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2011年1月12日 (水)

外延が定まらなくても述語か≪ラッセルパラドクスの内包と外延5≫

パラドクスの述語バージョン

ラッセルのパラドクス集合バージョンは、不十分な内包表現のために集合になっていないものを集合としてしまったことによる混乱であった…ということを考えた。
では、述語バージョンではどうだろう。述語バージョンについても、不十分な内包表現のために述語になりきれていないものを述語にしてしまったということなのだろうか。

文の意味から順に考えてみよう。
Wを「それ自身に述語づけられない述語である」とすると、Wはそれ自身に述語づけられるか。これは、「Wはそれ自身に述語づけられない述語である」が真であるか偽であるかが分かれば、判明できるはずだ。
どうだろう。真だろうか。

まず、真としてみる。「『それ自身に述語づけられない述語である』はそれ自身に述語づけられない述語である」を真とするのだ。これは、述語づかないことを仮定しているのに、文意は実際には(メタ言語の視点では)述語づいてしまっていることになる。だから、矛盾だ。
次に偽としてみる。「『それ自身に述語づけられない述語である』はそれ自身に述語づけられない述語である」ではない…とするのだ。これは、述語づかないことを否定しているのだが、否定していること自体が、実際には(メタ言語の視点では)述語づかないことの証明になってしまうことになる。だから、これも矛盾だ。
矛盾である。真でも偽でもないのだ。

ということは、Wはそれ自身に述語づけられるとも、述語づけられないとも、決定できないということだ。すると、Wは述語ではないということか?
しかし、真でも偽でもないというのはどういうことか。Wが述語でないと、なぜそんなことが言えるのか。分かったような気もするが、肝心のところがはっきりせず、僕にはどうもよく分からない。

言葉の内包的意味と外延的意味

もう一度、このWの内包と外延とは何か、から考えてみよう。

集合の定義と同様に、言葉の意味を定義するのにも、やはり内包的方法と外延的方法がある。
内包的な意味指定とは、その言葉が示す性質を別の言葉によって表すことで、外延的な意味指定は、その言葉によって示される対象を並べていくことによって表すことだ。
広辞苑では言葉の意味をどう説明しているだろう。たとえば、【白鳥】の意味を引いてみると、【白鳥】カモ目カモ科の水鳥。大形で首が長く、多くは白色。オオハクチョウ、コハクチョウ、コブハクチョウ、など。・・・とある。
この説明文の内、「カモ目カモ科の水鳥。大形で首が長く、多くは白色。」の部分が内包的な意味指定で、「オオハクチョウ、コハクチョウ、コブハクチョウ、など」が外延っぽい意味指定だと言える。
ただし、この「オオハクチョウ、コハクチョウ、コブハクチョウ」は外延の本当の具体的対象とは言えない。これらは、具体的に並べられるような実体を指定していないからだ。実際に具体的にここに並べて指定することができるのは「あのオオハクチョウ、そのコハクチョウ、このコブハクチョウ」など、個々のサンプルであって、「オオハクチョウ全般」や「コハクチョウ全般」ではない。だから、厳密に、外延的な意味指定をしようと思えば、個々の対象をすべてとらえる必要があるのかもしれない。しかし、過去未来まで含めてすべてのハクチョウを指定することなどできるわけがない。

それでも、何か一つの対象を持ってきて、それが「その言葉」によって示されているものであるかどうかを確かめることで、その言葉の外延を一つ一つ挙げていくことはできる。つまり、その言葉に一つずつ対象を当てはめていくことによって、外延を指定していくようにすればいいのだ。

Wの内包と外延とは何か

そうすると、Wの内包と外延とは何か。
Wの内包は、「自身に述語づけられない述語である」ということそのものだろう。すでにそこに、その性質を語っているのだから、そのまま使える。
W自身がWの内包なのだ。

では、Wの外延は何か。
Wの外延は、その内包「自身を述語づけられない述語である」を満足させるような「対象」すべてとなるだろう。
たとえば、「白い」という述語はWの外延だ。「白い」という述語は、述語だから、白くない。(当たり前だ)「『白い』はそれ自身を述語づけない述語である」のだ。だから、「白い」はWの外延だ。
たとえば、「ハクチョウだ」はWの外延だ。「ハクチョウだ」は、述語だからハクチョウじゃない。(当たり前だ)「『ハクチョウだ』はそれ自身を述語づけない述語である」のだ。だから、「ハクチョウだ」はWの外延だ。
ほとんどの述語はWの外延であり、Wの外延は、想像できないほど膨大にある。おそらくは無限にあるだろう。

では、W自身は、Wの外延になり得るのか。それには、だから、「『自身に述語づけられない述語である(W)』は自身に述語づけられない述語である」が真かどうかを考えると良いはずである。
しかし、それはすでに考えた。矛盾になってしまって、真か偽かが定まらなかった。

Wはまっとうな述語なのか

Wの内包と外延を考えてきたが、もう一度、元に戻ろう。Wの外延が定まらなくてもWは述語だと言えるのだろうか。

Wの内包はWそのものだった。そして、Wの外延は膨大にあり、おそらく無限にある。その膨大にある外延の中で、W自身が外延になろうとした時、Wの内包と外延は崩壊してしまい、矛盾に陥ってしまった。
このW自身がWの外延となる一点の特異点を除いては、Wは内包と外延を持ち、言葉として正しく機能していた。だから、この一点の特異点のみによって、Wを述語ではないとか言葉ではないなどということを結論づけては、失うものが大きすぎる。
それに、述語を機能できなくするような外延があったからと言って、そのたびに、その述語を述語として認めないことにしていては、どんな言葉も使えなくなってしまう。たとえば、述語「白い」の外延として当てはまるものは膨大にあるが、「傷の痛み」という言葉を外延として当てはめ、「傷の痛みは白い」などという文を作っても、これは単なるナンセンスだから真でも偽でもない。だからと言って、このこと一つを取って「白い」がまっとうな述語ではないと結論づけることはできない。

同様に、WにWを当てはめると、文が文でなくなってしまい、真偽が問えなくなってしまうので、述語として働かなくなる。しかし、そのような一つの外延による一つの矛盾のために、正しく働ける膨大な外延まで、すべて捨ててしまう必要はない。この、矛盾を生む外延だけを外すことによって、Wを正当な述語として残すことができるのではないだろうか。

外延が定まらなくても述語は述語

集合バージョンで考えた時には、不都合な外延が一つあるだけで集合が集合として不十分なものになってしまった。このような、矛盾を生む「集合もどき」を正しい集合にするには、内包の条件を修正し、集合自体を別のものに作り直す必要があった。

それに対して、述語では、不都合な外延があっても、その外延だけをその述語の働く範囲から外して考えることができる。述語自体を別のものに作り直さなくても、その適応範囲に制限を加えるだけで、そのまま述語を使い続けることができるのだ。

だから、集合では、一部でも外延が定まらない部分があるのなら、それは集合とは呼べないが、一方、述語は外延の定まらない部分がいくらあったとしても、外延の定め得る範囲においては依然、述語なのである。

もともと、ラッセルのパラドクスは、集合バージョンも述語バージョンも同じものを、言い方を変えて表現しただけのはずであったのだが、集合と述語は実は非対称なものであったらしい。ウィトゲンシュタインが「論考」で集合を否定したのも、ここに原因があるのだろう。

次節では、このパラドクスを一般化することで、パラドクスの意味するものをさらに深めてみたい。

つづく ラッセルパラドクスの内包と外延6

ラッセルパラドクスの内包と外延 目次

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