回命題を無限の立場で実無限と可能無限にそれぞれ  立ってみると、
   実無限だと、命題は、7777はあるから成立。
   可能無限だと、命題は、無意味になる。
  命題は、真か、偽かのいずれかであるという排中立に矛盾する。(つまり、排中立ダメ。)
 だから、
 「実無限派と可能無限派は互いを排除しあうしかできないように思える。」・・・(ⅰ)

(ⅰ)を最初に前提しちゃうとダメなんです。
そうすると、実無限しかないか、可能無限しかないので、矛盾にならないんです。

(ⅰ)は正しいっていうことを、エントリは言っているのですが、(ⅰ)を前提すると、排中立がダメにならないんです。

排中律がダメになる。そのあと、(ⅰ)が正しいとわかるんです。

私は、「命題に対して、可能無限の立場で排中律が言えなくなる」に同意しません。
私は、「命題に対して、無限(実無限と可能無限を含んだ)の立場では排中立がダメになる」と主張します。

誤りの原因は(ⅰ)を前提と思い込んでいたことです。
原因を説明が足りないとブログ主のせいにしました。
私の思い込みをブログ主が知っているはずは在りません。
言いがかりでした。ごめんなさい。

別の命題を用意すればいいんじゃない?という例がクワス算です。無意味じゃない、可能無限のせいで、排中立が矛盾する命題がどこかにあると思います。

排中立は公理として認識することにしました。
実無限で、排中立である。
実無限で、排中立でない。
可能無限で排中立である。
可能無限で排中立でない。
いずれも、まぁありだなぁと思ったからです。

無限と排中立は独立のように思います。

あと、「πの数値に『7』が4回連続するか、しないかのいずれかである」
という命題はわかりにくいです。

命題がダメだとわかって、ダメだから、排中津して、排中立がだめになる
という感じがします。
排中立で排中立を否定する感じがします。最初の排中立と後の排中立は同じはずです。たぶん。

「πの数値に『7』が4回連続するか、しないかのいずれかであることは無い」・・・命題2

と言う命題2にするべきです。

そうすると、

可能無限なので、命題2が成立する。だから排中立でない

ということができます。

可能無限の性質から、排中立を否定できるというのが、エントリの主張だとわかりました。

可能無限の立場でも、同心の2つの大きさの違う六角形の間にあって、内側の六角形の頂点6つと外側六角形のの辺に内接する、自分自身と交わらない、平面上の曲線と円を定義すれば、半径と円周が定義できて、円周率が大体この値とわかります。ので、円周率が有意味になります。ただし、円周率の値に幅があります。こんな感じです。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~meiran/puzzle/puzzle184.html

意味と無意味とナンセンスについては区別があるようなので考えてみたいとおもいます。

疑問を離れて見ますと、ブログ主さまのお時間を取らせております。ブログ主さまの忍耐に甘えさせていただきました。
エントリの主張が理解できましたのでもう大丈夫だと思います。
ありがとうございました。
お手間を取らせました。

すなぼうずさん、

無限と排中律が独立というのは、ユニークで興味深いアイデアですね。
でも、可能無限を取るなら排中律が破れるのは必然で、独立だとは言えないと、僕には思えます。
すなぼうずさんの思索で、その論拠が具体的になったら、また教えてください。
コメント、いつでも楽しみに待っています。

最近某SNSで無限の話題があがって、一悶着ありました。
物理学系の方が集まるところだったので、遠慮してあまり発言はしませんでしたけど。
しかし、なぜ問題を感じる人と感じない人に分かれるのかなあ?と思います。

僕は横山さんの実無限は実在論、可能無限は独我論に通ずるという洞察がとても素晴らしいと思っていて、それを初めて読んだときは「あ~なるほど!!」と、衝撃を受けました。モヤモヤしていたものが一気に氷解した感じでした。
問題を感じる人と感じない人の差は、そういったもっと根底にある哲学観において違っているんじゃないか?と思います。
実在論を否定するつもりはないんですけど、実在論的な方とお話していると「なんでそんなに簡単に納得しちゃうのかなあ?」とよく思います。
実在論というとふつう厳密なイメージがあるのかもしれませんけど、僕からすると厳密さに欠けるというか・・・。知りうることと、知り得ないことの間の断絶を感じないのかなあと。

がみさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。

がみさんが仰る「実在論者と独我論者の落差」は僕もひしひしと感じますので、よく解ります。実在論者はなぜそんな簡単に存在を認められるのかと。

ただ、最近、僕は独我論的な存在の捉え方もそれほど確からしいとは限らないと、考えるようになりました。
そして、所詮、完全な確からしさが望めないのであれば便利な「実無限」の方に分があるとも感じるようになってきました。
でも、最終的には「好き嫌い」で決めるべき問題なのかも知れません。
がみさんは可能無限の方がお好みですか?

お返事ありがとうございます。
野矢さんの「無限論の教室」を数年前に読んで、その時は「絶対に可能無限の方が正しい」とさえ思いました。
無限という語が「限りない」という意味であるという僕の理解に即しているので。
しかし、最近は「どうして僕の無限観が正しいと言えるのか?」について考え、その足場は直観的なものでしかなく、根拠がないという考えに至りました。
僕の理解を超えて世界は連続的なのかもしれないと。
僕の理解を超えたものとしての「無限」があってもいいんじゃないかと。

ただし、実無限論者が簡単に認めるような無限とは違うと言いたいです。
それは「ある」とも「ない」とも言えないものとしての無限です。

つまり、答えはありません。
僕には分からない、というのが答えというか。
そこらへん、ゲーデルさんが徹底的に考えているんじゃないだろうかと思って、今「ゲーデルの哲学」という本を読んでいますが、難しいです。

 実在論者に対する違和感は私も共有致します。私の学生時代は研究会などでは「実在論者にあらずば分析哲学にあらず」ってな雰囲気を感じました。恐らくは自然科学者の大前提が実在論であるというような共通理解があったように思われます。実際はカルナップ、エイヤー、グッドマン、ダミット等、非実在論的な分析哲学者も居た筈ですが、彼らも、まるで実在論的クレンジング(?)を受けているようでした。

ウラサキさん、コメントありがとうございます。
実在論と反実在論なんですけど、僕は最近この二つは似たもの同士ではないかと考えています。
反実在論というのは否定神学のようなもので、実在を認めつつそれについて語らない立場。
もちろん、独我論のような立場の反実在論者もいるでしょうが。
ダメットの本を買ったんですけど・・・数ページ読んだだけで、本棚に仕舞ったままです。

「無限論の教室」は良い本ですよね。僕も大いに影響を受けました。
「ゲーデルの哲学」は橋本昌一郎ですね。橋本とダメットは読んだことがありません。読まれたら是非感想をお聞かせください。特にダメットは興味があるのですが、ダメットも橋本も読みにくいですか。

おはようございます。
ゲーデルの哲学はかなり平易に書かれていると思います。
「論理学・数学・哲学の基礎知識はいらない」と冒頭でも書かれてありますし、半分は伝記なので、面白く読めると思います。
分かりやすく書かれているものの、ゲーデルの言ってること自体がそもそも難しいです。
ダメットは「金子洋之ーダメットにたどりつくまで」を持っていますけど、こっちは本当に色んな基礎知識が必要で、今の僕の手にはおえないです。横山さんなら色々勉強されてるので面白いとおっしゃるかも。

自分のコメントを後から読み返すと何かおかしなことを言っているような気もしてまいりました。
「僕の理解を超えたものとしての無限は認めるけど(可能性として)、真偽は分からない。」
これはやっぱり可能無限なのか。
でも、だとすると実無限論者のいう無限とどう違うのか。
実無限論者のいう無限が、よく分からなくなってきました。
カントールが目の前に現れて「君はバカだから実無限が理解できないんだ」と言われたら、そういうものなのか・・・と納得してしまうかもしれません。
ああでも、実無限論者も実は無限を理解していないのかもしれないですし。

横山さんは実無限を実感を伴って理解できますか?

がみさん、こんにちは。

がみさんに言われて、無限が実感出来るか自問してみました。難しい問いで答えがでませんでした。
でも、「実感できる」というのが適切な回答かもしれないという気がします。

それは、「大きさのない『点』の存在を認めたい気がする」「実数を認めたい」「点や実数を認めないことにするのは不便でしょうがない」などなど・・・の実無限に対する容認感やプラグマティズム的感覚が理由だったりもするのですが、それ以上の理由があります。

それは、有限が実感できる気がするということです。
有限の数が実感できるなんてことは当たり前のことなのかもしれませんが、僕にとっては結構驚きの答えです。
実無限というのは、原理的に到達し得ないはずの果てのその向こう側にまで行けちゃったことにする・・・という反則を犯さないと、基本、得られないものなので、実無限はその存在がすでに矛盾へのジャンプを孕んでいるとも言えると思います。
それに対して有限は無矛盾でまっとうな存在のように思われがちだけど、そうとも限らないのじゃないかというのが、僕の考えです。

というのは、有限の数、例えば、1が1として同定されること自体には論理的必然性がないと思われます。リンゴが1個ある、また違うリンゴが1個ある、これらのリンゴがなぜそれぞれ1であると言えるのか。それらを1だとするときにすでに無限のジャンプを孕んでしまっているのじゃないかと、僕は疑っているのです。そして全ての数をそれと断定するために、そのつど無限のジャンプを繰り返しているのじゃないかと。


だから、それなら、実無限だけが実感できないとはじかれるのは正当な判断と言えない気がするのです。実無限が実感できないなら、有限だって実感できていないはずであり、有限が実感できるのなら実無限だって実感できるとして良いはずだと感じるのです。


どうでしょう。この感覚、分かってもらえるでしょうか。

なんとなく分かります。
僕は数学が苦手なので、数学者の頭の中とかどうなってるんだろう?とよく思います。
自分には実感できないからといって、ダメだとはじくのは「俺には分からないから、皆にも分からないはずだ。」と言っているようなものですね。
ラマヌジャンに「なんでそんな奇妙なことが思いつくんだ?」と訊いたら「自分でも分からない」と言っていたそうですけど、天才数学者は僕らが目で物を見たりするように数というものをリアルなものとして実感しているのかも・・・。

しかし僕は数学的実在論というのがまず分からないんです。
数学的対象が実在している。それって一体なにが「ある」と言っているのか?
大きさのない点・太さのない線・厚みのない面・・・。
それらが「ある」となぜ言えるのか?

僕らは何故「在る」という語の意味を知っていて、「在る」という語が使えるのでしょうね。
大きさのない点が「在る」と言えるのも不思議ですし、リンゴが「在る」と言えるのも不思議ですよね。
もしかしたら、僕らは、本当の「在る」の意味なんて知らないのかも知れません。そして、本当の意味なんて知らなくたって、ちゃんと語が使えているのだからそれでいいし、それしか無いのかも知れません。
つまり、どこかにある「本当の」語の意味なんか知らなくたって、自分が使いたいように語を使って話が通じてしまえば、逆にその語の意味を知っていることになるのであって、「数学的存在者」も「在る」と言えることにするような物言いをするなら、それは「在る」のであって、それ以上の本当の「在る」の意味を探そうとすることなんてナンセンスなのかもしれません。

言語ゲームですか。
話がそちらに及ぶとこれまた僕には難しいです。
橋爪大三郎「はじめての言語ゲーム」それから永井の本、横山さんのブログ・・・
色々読んでみましたけど、結局ウィトゲンシュタインは何が言いたいのか?
「ああ、そうか!」という感覚になったことがないです。
バカなのかもしれません。
私的言語についてもあまり深く考えてみたことはないんですけど、突き詰めると僕は容認派になってしまうのかもしれません。
ゆっくり考えてみます。

ちょっと違うかもしれませんが、

実在論と独我論は車の運転のようなものだと思うんです。

市街を走っている時は、電柱とか歩行者とか対向車とかを気にしながら、車幅や車外の対象物との距離を確認しながら走るわけです。

高速を走っている時は、周りの景色はあまり見ないですし、車幅より道路の中の自分の位置に集中して走るわけです。

つまり、市街の時は実在論的運転で、高速の時は独我論的運転だという話です。

おバカなたとえのようですが、これ反対の運転の仕方をすると、とても危険です。

つまり、両方必要で、状況に応じてピントを変えることが、大切なんじゃないかと思うのです。

taatooさん、こんにちは。

実在論に乗らずに日常生活を送るのは危険だし、独我論を無視して内省を見つめようとするのは思索がみみっちくなる。
うん、確かに自動車の運転の比喩はバッチグーですね。

師匠の影響大だと思ってます。ほめられて、小躍りしています。

排中律が気になって仕方が無い。
本を読んでいて「にほかならない。」と出てくると何とも名状し難きヴェン図が頭の中に浮かんでくる。
さらにその言葉を幾度もみかけていると、あの冒涜的な声が頭の中に響き渡った。
曰く「「です。」と書け!書け!書け!(残響音)」
その言葉が出てくるたびに、あの冒涜的な声が聞こえるようになった。
「ほかなる」神ヨグ=ソトースの声だ。
すでに魅入られた私が邪神の存在を確信するのにそれほど時間はかからなかった。

神と人間と排中律です。伏線回収してみました。
面白いでしょうか?(邪神ですが)

私は可能無限の立場をとると、無限が無い、ってことになってしまうので無限で排中律を考えれないのでした。
でも、だから独立。というのは誤りでした。
独立か、必然かわかりません。

こちらが参考になりました。
六尺棒 立川談志 3:08くらいから。
http://www.youtube.com/watch?v=HLhWUgtBXhg
親父が実無限の人。息子が可能無限の人。として聞くと面白いです。

エントリには「円周率を有限の範囲で考えない」
が抜けている情報だと思います。
判明した円周率の数字たちの中に、お望みの数字列を探しに行きたくなります。問いを立てたなら、答えるのが任侠道だからです。

無意味には
1.矛盾(空)
2.同語反復(全部)
ナンセンスには
3.外
4.言葉が先を指し示す方法が無い
がある。

4を使って、可能無限の立場の無限と、排中律でないことを結びつけようとしていると思います。

そのとき、2つの結び付け方、同じこと=と因果→があります。
ア) 可能無限の立場の無限=言葉が指し示す方法が無い=(即)排中律でない
イ) 可能無限の立場の無限=言葉が指し示す方法が無い→(だから)排中律でない

アの右側の=について、同じことなので因果関係ではないので、可能無限の立場の無限が排中律でないの「わけ」にはなりません。

アの右側の=とイの→が成り立たないと思います。
言葉が指し示す方法が無いといったら、もう、=も→も推論できないと思います。

=と→が同時に成り立つ場合はうまく考えられません。ここに答えがあるかもしれません。

また、実無限の立場の無限ならば排中律成り立つについて、実無限の立場から、7777があるかないかいずれかであるといえるなら、
即、どっちさ!と問いたいと思います。
排中律を使わずに、いずれかであることを示せないとおもいます。

すなぼうずさん、こんにちは。

立川談志「六尺棒」 面白いですね。子の言語においては子が正当に真で親が偽、親の言語においては親が正当に真で子が偽、ということでしょうね。二人は違う言語を語り合っているのでしょう。

>ナンセンスには3.外4.言葉が先を指し示す方法が無い・・ がある。
というのがわかりません。3と4はどうちがうのでしょう。

>ア) 可能無限の立場の無限=言葉が指し示す方法が無い=(即)排中律でない
>イ) 可能無限の立場の無限=言葉が指し示す方法が無い→(だから)排中律でない
については、ア)の両辺が同値であるとは考えられません。イ)の→の左辺が右辺を包含しているので、左から右が導出される関係だと思います。因果関係とはちょっと違うように思います。

http://twipla.jp/events/89730
↑ツイプラ立ち上げときました。

指摘の通りです。
3.外と4.言葉が先を指し示す方法が無い
は同じことを言っていますね。

コメントしたときは変だなぁと思わなかったのですが、いまは下記のようにしたいです。
旧 4.言葉が先を指し示す方法が無い
新 4.言葉が先を指し示す方法が変わる

新 4(これがナンセンスかどうかわかりません)を使って、可能無限の立場と、排中律ダメを結びつけたいです。

可能無限の立場に立つならば4.としないと、
ふつうにずーっと、ずーっと先のほうまで行けてしまって無限までいってしまいます。
そうすると、実無限の立場に立っていることになってしまいます。
だから、4.としなければなりません。
それで、方法が変わってしまうので、あるや、ないが確定できないで
排中律ダメになります。

4.は別の言い方をすると、再帰的定義を認めない
ということだと思います。

可能無限の立場に立つと、
再帰的定義を認めないとしなければならなくて、
排中律ダメ、になる。

可能無限の立場だと、排中律ダメは必然でした。
私の誤りでした。
ブログ主様の言うとおりです。

これまでのコメントは言いがかりでした。
まことに申し訳ありませんでした。

六尺棒について、言語が違うというのが良くわかりません。
私が参考にしたことは3つあります。

1.最初に息子が親父に問う
息子は自分がわかりません。親父なら知ってるかもしれないと思い、親父に問いかけます。
可能無限の立場の人は無限がわかりませんでも、実無限の立場の人なら無限がわかるので
実無限の人に無限とは?と問いかけたいと思うかもしれません。
実無限の人はわかってるので初めに問うことはしません。
また、私は可能無限だと排中律ダメがわかりませんでしたので
ブログ主様はわかっていると思ったので問いかけました。

2.てめぇ=自己言及
息子は自分がわかりません。
可能無限の立場の人は無限がわからないので、可能無限の立場がわかりません。
だから、可能無限の立場に立っているかどうかもわかりません。
親父は自分がわかります。
実無限の立場の人は無限がわかります。
だから実無限の立場に立っていることがわかります。

3.問う人が入れ替わる
息子と親父の問いかける人、答える人が入れ替わります。
私は問う側でしたが、今は答える人になっています。

すなぼうずさん、こんばんは。コメントありがとうございます、

「言葉が先を指し示す方法が変わる」というのが、
「可能無限の指示する無限は、その対象がそのつど変わってしまうかも知れないので確定し得ない」という意味なのであれば、仰る通りだと思います。
この可能無限観はもしかすると一般的な可能無限論から跳び抜けて外れたものかもしれませんが、「規則のパラドクス」を真摯に捉えるとするなら、そのような可能無限観になるのは必定だと思われます。

やっぱり、納得がいかないです。

具体例の命題から「Aと¬Aでぜんぶ」がいえないことをよみとってしまいます。
命題:「πの数値に『7』が4回連続するか、しないかのいずれかであるとはいえない」

πの数値のぜんぶを決められないから「Aであるとはいえないし、Aでないともいえない」とよみとってしまいます。

ぜんぶを決められない理由は無限と偏りの2つあります。

1 πの数値が循環しない無限小数であること
  1-1 範囲のぜんぶをきめないこと
  例 ぜんぶを決めるとき
   ぜんぶをπの数値の小数点以下1593桁目までだと『7』が4回連続する。
  1-2 調べれる範囲のぜんぶをきめられないこと
  例 ぜんぶを決めるとき
    ぜんぶを人間が調べられる範囲桁までだと『7』が4回連続するかど
    うかわかる。 きめられないけど範囲をずーっと広げつづけることも
    できる。
    あと、いえないということで、意図的に、範囲を人間が決めてない
    印象を受ける。
    あと、『7』が無限回連続することは、無いことがわかる。だってπが
    循環しないことに反するから

2 πの数値がぜんぶの数の並びを含むかきめられないこと
 例 数字が一様に分布しており、数字の列が現れる頻度に偏りがないと
   いう性質の実数を正規数というらしい。
   πが正規数かどうかわからない。偏りのなさは無限と違う。
   ぜんぶをきめるときたとえばπと同様に循環しない無限小数の
   正規数、0.12345678910111213…とずーっと小数点以下に自然数を
   後に順番につけつづける数を考えて、小数点以下29987桁までに
   『7』が4回連続する。

1~9     9個 × 1桁 =9
10~99    90個 × 2桁 =180
100~999 は 900個 × 3桁 = 2700
1000~7777は 6779個 ×4桁 = 27166
合計 29987桁

というわけで
①無限と偏り→②ぜんぶを決められない→③Aであるとはいえないし、Aでないともいえない→④¬A∧¬(¬A)→⑤¬A∧A→⑥¬(A∨¬A)→⑦排中律ダメ
というつながりになりました。

わたしはぜんぶを決められないとき、¬操作ができなくなってしまって、
④¬A∧¬(¬A)→⑤¬A∧A
⑤¬A∧A→⑥¬(A∨¬A)
の→がダメです。

①無限と偏り→②ぜんぶを決められない→③Aであるとはいえないし、Aでないともいえない→④B→⑤排中律ダメ
よくわからないBがたまたま、③と⑤でおんなじっていうときはありそうな感じがします。

Aであるとはいえないし、Aでないともいえない
っていうときに、あ、Bだ!って思っちゃうからです。
というのはAと¬Aでぜんぶってことが
書いてないからです。

あと、排中律っていわれると、Aと¬Aでぜんぶ っていうことが先にあって排中律ダメっていわれて Aと¬Aでぜんぶ が一緒にダメっていわれないでそのまま効いてる感じがします。そこをなんとか、一緒にダメってことにすると、排中律ダメってときにBだ!というひらめきがスパークします。
それはありそうなきがします。

エントリは無限と排中律の話で、ぜんぶはでてきません。
ブログ主様は「言語論的に規則の適用がどこまでも(無限に)確定させ得るとは限らない」とコメントしています。

今、とんでもないことに気づきました。
ブログ主さまの主張は「無限 だから 排中律ダメ」だとわたしは思っています。ほんとの主張がちがうようなきがしてきました。無限とプラスαのあわせてる気がしてきました。

ブログ主さまが「排中律がダメ」っていうときには、
「Aと¬Aでぜんぶ」も一緒にダメになってますか?どちらともいえないですか? 
ブログ主様が「Aであるとはいえないし、Aでないともいえない」っていうときには
「Aと¬Aでぜんぶ」がその前にダメになってますか?どちらともいえないですか?
もともと、「Aと¬Aでぜんぶ」は成立していますか?

すなぼうずさん、おひさしぶりです。こんにちは。

すなぼうずさんのこだわりが上手く理解できないでいます。すなぼうずさんの思考には要点で誤謬があるように思えるのです。2点あります。
1.「〜でない」と「〜とは限らない」は似て非なるものだと思います。「Aではない」は「¬A」ですが、「Aとは限らない」は「A∨¬A」ではないでしょうか。そして、「Aとはいえない」は後者ではないでしょうか。

2.可能無限など排中律が否定される文脈においては一般に二重否定は除去され得ません。ですから「¬(¬A)」から「A」は導出できないように思います。
いかがでしょうか。チェックしてみてください。

こんにちは。
ブログ主様の頭を無駄に使わせたくないと思っております。
しかしながら、うまく理解できないかつ長い文を書いて投稿しており
申し訳ありません。(先に謝ったって良くないですね。)

結論
私の誤りは「排中律がダメ」ということを「¬(A∨¬A)」と読んでいたこと
でした。

まず2に同意します。
1について同意します。

「Aではない」は「¬A」ですが、「Aとは限らない」は「A∨¬A」ではないでしょうか。
(加えてわたしは「Aではない」は「A∨¬A」でもあるとおもいます。)

1の先をつづけてみます。
「¬Aとは限らない」は「A∨¬A」
「¬Aとはいえない」も「A∨¬A」

だから、「Aとはいえない」し、「¬Aとはいえない」というのは、
「A∨¬A」または「A∨¬A」です。
(A∨¬A)∨(A∨¬A)これは、「A∨¬A」で排中律です。

たとえば、
「πの数値に『7』が4回連続するか、しないかのいずれかである」とはいえない。
「Aか、¬Aか のいずれかである」とはいえない
「A∨¬A」とはいえない
排中律とはいえない

わたしは排中律がダメということを¬(A∨¬A)と読んでいます。
排中律がダメ=¬(A∨¬A)
これが誤りのようです。でも、読めるんだもん。

排中律とはいえない ということと、 排中律がダメ は同じこととする。
とはいえない は ¬ ではないとする。

そうすると
排中律とはいえない → 排中律がダメ ≠ ¬(A∨¬A)

私は=と読んで、誤りました。

別の引っかかりは無限の収束と発散です。
たとえば 「『数』は偶数か偶数で無いかのいづれかである。」
ということについて、

収束の話。
『2π』は偶数か偶数で無いかのいづれかである。

実無限の立場だと
偶数である。だから、排中律。

可能無限の立場だと
偶数である。だから、排中律・・・かな?

 円周率が可能無限の立場でも、或る数に近づくことが同意できる。
  途中もずーっと数だということが同意できると、排中律
  途中は途中なので、数じゃないよというと、排中律がダメ。

発散の話。
『2×(+∞)』は偶数か偶数で無いかのいづれかである。

実無限の立場だと
 発散するので。どちらともいえない。排中律がダメ。

可能無限の立場だと
 「+∞」という記号はつかえなくて、「どんな数よりも大きい数」という
 表現になるとすると偶数である。だから排中律・・・かな?
   途中は数なので偶数なので排中律。
   どんな数よりも大きい数は数じゃないよというと、排中律がダメ。

私は収束、発散の区別をしてなかったので
実無限/可能無限 と 排中律/排中律がダメ は独立って思ってました。


『7』が4個並ぶ話は収束に分類できます。
ただ、実無限とも収束とも関係なく、円周率がどんな数の並びか計算しないとわからないです。
実無限でも、範囲を区切らずに7の個数をたくさんにすると排中律がダメです。

円周率が可能無限/実無限いずれの立場でも、
「3.141…と続けていくと或る数に同じ近づき方(=計算方法)で近づくこと」
が同意できるとわたしは考えています。

結果として実無限でも、可能無限でも、
関係なく円周率がどんな数の並びか計算しないとわからない
ので
範囲と7の個数で適当に設定すると
排中律/排中律がダメ が設定できます。


また別の引っかかりはクワス算の話です。発散の話?ではないみたい。
円周率は収束の話だからエントリの参考にできないとおもいます。
せっかく紹介してもらったのにゴメンナサイ。
ただ、興味深い話だとおもいます。+方向の感情です。

私はこんな理解をしています。。

すなぼうずさん、面白いコメントありがたいです。でも、

>『2π』は偶数か偶数で無いかのいづれかである。実無限の立場だと偶数である。だから、排中律。

の「偶数」の意味が分かりません。一般的な「2で割り切れる整数」ではありませんよね。

偶数を2で割って余りが0の実数だとおもってました。
思いっきり誤りました。
私の例はダメです。

エントリを読み直しますと
排中律がダメなのは規則からあきらかだからでした。

下の4つの規則→がエントリに示されていました。

可能無限の立場→わからない範囲で答えられない→答えが存在しない→問いが認められない→排中律が否定

エントリを読めておりませんでした。すみません。
規則なのでどうしようもありません。

問いが認められない→排中律が否定
の規則が納得できないです。

問いが認められないなら、
前提の答えが存在しないが効いて
「排中律が否定」という答えはないです。

可能無限の立場なら、ただ、排中律。
可能無限の立場なら排中律の外は思い浮かびません。


数が整数になるように。例を修正してみました。連続投稿すみません。

「『数』は偶数か、偶数でないかのいづれかである。」

初項が1、項比が1/2の無限に続く等比数列の和という『数』があるとする。

可能無限の立場では
 そんな数はない。問いがみとめられない。
 (こちらがブログ主さま主張の可能無限の立場。)      
実無限の立場では、
 2  偶数 排中律。

初項が2、項差が2の無限に続く等差数列の和という『数』があるとする。

可能無限の立場
  そんな数はない。問いがみとめられない。
  (こちらがブログ主さま主張の可能無限の立場。)
  2n (nは自然数) となり、どんな大きなnでも偶数。排中律。
  (これは、ブログ主さま主張の規則ではダメ。)

実無限の立場では
  +∞。知識がなくどう考えていいかわかりません。
  強いて答えると、偶数ではないし、かつ、偶数でないではない。
  A∧¬A矛盾です。確信ないです。

ブログ主さまの規則は
可能無限の立場→答えに到達できない→答えが存在しない→問いが認められない→問いが否定
となっております。

これに、問い「πの数値に『7』が4回連続するか、しないかのいずれかである」(=「A∨¬A」)
答えモドキ 「いずれかであるとはいえない」を代入します。

可能無限の立場→答えモドキ「いずれかであるとはいえない」→答えに到達できない→答えが存在しない→問いが認められない→「πの数値に『7』が4回連続するか、しないかのいずれかである」は認められない
→「A∨¬A」は認められない→排中律は認められない→排中律が否定

「問い」を、中身が「A∨¬A」だから「排中律」とし、
「認められない」を規則だから「否定」としています。
ということで 排中律が否定 という結果を出しています。

これは、背理法モドキです。


背理法は何かを仮定してA→¬Aから矛盾を導く。
Aに排中律を入れると
(A∨¬A)→¬(A∨¬A)
となったとき、矛盾して何かダメが示せます。

ブログ主さまの規則は
(A∨¬A)→答えが存在しない→¬(A∨¬A)
なので、背理法とは違います。

たとえば「πの数値に『7』が4回連続する」を問いとするとブログ主さまの規則は変です。
可能無限の立場→答えモドキ「するとはいえない」→答えに到達できない→答えが存在しない→
問いが認められない→「πの数値に『7』が4回連続する」は認められない
→「πの数値に『7』が4回連続する」が否定
「πの数値に『7』が4回連続しない」という答えが出てしまいます。
やはり、「答え」が存在しないや、「問い」が存在しないが正しいはずです。

また、長くがなってしまいました。
すみません。あああああ、空気が読めてない感じがしてきてすごく不安です。ほんとうにすみません。

すなぼうずさん、コメントありがとうございます。すなぼうずさんの考察はまっすぐに考えられていることが伝わってきて読んでいると嬉しくなります。心がふわっと軽くなる感じがします。さて、

>初項が2、項差が2の無限に続く等差数列の和という『数』があるとする。実無限の立場では+∞。強いて答えると、偶数ではないし、かつ、偶数でないではない。A∧¬A矛盾です。

の問題ですが、矛盾が認められてしまうのですから単純に見ると実無限の立場でも排中律が崩れるかのような感じがします。でも、一般的に実無限の立場では排中律は絶対です。ですから、次のような捉え方をすることになると思います。
1.有限の範囲内で偶数と偶数の和は偶数である
2.1より「無限の領域でも偶数と偶数の和は偶数である」と予想されるので、これを仮定する。
3.2より「初項が2、項差が2の無限に続く等差数列の和という『数』」は偶数である
4.一方、「初項が2、項差が2の無限に続く等差数列」の項はすべて偶数であり、すべての偶数になる
5.3・4より「すべての偶数の和は偶数である」・・・しかし、これは矛盾である
6.2・5より、背理法によって「無限の領域でも偶数と偶数の和は偶数である」は偽である。
7.ゆえに、「初項が2、項差が2の無限に続く等差数列の和という『数』」は偶数ではない

いかがでしょうか。
つぎに
>可能無限の立場→答えモドキ「するとはいえない」→答えに到達できない→答えが存在しない→問いが認められない→「πの数値に『7』が4回連続する」は認められない→「πの数値に『7』が4回連続する」が否定 「πの数値に『7』が4回連続しない」という答えが出てしまいます。

については、すなぼうずさんの意図が掴めません。僕にはここのところが次のようになると思われます。

「問いが認められない→「πの数値に『7』が4回連続する」は認められない」のところは、「問いが認められない→「πの数値に『7』が4回連続する」は証明できない」の意味になると思います。そして、
「「πの数値に『7』が4回連続する」は認められない→「πの数値に『7』が4回連続する」が否定」のところは「「πの数値に『7』が4回連続する」は証明できない→「πの数値に『7』が4回連続する」は否定も肯定もできない」になると思います。

また、もっと困ったことには、これについて僕にはすなぼうずさんの思索がどこに向いているのかが掴めないのです。すこし詳しく教えてください。

おもしろいですねとコメントした内容を説明してもらえて
よかったです。
結論は8.偶数ではないなら、奇数である
ですか?

詳しく説明するのはめんどくさいです。
ご要望にお答えできず申し訳ありません。
しかしながら雑に説明します。

背理法をするとして、
排中律を仮定して、
可能無限の立場を公理に、
矛盾を導いた後、
どーやって排中律がダメを導くかというと、
もちろん排中律です。
でも、排中律は仮定です。
仮定を使って背理法はアリですか?
ミュンヒハウゼン男爵ですがなにか?

がんばりましたが、キツい表現になりました。
ご容赦ください。

すなぼうずさん、

すべての有理数は有限の数値をもつ。
しかし、「すべての偶数の和」は有限の数値をもたない。
したがって、「すべての偶数の和」は有理数ではない。
それゆえ、「すべての偶数の和」は奇数でも自然数でもありません。
・・・ってのは実無限の立場の答えです。


それから、たしかに、排中律の否定をするために背理法を使うのはミュンヒハウゼンですね。証明にはなりません。そもそもメタメタ数学の話なので、排中律が必ずしも成り立つものでないことを主張はするのですが、それを一般数学の中で証明することはできないのです。

「πの値の中に『7』が4回連続で出現するか」
「πの数値に『7』が4回連続するか否か」を区別してください。

上の問い「πの値の中に『7』が4回連続で出現するか」
の答えは、真 する/偽 しない       です。

下はエントリでは問いといっていますが実は問いではありません。
「πの数値に『7』が4回連続するか否か」という主張です。
「πの数値に『7』が4回連続するか否かか」という問いとして
勝手に読み替えせていただき以下続けます。

下の問い「πの数値に『7』が4回連続するか否かか」
の答えは 真 するか否かである/偽 するか否かではない です。

下の問いは別の読み方もできます
「πの数値に『7』が4回連続するか否かか」=「排中律か」
とも読めます。
その答えは 真 排中律である/偽 排中律でない です。

ブログ主さまは下の問いについて、答えを存在しないとしました。
それはおかしい。

上の問いで排中律がダメを示したのなら、
下の問いは 偽 するか否かではない = 排中律でない
という答えが出るはずです。

すなぼうずさん、

ブログ本文より
>「πの数値に『7』が4回連続するか否か」という問いの答えは存在しない。

について、
「πの数値に『7』が4回連続するか否か」という問い・・・というのは「πの数値に『7』が4回連続する。YESかNOか」という問いであって主張ではないつもりです。もちろん、「πの数値に『7』が4回連続するかしないかのいずれかである。YESかNOか」という質問ではありません。
「Aか否か」はふつう、「AであるYESかNOか」と理解される質問であって、「AかNotAかのいずれかである。YESかNOか」と解釈されるべきものではないでしょう。
変でしょうか。

へんじゃないです。

へんじゃないので
NOという答えが出ます。 と私は言っています。

でも
答えは存在しない      とブログ主さまは言っています。


すなぼうずさん、こんばんは。

>へんじゃないのでNOという答えが出ます。 と私は言っています。

と仰るのは、「πの数値に7777がある。YESかNOか。」に「NO」なのではなくて、「πの数値に7777があるかないかの何れかである。YESかNOか。」に「NO」ですよね。
でも僕が

>答えは存在しない

と言っているのは「πの数値に7777がある。YESかNOか。」について「答えは存在しない」なのです。決して「πの数値に7777があるかないかの何れかである。YESかNOか。」に対して「答えは存在しない」なのではありません。それに対しては誤解を恐れずに言うなら「可能無限の立場ではNO」です。

ねじれてませんか。僕とすなぼうずさんの理解に捻れがあるような気がします。

そうです。ねじれています。
そのため、私が釣れました。
ブログ主さまが私を釣った事
を示したくて、今まで私はがんばってきました。
わかってもらえて(もらえなくて)とてもうれしいです。
やっと終われます。

ちなみに
・可能無限の立場ではわからない
・…「「「わからない」ってことがわからない」ってことが…
 となるから、どうしようもない。
・どうしようもないってのが無限ってことなんで、
 無限はわからないですよ。
・じゃあなんで無限が…「「「わからない」ってことがわからない」ってことが…
 やっぱどうしようもないじゃん。
ずーっとつづく
となって、引き分けみたいなかんじになるはず
ということは知っています。

「可能無限の立場なら、排中律がダメ」
っていうのは言った者勝ちです。

ブログ主さまの勝ちです。
私は負けました。

くやしいです。

私とブログ主さまにジョンレノンの言葉を送ります。
"「時間を無駄にしてしまったけど楽しかったな、というのは有意義だ。」"
byジョン・レノン"

すなぼうずさん、
どうも、よく分からないまま最終回を迎えてしまったみたいですね。
よく分からないので、もやもやしていますが楽しかったです。
またお持ちしています。

ごめんなさい。取り乱しました。
落ち着きました。
待っててもらえてうれしいです。

私の考え
 ・立場={}
 ・可能無限の立場と有限の立場を区別する。
 ・可能無限の立場に有限の立場が含まれる。
 ・実無限の立場に可能無限の立場と無限が含まれる。

 有限の立場={有}
 可能無限の立場={有限の立場   ={{有}   
 実無限の立場={可能無限の立場,無限}={{有限の立場   ,無限}={{{有}   ,無限}

 注1 可能無限の立場の右側の}は無い。意図してつけていない。
    意図が有るが説明できない。伝わるとうれしい。
 注2 可能無限の立場で有限の立場の右に全角スペースが3つある。
    意図してつけている。意図が有るが説明できない。伝わるとうれしい。
    全角スペースが3つの場所はここかもしれない。
     可能無限の立場={   有限の立場
    これもアリ。
     可能無限の立場=   {有限の立場
    これもアリ。
     可能無限の立場=   {   有限の立場
    これもアリ。
     可能無限の立場=   {有限の立場   =   {{有}   
    これもアリか。
     可能無限の立場=   {   有限の立場   =   {   {有}   
 注3 ,は可能無限の立場と無限は並列を示す。

問い「πの数値に『7』が4回連続するか」

 有限の立場={3.141592}→答え 連続しない
 可能無限の立場={有限の立場   ={{3.141592}   →
 実無限の立場={可能無限の立場,…}={{有限の立場   ,…}={{{3.141592}   ,…}→連続するともいえないし、連続しないともいえない。
 
 注4 小数点以下6桁まで既知とした。
 注5 無限を…とした。
 注6 連続するともいえないし、連続しないともいえない。は答えとはいえない。
   書いてあると反論されると困る。これは冗談。

排中律を前提する。
私は排中律を前提しないと、排中律について何もいえない。
私は排中律がダメなわけが示せない。

この考えが落ち着きがいい。
平行線ですね。

気づきました。
ブログ主さまはもしかして、言語ゲームの人かもしれない。
そうすると、そちらからは対話を閉じれないですね。
お察しします。ですが、勢いで送信しちゃいます。

ご迷惑をおかけしております。

すなぼうずさん、やっぱりいろいろ分からないです。

言語ゲーム大好きですが、言語ゲームの人というのはすなぼうずさんがどういう意図で言われているのか分からないです。

>・可能無限の立場に有限の立場が含まれる。・実無限の立場に可能無限の立場と無限が含まれる。

と仰るときの「含まれる」というのはどういう意味でしょうか。有限の立場にいる人の集合が可能無限にいる人の集合に含まれるという意味ではないですよね。その辺りからわからないので、「伝わるとうれしい」と仰るところなんかはチンプンカンプンです。

僕の考えでは次のようなものですが、すなぼうずさんとは違うのでしょうか。そんなところもわからないので、確認させてください。

問い1「πの数値に『7』が4回連続するか」
 可能無限の立場では、連続するとも言えないし、連続しないとも言えない。人が言えないだけじゃなく神の視点でも言えない。(この「言えない」が空白になる理由も分かりません)
 実無限の立場でも、連続するともいえないし、連続しないともいえない。しかし神の視点なら分かるはず。
問い2「πの数値に『7』が4回連続するかしないかの何れかであると言えるか」
 可能無限の立場では、言えない
 実無限の立場では、言える

言語ゲームの人というのは
新規の話題が有るうちは、ブログ主さまからは
私へのコメントを打ち切れなかろう
くやしいか?というかまってちゃんアピールでした。

「含まれる」をなんとなく使っていました。
もとは「順番」です。

πの数値って3.141592・・・・ずーっとつづくです。
既知の数字からはじまって、ずーっとつづいて、無限ってことにします。
無限から戻ってきて、ずーっとつづいて、・・・、295141.3とならない。

3.141592 ずーっとつづいて 無限という順番です。

既知の数字をあきらめたら、すぐ、無限に着いてしまいます。
ずーっとつづくの途中でとどまれません。

3.141592 ずーっとつづいて 無限という順番になりました。


「順番」を広げて、立場に対応しどの方向でも関係が同じになるように、
「含まれる」にしました。

ずーっとつづいてを可能無限の立場。
無限を実無限の立場。
に対応しました。

自分ルールとして
 ・可能無限の立場に有限の立場が含まれる。
 ・実無限の立場に可能無限の立場と無限が含まれる。
に決めました。

結局、私の考えは下記です。可能無限の立場がもうわけがわからないよ。

問い1「πの数値に『7』が4回連続するか」
 可能無限の立場では、連続するとも言えないし、連続しないとも言えない。
 実無限の立場では、連続するとも言えないし、連続しないとも言えない。

問い2「πの数値に『7』が4回連続するかしないかの何れかであると言えるか」
 可能無限の立場では、言えるとも言えないし、言えないとも言えない。
 実無限の立場では、言えない。(πの数値に出てくる数字に微妙に偏り
                      が有るらしいです。wikipediaしらべ。
                      7777が出ないでずーっと計算が続く
                      場合が想定できます。)


神さまは何も言わないよ。言わなくなって何年にもなる。
神さまはぜんぶ分かっています。

可能無限の立場がどんな立場かわからないです。
可能無限の立場をどうこうしても実無限の立場に影響有るかどうかわからないです。

全角スペース3つはブログ主さまが釣れるといいなと意図しての擬餌針です。
釣れなかった。たくさん仕掛けたのに。

わからんけどもしかして、可能無限の立場って空っぽじゃなかろうか。

可能無限の立場をAとして
A=Φのとき、
¬A=¬Φ=Φなので、
A∧¬Aが真になります。
¬(¬A∨A)が真になります。
Φを¬するのずるい。

・『7』が4つを適当に増やされたり
・有限部分をどうするかうやむやだったり
・定義と具体例を混ぜてどっちに反論すれいいかわからなかったり
・排中律か?と読める問を出されたり
・Φを¬されたり

めちゃくちゃ腹立ちました。
だからといって
自分が釣りを仕掛けてしまっては大儀がありません。
やっぱり私の負けです。

問1 
 問い1「πの数値に『7』が4回連続するか」の元ネタの本か何かありますか?
 読みたいです。よろしければお教えください。
問2 
 言えるってどんな意味ですか?
 なんとなく伝わって
「私が」言えるって感じで、
 他の人には任せないぜっていう感じで、
 人類代表してって感じで
 大体わかるんですけど、なんとも言葉になりません。

長々と失礼しました。

すなぼうずさん、こんにちは。

>問い2「πの数値に『7』が4回連続するかしないかの何れかであると言えるか」可能無限の立場では、言えるとも言えないし、言えないとも言えない。実無限の立場では、言えない。

ということですが、それなら可能無限だけでなく、実無限でも排中律が崩れることになります。そういう主張をされているのですか。

円周率に7が4回連続するかの元ネタは、ウィトゲンシュタインの「哲学探究」です。ウィトゲンシュタイン全集8で読めます。読むのに難渋する書ですが、僕のバイブルです。

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