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2011年2月15日 (火)

アキレスと亀は無限遠に到達したのか≪無限は実在するか2≫

アキレスと亀のパラドクス

ゼノンのパラドクスの一つ「アキレスと亀」の話を考えてみたい。
アキレスが亀に追いつくためには無限を超えなければならないというアレだ。

俊足のアキレスと鈍足の亀の競走で、亀はハンデキャップをもらって少し前からスタートした。さて、アキレスがこの亀に追いつくためにはまず、亀がスタート時にいた地点Aに行かねばならない。ところが、その間に、亀はわずかに前進し地点Bに来る。そこで、アキレスは次に地点Bまで進まねばならない。すると、その間に、亀は前進し地点Cに来る。そこでアキレスは地点Cへ進む。…以下同様…。このステップは、無限にくり返されてどこまでも終わらない。それゆえ、アキレスは亀に追いつけない。
…というお話である。

1

アキレスが亀を抜いた瞬間、無限の果てにまで到達できてしまう

もちろん、アキレスは実際にはやすやすと亀に追いつく。
アキレスが走れば亀との距離はどんどん縮まる。その距離が縮まるにつれて、そこに掛かる時間も短くなるのだから、当然だ。

しかし、このパラドクスの問題は、時間的に追いつけないことにあるわけではない。アキレスが亀に追いついたからといって解決するものではないのだ。
問題は、アキレスが亀に追いついたその瞬間に、無限に続くはずであったステップが終わってしまうことにあるのだ。どこまでも終わらないはずの永遠の彼方である「無限」の、その永遠の彼方にまで到達できてしまうという、その矛盾にあるのだ。

平行線は無限遠で交わるか

この問題は、遠近法の絵に描かれた平行線が無限遠の一点に収束することに似ている。
2
平行線は無限遠点で交わるか

奥方向に無限に真っ直ぐ続く幅1mの水路が、遠近法の画面に映っているとする。その水路に沿って(奥方向へ向かって)アキレスが走っていくとする。1mの幅は画面の一点に集中し、無限に0へ近づく。アキレスは無限に対岸に近づいていくように見える。
しかし、当のアキレス自身にとってみれば、どこまで行っても、目の前の水路の幅は1mに違いなく、永遠に向こう岸へ渡ることはできない。
向こう岸へ渡るために必要なことは画面の奥方向へ進むことではなく、直接目の前の対岸へジャンプして渡ってしまうことなのだ。

この、無限に交わらない平行線の交点を探して、どこまでも続く、可能性としての無限が「可能無限」なのであろう。(そして、無限に交わらない交点を探すことなどせず、最初から一気に交点まで行ってしまうのが「実無限」の立場だろう。実無限の立場から言うと初めから超えられない溝などないのだろう。)

この平行線を渡る「可能無限」のイメージではアキレスは決してその交点に達することができない。平行線はその定義からしてもともと原理的に交わらないものだから、当然だ。
この平行線のイメージでなくても、元のゼノンのパラドクスの亀との競争のイメージでも、無限のステップを当てはめて考えるのであれば、アキレスは無限を超えることができなくなるはずだ。なぜなら、無限とは定義からして原理的に到達することができないものだからだ。

しかし、アキレスは実際にはたやすく亀を追い抜くのだ。
ということは、つまり、アキレスの運動に無限を当てはめようとすること自体が矛盾なのではないか。無限が決して到達できない永遠の彼方を意味するのであれば、運動に無限を当てはめること自体が運動を不可能にするのだ。
運動に無限を当てはめるということは、「運動によってある地点に到達することが、到達不可能な彼方へ到達することであるとすれば」としていることに他ならないのではないか。
運動を肯定したいのであれば、無限を当てはめてはいけないのではないか。

無限は否定されるべきか

そこで、この問題への対処法が3つあると思われる。
①1つ目は、無限が矛盾している問題を無視すること。あるいは回避すること。一般的な数学でも、ε-δ(イプシロンデルタ)論法という考え方を導入することによって、無限の問題には直接答えないですましている。この矛盾があることには目を向けず、数学が道具として機能しているなら良しとしているのだ。
②2つ目は、実無限を否定すること。アリストテレスは無限を否定し、無限大や無限小を数として認めなかった。無限をどこまでも続く可能性があるものとしてだけ認める「可能無限」の立場がこれにあたるだろう。しかし、無限を否定すれば、それで全ての問題が解決するかというと、そうでもなさそうである。たとえば、無理数一つ一つが無限を含んでいるが、無限を否定するために無理数を確定した存在として認められなくなってしまう。しかし、そんなことができるかという問題がある。また、無限を否定すれば背理法の推論が使えなくなる場合があるが、そんな選択をすべきなのだろうか。
③3つ目は、無限が無矛盾で存在できるように、ルール設定自体と変えてしまうことだ。「超実数」など一部の数学では無限大や無限小が数として扱われている。数学世界全体を、無限を含める形に置き換えてしまうべきなのだろうか。

上の水路のイメージは②の可能無限の立場でのイメージだったので、無限が否定されるべきだという結論になったが、この結論は必ずしも正しいとは限らない。だから、この章では、もっと無限をいろいろな意味でいろいろな視点で考えていくことで、その内容をより深く探ってみたい。単純に無限を否定すると言っても、それが何を意味するのか、また、無限と共存していく道はあるのだろうか。

次節では、アキレスと亀と酷似している「0.999…=1」について考える。

つづく「無限は実在するか3」

  • 無限は実在するか
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    コメント

    「半径が無限大の円は存在するか?」という命題にたいし

    ①存在する。それは直線になる。
    ②存在しない。無限大という認識できない数値では円を描けない。
    ③無限大の定義が確定するまでは、わからない。

    ①は、直線をたどっていけば、元の出発点に戻るというパラドックスが生じる。
    ②は、認識の問題は物理や工学に任せ、数学に認識云々を持ち込むべきではない。
    ③は、無限大の定義が可能かどうかわからない。

    このような解釈ができるでしょうか?
    私にとては①が数学への思い入れや、無限をたどっていけば元に戻るというロマンがあり、一番しっくりきます。

    老いた技術者さん、こんばんは。
    半径無限大の円。すばらしいイメージですね。その数学センスはとても面白く美しいと思います。

    ②の立場は可能無限になるのでしょうね。コンパスの脚をどこまでも長く伸ばすことができる。けれど、どこかで脚の長さを決めて円を描かないといけないことになる。そして、実際に描くことができるのは半径有限の円でしかない…というようなイメージでしょうか。この立場では無限大の円は無いということになるでしょう。或いはどんどん巨大化するループを思いえがくべきかもしれません。どこまでも巨大化していく円は、しかし、やはり円でしかなく、円である限り、その半径は無限大には到達しない。永遠に大きくなり続けるのだが、永遠に無限大の円にはならない…というイメージが②なのでしょう。
    これに対して①の立場は実無限でしょうか。某かのカーブを考えるのにその曲がり具合を弧の半径で示すことにした場合、コンパスをどんどん大きくするのではなく、最初っから直定規を持ってきて直線を引いてしまうイメージでしょう。直線を半径無限大のカーブと呼ぶことにしたのですから、半径無限大の円とは普通に日常語として言えるものとして「ある」ことになるのでしょう。
    しかし、この弧は直線なのですからどこまで伸ばしても閉じた円にはならない。その円の中心も無限遠にあるのですからこの世には存在しないものです。そんなものはもはや円とは呼べないのものなのかもしれません。だから、それが閉じ得ないで中心も持たない、単なる直線を円と呼んでいいことにするなら、「半径無限大の円」は「ある」と言えるでしょうが、そんなものは円ではないということにするなら「半径無限大の円」は「ない」ことになるでしょう。これが③のイメージに近いでしょうか。
    とても面白いです。

    私が学んだ数学。

    正三角形があります。この三角形の辺の中点を結んで新たにできる三角形のうち、底辺を共通する新たな三角形の中点をむすんで同様の三角形を作ります。これを繰り返してできる三角形の羅列の上の辺をつないでできる鋸の歯のようなジグザグの線を考えてください。この線の長さは元の三角形の辺の長さの2倍になります。これを無限回繰り返すと、ジグザグの線は見た目、元の三角形の底辺と区別がつかなくなりますが、線の長さは元の三角形の辺の長さの2倍です。このようにしてできた線を直線と認めるかといわれると、直線とは認めません。
    前記の半径無限の円の場合とどう違うのか、それは、前者は数学の定理に ∞ を使って証明できるが、後者は、「2点間の結ぶ線の最短の線を直線と呼ぶ。」という公理に反するからです。(たぶんそうだと思うが、書いているうちに自信が無くなってきた。)

    実無限、可能無限という単語も1ヶ月前にはその存在すら知りませんでした。認識という点で 虚数 は式の上では認識できますが、もじどうり架空の数値です。でもこの虚数や ∞ がなければ、現在の科学技術は成り立ちません。可能無限を理解するには、まだまだ時間がかかりそうです。いつまでやっても切りがないのでこの件は終わりにします。つぎは何時になるかわかりませんが、またコメントしたいと思います。たいへん勉強になりました

    老いた技術者さん、こんにちは。

    「1辺がaの三角形の底辺に無限の小さな三角形が並ぶとき、その斜辺の合計2aになり、かつaになる」という矛盾は、何かがその周辺概念をそのまま保ったまま、無限に達してしまえるというのがドグマであることを示しているのだと思います。
    1辺aの三角形の底辺に10000000000000000000個の小さな三角形が並ぶときその斜辺の合計は2aですが、底辺に並ぶ小さな三角形の個数が無限に到達したときには周辺の概念が全部無限のむこうにジャンプしてしまう必要があり、その斜辺の合計はそのまま2aだと考えてはいけないというそれだけの話になってしまうのでしょうね。

    たとえば、…999と無限の桁数を持つ自然数を考えたとき、これに1をプラスするとどこまでも無限にくり上がって0になってしまいます。このとき…999と0のどちらかが大きいということは言えなくなりますし、…999は自然数でさえなくなってしまいます。三角形の問題もこれに似ていますね。

    コメントありがとうございます。また、コメントお待ちしています。いつでもいらしてください

    寄り道しています。

    >無限のステップを当てはめて考えるのであれば、アキレスは無限を超えることができなくなるはずだ。

    これを証明できるのでしょうか?

    無限というのは、定義上は、単に繰り返しや回数に限りがないだけであり、
    必ずしも時間的に永遠というわけではありません。

    一方、アキレスが追いつくことを前提にするなら、
    普通に追いつく時刻をTとすると、
    時刻Tにおいて、すべてのステップが完了していることは簡単に証明できます。
    (たぶん。少なくとも等速運動なら簡単。)

    従って、ステップが無限だからといって完了できないことが証明できるなら、
    我々の初等論理体系は矛盾していることになりますが、本当でしょうか?

    (もちろん、物理的な制約を考えるなら、無限ステップを見出すことは
    困難だと思います。でも今はそういう話しではないですよね)

    >無限のステップを当てはめて考えるのであれば、アキレスは無限を超えることができなくなるはずだ。> これを証明できるのでしょうか?

    アキレスが無限の操作のステップを終わらせることができないことを証明する。

    前提1)アキレスはある操作をなす。操作1回目をA(1)とする。
    前提2)アキレスがなした操作回数よりも大きな数が存在するときには操作は終わらずに継続する。操作n回目をA(n)とする。
    前提3)アキレスのなすべき操作は無限に存在するとする。すなわち、任意のnについてそれよりも大きい数が存在する。

    結論)
    前提より、アキレスが為した操作回数がいくらであってもそれよりも多い操作回数が存在する。
    ゆえに、アキレスは無限の操作ステップを終わらせることはできない。

    証明おわり

    このように実無限の存在を許すなら、様々な矛盾が出てきます。それゆえ、実無限が存在しているとする数体系を許してよいのかが問われることになります。それで、一般の数学ではイプシロンデルタ論法などで無限の問題を無視することができる体系を作ったり、無限を取り込める特別な体系を作ったりしてこれを解消しているようです。

    返信ありがとうございます。

    まず、お詫びがあります。
    わたくし、以前ネットで対話させて頂いたken7rowと同一人物です。

    「これを証明できるのでしょうか?」 というのは、素朴な質問ではなく、
    証明はたぶん無理だろうと考えて書いたものです。

    続けてよろしいでしょうか?

    嘲笑や揶揄を意図するような書き込みのために複数の名前が同時に使われたことがありますので、記名に関してナーバスにはなっています。しかし、KAさんの書き込みからはそのような悪意は全く感じられませんので、全然問題ありません。続けてください。
    また、ken7rowの綴りに見覚えがありますが、どこで何をお話ししたのか覚えておりません。失礼ですがなんの話だったか教えてもらえませんか。

    昨年の春頃に、大阪哲学同好会 掲示板にて、
    非機能的クオリアについて、議論させていただきました。
    議論は途中で終了しています。

    さて、
    横山さんの証明は、「任意の有限回の操作を行った時点では未完」という
    当然のことを証明しているだけです。
    操作A(n)が終わった状態をS(n)とすると。
    横山さんの証明では、S(n)を考えているだけだからです。

    しかし、無限ステップを完了するためには、当然、無限回の操作が必要なはずです。
    つまり、状態としてはS(n)のみを考えるのでは足りません。
    可能性としては、全ての操作が終わった状態があります。それをSとします。
    Sの不在が言えるなら無限ステップは完了しないでしょう。
    何の制約も無ければSが存在するのは当然のような気もしてきました。
    やはり、時間を導入して、有限の時刻で存在することを示そうと思います。

    【前提】
    ①最初、亀はアキレスよりも前にいる。
    ②二人の速度は有限である。
    ③アキレスは亀よりも常に早く走っている。
    ④亀は止まったりしない。
    ⑤時刻Tにおいてアキレスは亀に追いつく

    【証明】
    上記のもとでは、任意のnについてA(n)をとることができます。
    任意のnについて、操作A(n)が完了する時点(すなわち、さっき亀がいた地点にアキレスが到達する時刻)をt(n)とすると、t(n) < T が言えます。
    t(n)においては、アキレスは亀にまだ追いついていないからです。
    従って、全てのnについて、t(n) < T が言えます。
    すなわち、時刻Tにおいては、無限ステップが完了しています。
    証明終わり

    補足ですが、私は、無限ステップでも完了することがあるという立場で投稿しています。

    なるほど、面白いですね。では、こういうのは、どうでしょう。

    前提1)無限は限りなく続くものであり、その最終ステップなどない。
    前提2)アキレスが亀に追いつくには無限の最終ステップを経験せねばならない。
    前提3)アキレスは亀に追い付いた。

    この3つの前提のうち、前提3は問題ないですよね。前提1は定義であるので受け入れざるを得ないので、前提2を拒否することになるはずです。
    すなわち、「アキレスは無限の最終ステップを経験しない」ということです。
    ken7rowさんもその点は同じ考えだと理解して良いでしょうか。←【質問1】

    そして、ぼくはこの「無限の最終ステップを経験しない」ということをもって、「無限のステップは終わらない」と結論付けました。
    しかし、ken7rowさんは、【その「無限の最終ステップを経験しない」ということをもって「無限のステップは終わらない」と結論付けられる】とは限らない、とされるのですよね。

    そして、先の前提を次のように書き換える。
    前提1´)無限は限りなく続くものであるが、終わり得る。
    前提2´)アキレスが亀に追いつくには無限が終わらねばならない。
    前提3)アキレスは亀に追い付いた。

    そのようにして、矛盾を解消する。

    いかがでしょう。ken7rowさんの推論はそのようなものではないでしょうか。←【質問2】

    そのような矛盾の解消方法もあると思います。もし、ken7rowさんが、そういうことを仰っているのなら、それはアリだと思います。

    ただし、その解消方法では、僕の問題にしたい「無限の最終ステップは経験されるのか」という点は問いから取り残されたままになるのではないかと疑われます。この点についてどう思われますか。←【質問3】

    質問1「アキレスは無限の最終ステップを経験しない」

    →はい。私もそう思います。


    質問2 

    前提1´)無限は限りなく続くものであるが、終わり得る。

    →自然数が順番に左から右に並んでいるとします。
     その上をジャンプしながら移動してみます。
     このとき、その系列内にいる限り、必ず自分より右に自然数があります。
     しかし、その系列の外に出れば、話しは変わってきます。
     もし、全ての自然よりも右に足場があってそこに移動できたなら、、
     全ての自然数は自分の左側に来るわけです。
     (順序数ωの生成に似ている気がします。)
     
     アキレスの例でも、ステップは限りなく繰り返されます。
     どのステップにも、次のステップがあります。しかしながら、
     限りが無いのは回数なのであり、これらのステップを実行するために
     必要な時間の総和は有限なのです。
     時間の有限区間内に無限のステップからなる一つのプロセスが丸ごと納まっている。
     そして、その区間の右側にも、時間は存在しているわけです。


    質問3
    「無限の最終ステップは経験されるのか」という点は問いから取り残されたままになるのではないか?
     
    →最終ステップは存在しないので、経験することはできません。
     しかしながら、全てのステップを経験することにより、プロセスは完了するのです。
     確かに、Tの直前のt(n)というものはないので、時刻Tにどうやって到達するのか不思議な気はしますが、
     最終ステップの経験が必要だというのは、有限の場合からの連想にすぎないのではないでしょうか?
     「最終ステップを経験しなければ終わらない」というのは自明ではなく、
     主張するのであればそれ自身、証明が必要だと思います。

    >その系列の外に出れば、話しは変わってきます。 もし、全ての自然よりも右に足場があってそこに移動できたなら、全ての自然数は自分の左側に来るわけです。

    この点について、上記ブログ本文で僕は次のように言っています。
    「無限に交わらない交点を探すことなどせず、最初から一気に交点まで行ってしまうのが「実無限」の立場だろう。実無限の立場から言うと初めから超えられない溝などないのだろう。」

    この僕の実無限の捉え方がそのまま、ken7rowさんの無限の捉え方に通じているように思えます。そのような捉え方が有ることは否定しませんし、アリだと思います。
    しかし、

    >「最終ステップを経験しなければ終わらない」というのは自明ではなく、主張するのであればそれ自身、証明が必要だと思います。

    と仰っるように、可能無限の立場に立つために何らかの証明が必要だとは思いません。「最終ステップを経験しなければ終わらない」は、そのままそれが哲学的な問いを問うための問題設定であり、それ自体が可能無限の立場での無限の定義なのですから、それを、証明せよと言われても、前提が即ち結論であると言うしかありません。
    前提)可能無限の無限の捉え方においては、無限が完了するためには、無限の最終ステップが経験されなければならない。
    結論)可能無限の無限の捉え方においては、無限が完了するためには、無限の最終ステップが経験されなければならない。

    可能無限の立場に立ったままで実無限を否定しても、実無限の立場に立ったままで可能無限を否定しても、それは互いに違う前提を立てて違う問いをしているのですから、あまり意味のない否定ではないかと思えます。どうなのでしょう。

    一点、教えてください。

    「無限の最終ステップ」の意味ですが、
    「無数にある最終ステップ」といっているのではないですよね?
    「無限にあるステップのなかの最後の1ステップ」でよいですね?

    そうです。「無限にあるステップのなかの最後の1ステップ」です。

    横山さん、こんばんは。

    やはり、可能無限とか関係なく、単に、
    「終わりがない」ことと「終わらない」ことを混同しているだけではないでしょうか?
    誰しもが陥りやすいイドラのようなものです。

    私は、アキレスがこなすべきステップについて、下記のように解釈します。

    アキレスには、任意の自然数nについてこなすべきステップA(n)が存在するが、
    亀に追いつくまでにそれら全てを完了した。
    そしてそれらのステップ数は加算無限である。

    この場合でも、どのA(n)にも次のステップA(n+1)があるので、
    ステップには終わりはありません。でも全ステップが完了しています。
    各A(n)を、追いつく時刻Tまでの有限の時間区間内に
    スケジューリングできるからです。

    横山さんは、アキレスは、追いつくまでに、
    どのように各ステップをこなしたと考えるのでしょうか?

    やはり全部のステップをこなしたのか、途中までこなしただけなのか、
    実は有限個しかステップはなかったのか、
    そして、それを経験しなくては終わらないという最後のステップは
    どれだったのでしょうか?

    補足です。

    >「無限に交わらない交点を探すことなどせず、最初から一気に交点まで行ってしまうのが「実無限」の立場だろう。実無限の立場から言うと初めから超えられない溝などないのだろう。」

    →各ステップに1秒かかるとすると、この世には、全ステップを完了する地点は存在しません。そういう意味で、完了するには彼岸に渡らなければならず、それは非現実的です。

    しかし、アキレスのような例では、全ステップを完了する地点は此岸にあります。
    岸を渡らずともどんどん進めばそこに到達できるわけです。

    >アキレスには、任意の自然数nについてこなすべきステップA(n)が存在するが、亀に追いつくまでにそれら全てを完了した。そしてそれらのステップ数は加算無限である。この場合でも、どのA(n)にも次のステップA(n+1)があるので、ステップには終わりはありません。でも全ステップが完了しています。各A(n)を、追いつく時刻Tまでの有限の時間区間内にスケジューリングできるからです。

    このken7rowさんの見解はまさしく実無限のものですね。

    実無限派による見解:実無限派の実無限の捉え方では、無限は最終ステップなど持たなくてもそれを終えることができるような、一般数とは異なる特殊な性質を持つ。だから、最終ステップなどなくても無限の作業を終えることができる。実際にアキレスはやすやすと亀を追い抜くのがその証拠だ。

    可能無限派の見解:可能無限派による実無限の捉え方では、無限はすべてのステップをすでに内含しているのだから、アキレスによってその全ステップが乗り越えられたのであれば、その最終ステップも乗り越えられたはずだ。しかし、無限の最終ステップなどあるはずがないのだから、実無限は矛盾を内含していると言える。「最終ステップなど持たなくてもそれを終えることができるような、一般数とは異なる特殊な性質」など、端的に矛盾である。
    アキレスが亀にやすやすと追い付くのは、逆に実無限がその工程のなかに実在していないという証拠である。
    だから、可能無限は無限がすでにすべてのステップを内含しているとは考えないことにする。はじめから無限ステップが実在するなどという無限の捉え方はせず、好きなだけ多くのステップを取り出す可能性があるだけだと考える。その取り出し作業によってステップはその度に作り出され得るだけだとするのである。どれだけでも多くのステップを取り出し得る可能性が有ることは認めるが、実際に取り出すことができるのは高々有限のステップでしかない。そのような捉え方が可能無限の立場である。そして、可能性としての無限でしかないものであっても、実践ではそれで十分に役に立つのであればそれで良いと考える。


    僕は信条としていかなる場面でも矛盾律を軽視すべきでないと思っているので、「限りなく終わりがないはずのステップが終わり得る」とするような概念を導入するようなシステムはあまり好みではありません。だから、アキレスが亀に追いつくまでに無限のステップが為されたという言い方をするには余程の注意が必要だと思われます。
    ですので、可能無限の立場を取って、どれほどのステップが為されたかはいくらでも好きなだけ大きな数を要求することはできるが、所詮それは有限であるとする、そのようなやり方を採る方が懸命に思えます。
    以上が、

    > 横山さんは、アキレスは、追いつくまでに、どのように各ステップをこなしたと考えるのでしょうか?

    というご質問の答えのつもりです。ちゃんと質問の答えになっていれば良いのですが。

    で、アキレスが追いつくまでになしたステップのうち、
    最終ステップはどれでしょうか?

    アキレスは何のステップも必要とせず、追い付きます。

    >アキレスは何のステップも必要とせず、追い付きます。

    アキレスはステップA(1)もこなしていないのですか?
    最初に亀がいた地点を通過していると思うのですが。

    そのように言われるならそれをステップとして考えることもできます。

    可能無限の「可能」とは、「それを数えようとするならどこまででも数えることができる」ということを差しています。数えようとし始めなくても最初からあるものだとは捉えません。ですから、初めの亀がいる場所に到達することをファーストステップとするとするときはじめて、ファーストステップが構成されることになります。

    無限をそのように捉えると、「無限の最終ステップなるものを想定してその最終ステップまで到達すること」を要求しなくても、或る工程の最後の部分を「十分に細かなステップまで考察する」こともできるようになります。無限の彼方まで行かなくても十分に細かなステップまで見られたらよしとするのです。そうすると、実無限の言うように「限りなく終わりがないものが終わるところまで行ってしまうような、特殊なもの」を想定するという矛盾を受け入れなくて済むようになります。
    実無限のやり方では矛盾を受け入れざるを得ない部分があることを許すことで困難を乗り越えるのに対して、可能無限のやり方では矛盾を受け入れないで済むように無限を可能性だけのものとするのです。そのようにして、両者は、最終ステップまで到達しなくてもその工程を終えることができるとする、同じ結論に達します。そこへのアプローチとして、矛盾を受け入れるか受け入れないかの違いがあるのです。

    実無限派にしてみれば、「限りなく終わりがないものが終わり得る」という表現は単なる言葉のあやでそこに矛盾はないとされるのでしょうけどね。可能無限派にとってはその気持ち悪い「言葉のあや」は排除したいのです。

    そのような、実無限と可能無限の違いがあるので、
    「1/∞=0」と表記してよいとする、積極的な実無限派の数学者もいれば、
    「n→∞の極限において、1/
    n=0」という、やや面倒な表記をしなければならないとする、少し可能無限派っぽい数学者もいるのだと思います。、

    教えて下さい。

    可能無限の立場では、
    ①自然数全体の集合Nは認められますか?
    ②P (n)を「アキレスはステップA(n)を経験する」
    としたとき、下記の真理値は、何ですか?
    (∀n∈N)P (n)

    すみません。上記②の回答は当面不要です。
    (別の形の論理式に興味がありました。)

    色々考えたいことがあるのですが、まずは、

    >実無限派にしてみれば、「限りなく終わりがないものが終わり得る」という表現は単なる言葉のあやでそこに矛盾はないとされるのでしょうけどね。可能無限派にとってはその気持ち悪い「言葉のあや」は排除したいのです。

    「終わりがない」と「終わらない」字面は似ていますがは明確に異なる概念です。

    A.終わりがない ≡ 各ステップの作業順序について、最大元が存在しない
       (=最終ステップがない)

    B. 終わらない ≡ 有限時間内に全てのステップを完了することができない
           = 各ステップの完了時刻の列が上に有界でない

    A→B は通常の論理体系では成立しません。(終わりがなくても終わることがある)

    Aは、時間を使っていいなおすと、

     各ステップの完了時刻の列に最大元が存在しない

    といってもいいと思います。

    最大限が無いことと上界が無いこととを混同した場合も、アキレスのパラドックスが生じます。

    >「終わりがない」と「終わらない」字面は似ていますがは明確に異なる概念です。

    面白いですね。すごく良いことを考えてくださいました。これについて、僕の考えを言いたいと思いますが、ちょっと待ってください。その前に自然数の話について、もう回答が不要だということでしたがそこコメントを見ずに返信を書いてしまっていました。もったいないので一応挙げてしまいます。もちろんスルーしてくださって結構です。

    ---


    数学に詳しくないので、以下の話は眉唾で聞いてください。

    ふつう集合論は基本的に無限の要素すべてを集め尽くせるとするので、実在論の立場を採ると思います。
    それゆえ、可能無限派の中で集合論を否定する人もいて、そのために排中律まで失ってもよしとするようです。でも、それは数体系としてはかなり貧弱なものになってしまうので、多くの一般的な数学は実無限の立場で集合論を支持するようです。その意味では、すべての自然数の集合は実無限においての無限集合であって、可能無限では否定されると思います。
    ただし、そのような、集合を何かの集まりであるとするだけの素朴な集合論では、無限が矛盾していろいろ悪さをするので、無限が無視しないで済むような捉え方をするルールを設定し、その公理に則った範囲内で数を扱うことにして、無限が悪さをしないで済むように工夫された、それがZF公理やZFC公理だと思います。
    その体系によれば、無限集合の定義は「それ自身と1対1対応するような真部分集合をもつ集合」ということなのですが、それは無限集合を「数えきれないものの集まりすべてを集めて数えきったもの」というように矛盾を前面に押し出すのではなく、「数えきれないものの集まりであり、数えられないのであるから、そのすべてを数えきらないままに、すべてを集めたとしてしまったもの」だとした結果そのような定義になったのだと、僕には思えます。

    そして、自然数の集合についても「1を自然数だとし、自然数+1も自然数であるとしたときの、すべての自然数の集まり」とするのですから、それは確かに実無限の対象なのでしょうが、かなり可能無限的な色合いが強いように思えます。

    ありがとうございます。

    私も数学が得意なわけでもなく、また、
    実無限と可能無限の違いについてまだよくわからないのですが、
    ZF集合論には「無限の公理」と呼ばれるものがあります。これは、いわば、
    ある集合であって、そのどの要素に対しても、
    その"次"のものも要素として含むようなもの
    の存在を保証する公理です。
    これにより、自然数全体の集合の存在がZFの中では保証されるようです。
    ちょうど、横山さんが最後に書いたものに相当すると思います。

    また、「基礎の公理」というものもありますが、これにより、
    自分自身を要素に持つ集合は許されないことになるようです。
    従って、集合全体の集まりは集合として扱えないので、
    カントールのパラドックスは防止されることになります。
    この基礎の公理はほとんど使われることがないそうです。
    一方、この公理を加えることによるデメリットも小さいそうです。

    >「終わりがない」と「終わらない」字面は似ていますがは明確に異なる概念です。
    >A.終わりがない ≡ 各ステップの作業順序について、最大元が存在しない(=最終ステップがない)
    >B. 終わらない ≡ 有限時間内に全てのステップを完了することができない= 各ステップの完了時刻の列が上に有界でない
    >A→B は通常の論理体系では成立しません。(終わりがなくても終わることがある)

    これ、すごく面白いです。Aだからと言って必ずしもBだとは限らない。なるほど、その通りだと思います。
    論理的に「A→B」とするにはそれ自体を前提として入れ込まないとそれを言うことはできない。
    だから、どちらを前提にしても良いとするなら、「A→B」を前提だとしてしまうこともできるし、「A→B」が必ずしも言えるわけではないとすることもできる。
    たしかに、「A→B」が必然でないとするのなら、「最終ステップが存在しないとしても、すべてのステップが完了すること」があり得るという話になりそうです。そうして、「最終ステップが存在しないとしても、無限のステップが完了する」という文法設定が可能になりますね。
    そして、それは、その無限の最終ステップを捕らえなかったとしても、無限が終わった向こう側の地点に到達することをができる、とするものですよね。
    「無限の最終ステップに到達する」という矛盾概念を用いないでも、排中律を使える体系を立ち上げることができてばっちりな数体系だと言えると思います。

    しかし、それでも、僕は若干の違和感を覚えるところがあります。
    それは、最終ステップまで数え終わることができない数を数え終わらないままに、その数直線上を通過してしまえるとするそのやり方は、(切り出そうとすればどこまででも無限の値を取り出すことが可能であるという意味で)可能無限の立場をとるべきものなのではないかと疑われるのです。
    可能無限の立場では、無限は切り出し得る可能性としてだけあり、すでにそこに隠されているとは考えません。だから、そのような数を数えないで亀に追い付いてしまっても問題ありません。ただし、可能無限の場合、無限の溝は決して埋まらないままに、その溝をジャンプして渡らなければならないものであるので、たとえば、0.999…は1にはなり得ないと言えます。
    一方、実無限では、無限はすでにして実在している対象と考えるので、無限の溝はその無限の数によって埋め尽くされてしまって向こう岸にまで到達しているとされます。それゆえ、0.999…=1だとすることができます。しかし、その到達が完成するとき0.999…という無限の最終ステップは1という確定した数として決定されてしまうことになります。終わりがないはずだったものがそこに終わりを見せて終わっているものになってしまうのです。
    また、実無限を認めるということは0に×2を無限回施せば1になり得るとするような、数が数でなくなる「数の相転移」とでも呼ぶべき質変化があり得ることを認めることになってしまうので、その点はやはり、気持ち悪いです。

    0.999…=1とできるような体系を認めなければ数体系としては役に立たないこともわかりますから、その気持ち悪さは我慢するより他に仕方がないものだとも思いますが、やはり、気持ち悪いのは気持ち悪いです。

    面白いことを思いつきました。
    もしかすると、気持ち悪いのも尤も(正当?)なのかもしれません。

    面白いことを思いついたと思ったのですが、
    あまり面白くないように感じてきました。もう少し考えようと思います。

    概略を話すと、アキレスと亀のパラドックスでは、2つの時間が関係するように思います。
    ひとつは、アキレスと亀からなる系における客観的時間です。
    もうひとつは、観察者、あるいは考察者における主観的時間です。

    前者には、私の主張(横山さんによれば実無限)があてはまるように思われますが、
    後者では、横山さんの可能無限のような考え方が有効になるような気がしました。
    気のせいかもしれません。

    実無限が客観的時間に関連し、可能無限が主観的時間に関連する。おもしろそうですね。考えがまとまったら教えて下さい。

    そうですね。少し疲れてしまいました。
    ちょっと思ったことを書きます。

    横山さんは、鏡の左右反転について記事にされていたと思います。
    よくある答えは、「鏡は奥行を反転する。左右も上下も反転しない」というものです。
    しかし、これで納得してしまってはつまりません。むしろ気持ち悪さが残るべきです。
    「人間は水平回転を偏愛している」ということを納得して初めてパラドックスは解消できるからです。

    アキレスの件、私も気持ち悪さが残っています。何かまだあるのかもしれません。

    なるほど、人間の偏愛傾向までを考察の対象とする。きちんと整理するのはむずかしそうですが、面白そうな切り口ですね。

    本題から外れるかもしれませんが、自分の頭の整理も兼ねて投稿します。

    何かを定義する場合、通常は、有限定義であることが必要とされています。
    定義に要する記述が有限でなければならないということです。

    たとえば、A=A0を無限集合とします。
    Aから元を抽出して、可算無限集合を作ることを考えます。

    Aから一つ元を選択して、a0とします。
     a0 = 何らかの選択(A)
    Aからa0を取り除いてできる集合をA1とすると、これも無限集合です。
    (無限集合から有限個のものを除いたものなので、無限)
    次に、a1 = 何らかの選択(A1) として、残った集合をA2とします。
    次に、a2 = 何らかの選択(A2)として、A3を生成します。
    以下同様にすると(正式には帰納法)、任意のnに対してanが定まります。
      an=何らかの選択(An) (An+1 = An - {an})(nは自然数)

    ところが、「何らかの選択」については、選択方法が何も定まっていません。
    従って、具体的な各整数に対して、選択方法を具体的に記述しないと、
    定義内容が定まらないことになります。

    それでも、どのnについてもanの定義は有限長で記述できます。
     A0からの選択方法・結果
     A1からの選択方法・結果
     A2からの選択方法・結果
        ・
        ・
     Anからの選択方法・結果
      

    しかし、全てのnについて定義を完了するためには、無限長の記述が必要になります。
     A0からの選択方法・結果
     A1からの選択方法・結果
     A2からの選択方法・結果
        ・
        ・
        ・  

    もし無限長の記載が完成すれば、どのanも定義し終わっているので、
    それら全てからなる集合も内容が定まっており、
    そしてそれは無限可算集合になりますが、無限長の記載は通常はNGとされます。


    そこで、選択公理によって存在すると決められている選択写像をSとします。
    すなわち、Aの任意の部分集合Cに対して、Cの代表元:S(C)が決定していることになります。
    これを利用すると、
     an = S(An) (An+1=An-{an})(nは自然数)
    と1行記述するだけで、全てのnについてanが一意的に定義されたことになります。
    それら全てからなる集合Bは、可算無限集合となります。

    加算無限集合の定義の仕方から、無限を考える、というアプローチですね。僕には思いつかなかったやり方で興味深いです。

    しかし、選択公理なるものは、無限公理以上に実無限的な無限の捉え方をすることを必要とするもののように思われます。ZFC公理からCだけが外されてZFだけで用いられることがあるのも、その辺りが原因らしいですね。それで、実無限の立場を取っている人が加算無限集合の定義を考えるときには、そこに選択公理を持ってくることはとてもふつうでまったく問題ないと思いますが、無限とは如何なるものかを考察したいときにそれを持ってきてしまうのは、逆に考察を妨げてしまうものになってしまうのではないかという気がしています。

    まあ、でも、そこに選択公理を持ってくるということがどういう意味をもつのかという、有意義な考察課題が浮かび上がって来たことは確かですから、やはり、面白いですね。

    先の投稿は、選択公理の適用例として以前読んだものを、自分なりに考えを整理するために書いたものです。

    選択公理の妥当性については議論があるようですが、むしろ、ここで主張したいのは選択公理の妥当性よりも、無限集合の定義についてです。
    無限集合を定義するのに、定義の記述の長さ(文字数)自体が無限になってしまうと都合が悪い。(無限長でも物理的制約を無視すれば、記述を完了するのは可能だと思いますが・・・)

    例えば、「何らかの選択」が、乱数のようなものを使った選択のような場合は、
    全自然数に対して、乱数の出力結果をもとにした選択結果を具体的に書き出さないと、集合は確定しないわけです。すると、この定義は無限長になってしまう。

    一方で、「何らかの選択」の定義が、nの規則的関数のようなもの(選択写像はその一例)として簡潔に記述できるなら、有限長の記述により無限集合が一意的に定義できるので、その無限集合の存在は認めても問題ないと思うわけです。

    尚、あらためて読んでみるとあいまいでしたが、
    「どのnについてもanの定義は有限長で記述できる」とは、
    ∀n∃D(Dは有限長で、anの定義である。)
    (任意のnに対してnごとにanの定義を書ける)

    「全てのnについてanが一意的に(有限長で)定義」とは、
    ∃D∀n(Dは有限長で、anの定義である。) 
    (あるひとつの定義が書けて、それが全てのanの定義になっている)
    を意味しています。

    ふむふむ。

    結局、面白いことは出てきませんでした。
    まだ気持ち悪さは残っていますが・・・。

    標準的な論理体系のもとで、
    「終わりが無くても終わる(ことがある)」は証明できます。
    すると、もし「終わりが無いと終わらない」が証明できたとするなら、
    数学史上に残る大発見ということになります。

    そこでそれが成り立つ公理系を採用すると、数学や科学は破壊されるはずです。
    「終わりが無いと終わらない」は、単なる勘違いだと思います。

    ken7rowさんのこだわりを、たぶん正しく共有できていなかったと思いますが、その面白いことが出てこなかったのは残念でしたね。また、違う視点でも面白いことなどありましたら教えてください。

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