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2011年1月22日 (土)

集合と関数はどう違うか≪ラッセルパラドクスの内包と外延7≫

ウィトゲンシュタインはラッセルのパラドクスについて次のように言っている。

「3・333 関数自身をその関数の入力項にすることはできない。…
関数F(fx)が自分自身の入力項になり得たと仮定してみよう。
そのとき「F(F(fx))」という命題が存在することになる。
ところがこの命題において外側の関数Fと内側の関数Fは異なる意味を持っているのでなければならない。…
かくして、ラッセルのパラドクスは片付く。」(論理哲学論考)

本稿前節までで、ラッセルのパラドクスの形を2つに分けて考えた。
「w={x|x∉x}において、wはwの要素か」という集合の形のものと、「Fx=a(Fx≠xのとき)におけるFa」という関数の形のものとである。関数の形はさらに、問題の部分のみを抽出して、「Fx=a.x≠aにおけるF(Fx) 」として考えてもいいだろう。
この集合式と関数式とを見比べるとウィトゲンシュタインの言っていることがはっきりする。
{x|x∉x}は「自分自身の中に自分自身を含まない」と読むのが普通だろうが、この「自分自身」という言い方は、「自分が自身に代入され、それが無限に循環し続ける」というイメージにつながる。
これに対して、F(Fx)は、「某かのことを2回施す」と読むのが普通だろう。xに対して内側のFが働いてFxにし、さらにそのFxにそとがわのF( )が働いてF(Fx)にするという意味に読まれるべきだろう。しかし、これは無限に循環するイメージには、ならない。実際に、内側の(Fx)と外側のF( )とではその定義域が異なり、別の関数になっているからだ。内側の関数の定義域は「a以外のあらゆる値」であるが、内側の値域が「a」になるため、外側の定義域は「aでありかつaではない」を示すことになり、定義域が空になる。それゆえ、この関数には解が存在できなくなる。
ただ、解は無くなるのだけれど、それだけのことであって、無限循環に陥るものではない。
関数として捉える場合には、その外延すべてを一括りにして考える必要はなく、矛盾する外延を対象から外し取り除くことによって、矛盾自体を捨てることができ、パラドクスが消失していくのだ。

それに対して、集合では、無限にある全ての要素を一括りにして飲み込んでしまうので、「自分が自身の要素になり得ず、かつ、自身の要素として在る」という矛盾の中で、永遠に循環し続けなければならないことになってしまう。つまり、集合として捉えた場合、その外延対象全てを(外延として定めきれないようなものまでひっくるめて)実在するものとしてしまうことによって、パラドクスを生み、身動きできなくなってしまうのである。だから、ラッセルのパラドクスは、集合の実在論的視点が矛盾を抱え込んでしまうことによる混乱だと言えるだろう。

ウィトゲンシュタインが次のように言って集合論を切り捨てているのは、このことが関係しているのかもしれない。
「6・031 集合論は数学では全くよけいである。」
ただし、集合論は本当に哲学的には使えないものなのだろうか。それに対しては慎重に考えるべきだと僕は思う。

それでも、実在論的な視点(言いかえると、神の視点と呼ぶべきもの)による世界把握は、無条件にどこまでも許されるわけではなさそうである。何が許されて。どうなるとダメなのか。その境界があるのだろうか。

つづく ラッセルパラドクスの内包と外延まとめ

ラッセルパラドクスの内包と外延 目次

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