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2011年1月 4日 (火)

「『自身に述語づけられない述語である』という述語」≪ラッセルパラドクスの内包と外延1≫

これまで、カントの超越論的世界観を見ることで、独我論と実在論についてを考えてきたが、ここで、章を変えて、フレーゲやラッセル、ウィトゲンシュタインなどが立ち向かった論理と言語の問題を見ていくことで、独我論と実在論についての考えを深めていきたい。
現代哲学で大きな問題となっている名前と意味の問題や、無限と二値論理の問題、ラッセルのパラドックスなどのついて、それぞれに「独我論対実在論」の視点から、検討することによって、「内包と外延」「演繹と帰納」や「意義と意味」の問題を考えることにもつなげていきたい。

まず、ここでは、ラッセルのパラドクスについて考えてみたい。

 

ラッセルの手紙

まず、それぞれに論理学と数学の統一を目指していたラッセルとフレーゲの二人が、その破綻を発見してしまったときの手紙を見てみよう。
ラッセルからフレーゲへの手紙抜粋(1902.6.16)
「wを、『それ自身に述語づけられない述語である』という述語だとします。このとき、wはそれ自身について述語づけられるでしょうか。いずれの答えからも、その反対が帰結します。それゆえ、wを述語ではないと結論せざるを得ません。
同様に、自分自身を要素として持たないような集合の、(一つの全体としての)集合というものも、存在しません。
このことから、ある状況では、確定した集合が一つの全体を形成しないことがある、と私は結論します。」

この「『自身に述語づけられない述語である』という述語w」と「自分自身を要素として持たない集合の集合」が、ラッセルのパラドクスの2つのパターンなのであるが、パラドクスの内容としては結局同じものである・・・と言われている。本当に同じものなのか、一つずつ確かめてみよう。

パラドクス①「『自身に述語づけられない述語である』という述語w」について

「述語づける」などという言葉がとても不自然な言葉なので、変な感じがしてしまうが、意味としては通っている。
英語圏の文法では記述文は必ず「主語―述語」として捉えるものらしい。たとえば、「クロは犬だ。」という文で、「クロ」は主語であり、「犬だ」は述語である。「チビは小さい。」では、「チビ」が主語、「小さい」が述語。・・・つまり、「述語づける」というのは「表現する」という意味として考えてもいいもののようだ。「述語づける」を「表現する」とした方がまだ自然な感じがするので、言い変えてみよう。

w=「自身について表現していない表現である」という表現…とする。

このとき、wは自身について表現しているか。
表現できていると仮定すると、「自分自身について表現できている」と仮定していること自体が、「自分自身を表現できていない」ことを仮定したことになってしまう。これは、矛盾だ。
表現できていないと仮定すると、「自分自身について表現していない」と仮定していること自体が、「自分自身を表現している」ことを仮定したことになってしまう。これも、矛盾する。
だから、w=「自身について表現していない表現である」という表現が間違いであったはず。
ゆえに、wなどという表現は存在しない。…と結論付けられる。

でも、「自身について表現していない表現である」などという表現のどこにも変な所は無いはずなのに、どこで間違ったのだろうか・・・・。

これが、パラドクス①である。パターン②は次考える。

つづく ラッセルパラドクスの内包と外延2

ラッセルパラドクスの内包と外延 目次

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