フォト
無料ブログはココログ

« 独我論と実在論が一つになる地平≪超越論的な真理は本当か10≫ | トップページ | 「『自身に述語づけられない述語である』という述語」≪ラッセルパラドクスの内包と外延1≫ »

2011年1月 1日 (土)

トートロジーは何も語らないか

「男の価値は何を残したかで決まる」はトートロジーか

金城浩二氏がテレビの「クイズ紳助くんvs探偵ナイトスクープ」という番組で取り上げられていた。
氏は、お母さんから「男の価値は死ぬ時に何を残したかで決まる」と言われたのを機に、成功していた仕事を捨てて、サンゴの飼育に向かったのだそうだ。そして、サンゴの人工産卵を世界で初めて成功させ、「てぃだかんかん」という映画にもなったらしい。なかなか、できることではない。素晴らしくて凄いと思った。
しかし僕には、その感動的なストーリーとは別の所で、もっと気になることがあった。

それは、この「男の価値は死ぬ時に何を残したかで決まる」という文が、トートロジーであるにもかかわらず何か意味あることを語っていると思えたことである。

「男の価値は死ぬ時に何を残したかで決まる」という文はトートロジーである。なぜなら「男の価値」なんてものを実際に量って比べることなどできないからだ。「男の価値」を合理的に数値化するような決まりなど無いのだから、その「意義」をはっきりさせようとするなら、自分で決めてしまう以外に方法は無い。
つまり、「【男の価値】とは『死ぬ時に何を残したかで決まる』ものであることにする」と定義してしまうしかないのじゃないか。そして、そうすると「男の価値は、死ぬ時に何を残したかで決まる」という文は「【男の価値】とは『死ぬ時に何を残したかで決まる』ものであることにする」という文と等しくなってしまう。

言いかえると、この文は「男の価値とは死ぬ時に何を残したかによって決まるものであるとすると、男の価値は死ぬ時に何を残したかで決まる」とすることができる。だから、その意味で、この文はトートロジーなのだ。

 

トートーロジーは何も語らないか

しかし、この文は何かを語っているのじゃないだろうか。
ウィトゲンシュタインは「トートロジーはあらゆる命題から帰結する。つまり、トートロジーは何も語らない。」(論考)と言っている。トートロジーは何も語らないはずなのだ。
それなのに、「男の価値は、死ぬ時に何を残したかで決まる」は何かを語っている。その証拠に、金城氏はその文の志している何かを力にして人生を転換し、サンゴの育成に成功したではないか。

「【男の価値】とは、『死ぬ時に何を残したかで決まる』ものである」という文Aと、「男の価値は、死ぬ時に何を残したかで決まる」という文Bは、「AならばB」として一つの文にまとめられればトートロジーになる。
トートロジーにはなるのだが、このAとBが一つになる前の、その間に、なにがしかの世界が生じていて、そこに意味があるからこそ、金城氏の生を支えることができたのではないか。

この「男の価値は、死ぬ時に何を残したかで決まる」という文が、世界についてに何も語っていない文でありながらも、生き方の方向性を示すことができるという・・・この事実は、単に、決意表明であるのだから当然だと片づけてしまうこともできる。

しかし、ここに、その決意表明があることによって、一つの世界が現れているのだと言えるのではないだろうか。

思いつきの言々

« 独我論と実在論が一つになる地平≪超越論的な真理は本当か10≫ | トップページ | 「『自身に述語づけられない述語である』という述語」≪ラッセルパラドクスの内包と外延1≫ »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/50456829

この記事へのトラックバック一覧です: トートロジーは何も語らないか:

« 独我論と実在論が一つになる地平≪超越論的な真理は本当か10≫ | トップページ | 「『自身に述語づけられない述語である』という述語」≪ラッセルパラドクスの内包と外延1≫ »