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2010年9月11日 (土)

独我論はどのようにして実在論になるか≪超越論的な真理は本当か9≫

実在論は観念論になり、観念論は実在論になる

カントは「純粋理性批判」第1版の「第四観念性の誤謬推理」で、観念論と実在論との関係を次のように述べている。カントの分かりにくい文を少し長く引用する。

「・・先験的実在論者は後に経験的観念論者に転ずることになる。彼は、感応の対象が外的対象であるなら感応を離れてもそれ自身が実存在を有せねばならぬという、間違った想定をしたうえで、我々の感応の表象では対象の現実存在を確定させるのに不十分だとするのである。
これに対して、先験的観念論者は経験的実在論者である。単なる自覚の外に出ることなく私における表象の確実性(すなわち「我思うゆえに我あり」)より他の何も想定することなくして、物質の実在性を承認する。まさしく彼はこの物質や物質の内的可能性をもって、我々の感性を離れては無であるところの現象とみなすゆえに、物質は彼にとって一種の表象である。…
我々はすでに最初にこの先験的観念論を採ることを宣言した。物質の現存在を、我々自身の現存在と同じく、我々の単なる自覚を証拠として想定し、証明できるのである。なぜなら、私が私の表象を意識し、表象と表象を有する私自身が実在しているからである。私は外的対象の現実在性に関しても、私の内的感能の対象(私の思考)の現実在性に関すると同じく、推論を必要としない。……」

文は難解だが、論旨ははっきりしている。「実在論は観念論になり、観念論は実在論になる」というのだ。僕が理解しているその内容を述べつつ、独我論と実在論について考えたい。

 

盲国に闇なく、聾国に閑なし

たとえば、生まれつき目の見えない人が、見えるということが何を意味するかを理解するのはすごく難しい。もし、その世界にいる人間が皆、生まれつき見えない人ばかりだったとしたら、その世界では「光」や「明」や「色」などという概念は、何の意味も持たないだろう。「光」が無いだけでなく、「闇」さえ無いのである。もちろん、自分たちが盲人であるという認識など無い。
Mou01

盲者の世界は暗黒ではない。色がないだけでなく無色でもない。そんな晴眼者用の言葉で語れる世界ではないのだ。

また、たとえば、その世界にいる人間が皆、生まれつき聞こえない人ばかりだったら、その世界では「音」や「騒寂」と言った概念は何の意味も持たない。これは「音」がないだけでなく「無音」でさえないような「無さ」である。

では、晴眼で健聴の人間にとっては世界の全てが見えて聞こえているのだとしていいのだろうか。
我々がまだ気づいていないような、世界の理解の仕方や認知の仕方があるかも知れない。だから、本当は○○の状態にあるのだけど、我々はその「○○さ」を知らないので認知できないだけなのではないか、ということを問題にしようと言うのだ。

しかし、そんな訳の分からない「○○さ」による世界認知など、可能なのだろうか。また、そんなつかみどころのない世界理解に、何かの意味があるのだろうか。それは単に空想上の話で、現実世界とは関係の無いことなのではないか。

誰も知らないような形式で世界を見ることは不可能であり、無意味なのであろう。
そんな世界を実在としても何にもならないし、何もならないと消極的に言うだけでなく、もっと積極的に「実在しないのだ」と断定すべきなのだろう。
我々人間と相互作用することができない物質「ニュー・ニュートリノ」があるかもしれないというのが、空想の話でしかないのと同じである。私に認知できない物質が存在することは、無意味であり、不可能であり、そんな物質が実在するはずがないように、我々の知らない「○○さ」による世界認識など無いとすべきなのである。

 

世界という本は私という読者に読まれてはじめて成立する

こうも考えられるか。たとえば、小説は読者の心に届いてはじめて作品として成立する。楽曲は聴客一人一人の心に届いてはじめて楽曲として出来あがる。誰にも読まれない小説は小説ではなく、誰にも聞かれない音楽は音楽ではない。
世界だって、誰にも認知されなければ世界ではないのではないだろうか。そこに光を見る者がいるのなら、世界に光は存在できる。しかし、そこが盲人の世界なら光の存在は無い。(ただし、「無い」と言っても光という概念がないのであるから、「有るわけでも無いわけでもない」という次元の「無い」である。)
そして、逆に、誰かに実際に認知されたら、それこそが「世界がある」ってことなのではないだろうか。
Hon01

世界という本は私に読まれてはじめて成立する。誰にも読まれないなら何物でもない。ただ何ものでもない本はある。

僕はKを愛している。もし、この世界全体が夢だったとしても、この愛は本当にあると言っていいんじゃないか。,それに、「これは夢かもしれない」という懐疑こそ空想というべきであって、今ここに見えて触れられるモノなど、在ると確信をもてるモノこそを、実在としなければならないのじゃないか。地動説のアイデアを知らなかった昔の人にとって、「天が空を回っていることが間違いかもしれない」というのは、やはり空想にすぎないのだ。だから、天動説的世界を「本当」だとしなければならないだろうし、事実、それ以上の「本当」など無いのではないだろうか。

 

「実在」とは

つまり、世界は必ず誰かの世界として存在することしかできないのだ。そして、それを実際に確認できるのは、私の世界しかない。だから、私がその存在を確信するものは、必然的に実在するのである。「実在」とはそういう使い方をすべき言葉なのではないだろうか。「実在」とは、神などという想像上の確定者による存在を意味する言葉ではなく、現実に世界を認知している私が、現実にどう認知しているかによって存在すること、その意味で現に存在しているモノの、存在の仕方を意味する言葉だとせねばならないのだろう。

こう考えると、「神の視点という客観性をもった物が実在している」とする実在論の世界は、その不可能性ゆえに、空想上の世界になってしまう。つまり、先験的実在論が経験的観念論になってしまうのだ。
逆に、「神の視点など無意味だ」とした観念論の方が、実在の世界を手にすることを可能にする。つまり、先験的観念論が経験的実在論になってしまうのだ。

 

独我論が実在論になるわけ

この「先験的(超越論的)観念論」の考えを当てはめて考えると、独我論の一部は否定され、一部は実在論と一つになる様子が見られる。
つまり、「私以外の人間には意識がないかもしれない」とする「対他我-独我論」や「私の外に世界が実在しないかもしれない」とする「対モノコト-独我論」は、「本当は○○かもしれない」とする考え方をしているので、それ自身に神の視点を内包していると言えるだろう。だから、空想上のおとぎ話としての「実在」を語っているだけであるとして、否定されることになる。
これに対して、「世界は私の世界」とするような、ここにあるこの世界を実在だとするような、「対実在-独我論」こそが、世界を表すことのできる、唯一、有意味な世界観であり、これが実在論と一つになっていく独我論である。
こうして、カントの先験的(超越論的)観念論は独我論であり実在論であるモノになっていく。そして、ウィトゲンシュタインの「世界は私の世界である」という言につながっていくのである。

ただし、カントは「純粋理性批判」の第2版では、この「第四観念性の誤謬推理」を削除し、「観念論論駁」に改める。この「論駁」も面白いところもあるのだが、論旨にあやふやな所があり、カントの苦悩がうかがえる。

次節で、これに触れるかどうか、僕も迷っている。

つづく 超越論的な真理は本当か(まとめ)

超越論的な真理は本当か目次

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