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2011年2月12日 (土)

集合論が実在論的なわけ≪ラッセルパラドクスの内包と外延8≫

ダブルバインドとしての、ラッセルのパラドクス

ラッセルのパラドクスとは、自己を排除するシステム(述語などによる2項の関係づけや集合など色々なシステム)の言及に対して、その言及自体をはめ込み入力する(この言及内容にこの言及内容自体を当てはめる)と機能不全に陥ってしまう、この機能不全の状態のことである。
だから、一種のダブルバインドだとも言える。
ダブルバインドとは、何かの発言に関して、その発言の言語的な表現内容と言語以外の表現内容が矛盾することである。たとえば、親が子に対して接触を避けようとしながら「こっちに来なさい」と言ったとしても子はどうしていいのか分からなくなる。従おうとしても元々発言が矛盾しているので従いようがない。
ラッセルのパラドクスは、「この文は間違っている」や「私は本当ことが言えない」などの自己否定の自己言及文と同じようにダブルバインドの内容であって、ノンバーバルな言語外の表現まで考慮するとすれば結局「Aであり非Aである」ということを言っているだけの無意味な表現なのである。

つまり、ラッセルのパラドクス文は次のものとして考えられる。
「『それ自身に述語づけられない述語である』という述語は、それ自身に述語づけられない述語である」……これは、これまで考えてきたように矛盾するダブルバインドである。だから、「『それ自身に述語づけられない述語である』という述語は、それ自身に述語づけられない述語である」という文は無意味である。ただし、「それ自身に述語づけられない述語である」だけでなら、ダブルバインドにはならないので無意味という訳ではない。

「自分自身を要素として持たないような集合の、集合」という言い方は、――自分自身を要素として持たない集合である――とする言及であると同時に、――自分自身を要素として持たない集合ではない――とする言及でもあるので、これもダブルバインドの一種だと言える。矛盾である。だから、「自分自身を要素として持たないような集合の、集合」は無意味である。ただし、「自分自身を要素として持たないような集合」だけでなら、ダブルバインドにはならないので無意味という訳ではない。

集合論が実在論的なわけ

と、ここまでなら、述語などの関数として考えたときのパラドクス文と、集合として考えたときのパラドクス文とは、きちんと対称的になっていて、非対称なところは見えない。しかし、前節までで考察してきたようにこの両者は非対称である。

パラドクス文を関数として見るとき、その関数がどんなものかを知るためには、何か関数の対象になりそうなものを持ってきて、これに対してどのような関係を持つか、どのような変換をするかが分かれば良い。或る一つの対象に対してどんな関係が持たれたかが分かれば、その関数の外延的意味を少しだけ知ることができる。或る百個の対象に対してどんな関係が持たれたかが分かれば、その関数の外延的意味ががずいぶん分かってくる。そして、世界中のあらゆる対象に対して、関係が持たれるか否か関係が持たれるとすればどんな関係になるかが分かれば、その関数の外延的意味がはっきり分かるのだと言えるだろう。
そこで、もしその関数の力が及ぶ範囲から外れてしまうような対象があったとしても、その関数はその対象に対して関係が持てないというだけで、関数自身が意味を失ってしまうことにはならない。だから、関数の対象は、そのたびに必要なものだけを持ちよってきて当てはめてみたり関係づけてみたりすればいいのであって、あらかじめ全てのものごとがどう関係するかを知っていなければならないというようなものではないのだ。

一方、パラドクス文を集合として見るとき、話は違ってくる。集合は要素の集まりである。そして、それがどんな集合であるかを決めるためには、何かの対象がその集合の要素になるかならないかが、分からなければならない。集合を外延的に表現しようとするとき、たとえば集合{0,1,2,3}などのようにその要素の全てを書き出すことができたり、決定することができたりするのであれば、その集合の要素を全て知ることができ、集合を正しく表現できる。
しかし、内包的に表現しようとする場合には、その集合の要素を全て知ることができなくなることがある。たとえば「集合の集合」などは、どう考えても、その要素の全てを挙げることなどできるわけがない。だから、このような場合には、世界中にあるあらゆる対象(モノコト)を一つ一つ持ってきて、その集合の要素であるか否かを確かめられなければならないのだ。つまり、何かを集合として見るということは、何かの対象がその集合の要素であるか否かを決定できることである。…と言えるだろう。
それゆえ、その集合の要素であるか否かが決定できないような対象がたった一つあっただけで、それが集合ではないことの証明になってしまうのだ。
パラドクスの述語バージョンと集合バージョンに、もともと違いがあったのではなく、それを関数として見るか集合として見るかに決定的な違いがあったのだ。
ここに、集合と関数の非対称性があり、集合論の実在論性がある。

この意味で、集合論は実在論を土台としている。一つの集合を内包的表現で言おうとすれば、世界中のあらゆるモノやコトがその集合の要素であるか否か決まっていなければならない。あらゆるモノコトがあらゆる分類に対して決定可能であること必要なのである。

ラッセルの間違い

蛇足ながら、もう一つ付け加えておくと、だから、ラッセルは間違えている。パラドクスの述語バージョンと集合バージョンは、自己言及によるダブルバインドという点で同じ内容のものであるのだが、この二者は非対称なのだ。
ラッセルが「ある状況では、確定した集合が一つの全体を形成しないことがある、と私は結論します。」と言ったのはその通りである。しかし、「wを述語ではないと結論せざるを得ません。」と言ったのは早計だったと結論せざるを得ない。「それ自身に述語づけられない述語である」という述語wは、そのwがそれ自身に述語づけられない述語であるかどうかを問うことが不可能であるのだけれど、それだからといって、これを述語でないと結論付けてしまってはいけないのだ。
ラッセルの個人的書簡について指摘するのは気が引けるし、ラッセルのような偉大な学者に突っ込みをいれられるほどの自信があるわけでもないが、この点ではラッセルは間違っていると思う。どうだろうか。

つづく 無限は実在するか

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