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2010年11月24日 (水)

独我論と実在論が一つになる地平≪超越論的な真理は本当か10≫

カントの「純粋理性批判」について、その世界観を読み取り、検討してきた。僕の読み方が偏っている部分もおそらく多かったと思う。本当は、「アンチノミー」や「観念論論駁」についても考えていく必要があるのかもしれないが、ここまでの検討によって、独我論と実在論に関して一つの整理ができるように思われるので、いったんまとめておきたい。

 

「世界の存在」について、カントは、「超越論的な認識」によって世界のあり方を問うことで、「アプリオリな総合文」を紡ぎだすことができると提案した。

その方法とは
① 人間は物自体へ直接に到達することができないが、「形式」を当てはめることによって、意味のあるものとして「世界」を理解することができるようになる・・・・という認識モデルを設定する。

② そこに立ち上がってくる「私の世界」を、実際にそーなっているのだからと「認識の価値」を逆転させて、「私の世界=実在する世界」として認識する。

③ そして、その「世界像」を「唯一の我」が「統覚」することによって、「唯一の実在世界」として表し、かつ、正しい「アプリオリな総合文」を得ることができるとする。

というものだった。

ふつうの一般的な実在論も、他我を認めない独我論も、培養液の脳の話も、結局、「神の視点から見て、本当に存在する」としたり「神の視点から見て、本当は○○かもしれない」としたりするような「本当は」というものを前提とする点において、似たもの同士の世界観だとも言えるだろう。これらの世界観は、経験を俟たないで、勝手に神の視点をでっちあげているという意味から「先験的な実在論」のグループにまとめられる。

これに対して、そのような「本当」など無いのだとする世界観がある。
目の前に置かれているデータをそのまま受け入れて、それだけが世界を立ち上げるための素材なのだとする立場である。
この世界観は一見、「私の世界」だけを優先するものであるので、「観念論」や「独我論」と同じように思える(実際、「超越論的」な意味での観念論や独我論なのではあるが、)。
世界を統覚するべき「コギト」が、時間空間やカテゴリーというような形式によって(神の視点に頼らないで)、世界のデータを分別し、分解合成し、何かしら意味あるものとして理解できるようになる・・・・・というものである。
この世界観は、勝手に「神の視点」をでっちあげることがなく、経験だけから世界を紡ぎ出しているので、逆に「経験的な実在論」のグループにまとめることができるのだ。

実在論の対極に独我論があるのではなく、「先験的実在論」の対極に「経験的実在論」があるというのだ。
カントのいう「超越論的」な世界像は、この世界観の側に位置するものであり、ウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」で説いている「世界は私の世界」の独我論と同じタイプの世界論だと言えるだろう。

しかし、世界の立ち上げ方には、さまざまなものが考えられる。

たとえば、因果律。
ふつう「原因があって結果が起こる」とする因果律をとりいれた世界観が、一般的である。しかし、因果律が否定された世界というものも、可能であるはずである。
因果律は物自体の側にあるのではなく、人間が考えた「形式」でしかないのだからだ。

でも、本当にそうなのか?
「因果律の否定」が可能だとしても、それを一つの世界観として受け入れるかどうかを判断するための「絶対的な基準」は原理的にないのじゃないか。
我々は、そのような「神の視点」に頼らない道を選んだのじゃないか。

つまり、「因果律」が「本当は」ある・・・とか「本当は」無い・・・などと言っている時の、その「本当は」を捨てたのだから、「因果律」を受け入れるか否かという問題は、結局、「便利だ」とか「好きだ」とか「合理的だ」などという「私なり」の判断を基準にするしかないのだ。
もし、「因果律のない世界観」が不便で不合理なものだったとしたら、それだけで十分に否定されるべき世界観であることになるだろう。

こうして、「本当は因果律がないのかもしれない」などという言い方は、その意味が宙に浮いてしまい「使えない」発言でしかないものになる。

同様に、
「他我など無い」や「過去や未来など無い」などといったタイプの独我論も、「本当はそーかもしれない」という事を前提としている発言だから、それ自身、宙に浮いてしまい、意味を失ってしまう。

そして、「世界は私の世界」というタイプの独我論のみが残ることになる。

一方、「コギト」は、世界を統覚する際に、「世界」というカードの裏面に隠れてしまう。このとき「世界は私の世界」という世界記述も、同じく、「世界」というカードの裏面に隠れてしまって、世界内の事がらとして語ることはできないものになる。
だから、「世界」というカードの表側には、実在論的な表現しか残らないことになる。

こうして、「独我論」は「実在論」と一つになる。

これが「独我論と実在論が一つになる地平」である。

************

ここまで見てきたように、カントとウィトゲンシュタインは多くの共通点がある。

・・・世界は、私の形式によって開かれる、私の世界である。
・・・しかし、それゆえに、それは本来的な実在である。
・・・また、それゆえに、世界には認識することができない限界がある。
・・・人は、その限界を超えて、不可能を語ろうとするために、誤謬する。
・・・などなど、

この2者が、まったく、同じ哲学の流れの上にあることには間違いない。

しかし、決定的な違いがある。
ウィトゲンシュタインによると、「アプリオリな文は必ず分析命題であり、総合命題ではあり得ない」のである。

しばらく、カントについて考えてきたが、
次回からは、章をあらためて、ウィトゲンシュタイン周辺や無限と有限の問題について考察していくことで、アプリオリと総合判断についてや独我論と実在論についての考えを、さらに掘り下げてみたいと思う。

つづく ラッセルパラドクスの内包と外延

超越論的な真理は本当か目次

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コメント

カードの表と裏。私が退くことで、世界が立ち上がる。カードをめくると裏が見えて、表が見えなくなる。納得しそうです。

思いつきですが、表しか見ることのできないカードというのはどうでしょうか。表=私=世界。裏は決して見ることができない。あるかどうかもわからない。

他我を認めない独我論は、神の視点。?。他我を認めない独我論といえども、独我の中に、神の視点さえ含むんじゃないですか。

「純粋」と「論考」、「実践」と「探究」は対応してる、というのは、おかしいですか。永井さん
は、「実践」や言語ゲームがあまりお好きじゃないようですが、つながりがあるような気がしました。

貴殿のブログは、その辺の本より、ずっと面白いです。


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