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2010年8月17日 (火)

アプリオリな総合文の作り方(後)≪超越論的な真理は本当か7≫

「あなたはこの文が理解できる」

前節では、「だって、そーなんだもん」をキーワードにアプリオリな総合文が作られる様子を見てきたが、ここではこの課題文についてと、超越論的自我の問題を考えることで、アプリオリな総合文の出来方について、もう少しくわしく考えてみたい。

課題文「この文を読んでいるあなたはこの文が理解できる」
この文は、つねに真なる総合文になる。

まず、この課題文は分析文ではない。主語の「この文を読んでいるあなた」に、「この文の意味が分かる」という内容が、はじめから含まれているというということは、考えられない。「あなた」という対象の概念と「この文が分かる」という事態の概念が、実際にそうなっていることによって結合されて、はじめて両者が一つの新しい認識を生みだすことができる文になる。世界について何らかの情報を語ることができる文になる。総合文である。

それでは、この課題文は総合文なのに、「つねに真である」と言うのは、本当だろうか。
この文の真偽を決定するために、この文が読まれる場の状況を4つに分けて考えてみる。

① ある人が、この文章を読んでいる。かつ、文の真偽が問える程度に内容を理解することができる。
② ある人が、この文章を読んでいる。かつ、文の真偽が問える程度には内容を理解することができない。
③ ある人が、この文章を読んでいない。かつ、文の真偽が問える程度に内容を理解することができる。
④ ある人が、この文章を読んでいない。かつ、文の真偽が問える程度には内容を理解することができない。

こう分類して見ると、この4つのパターンの内、①のパターンの時には課題文は「真」になり、②③④は、真偽が問われない。
②④は、文を理解できず、③④は、この文を読んでいないのだから。この文の真偽を問うことはできない。
つまり、この文の真偽が問題になるのは、①のパターンの時しかあり得ない。だから結局、文の真偽が問われるときには、この文は必ず「真」になるのだ。

この文が「真」なる「総合文」になるというのは、文自体が、必ず「真」になる恒真命題だからではない。
この文と、それに対する人との間で、真偽を問う「関係」が生じ、その関係の中で真偽が決定されることになる。
そして、②や④のような本来なら「偽」とされるようなパターンを、真偽を問うことができない状況に追い出すことによって、この言語系の中に入れないようにしてしまうのである。

カントがたとえば時間や因果律をアプリオリな総合判断だとしたのは、これと同じように、その内容が「真」になる以外は「真偽不問」になってしまうような言語系が生じている状況があるのではないだろうか。それによって、必ず真になる総合文ができているのである。

カントによれば「時間」は「物自体」には含まれない。
世界を解釈する側が、いわば勝手に、「時間」というフレームを設定することによって、はじめて世界を見ることができる。だから、「時間」というフレームの無い「世界」は我々にとって無意味であるか、あるいは「無」になってしまう。
もし、この言語系の外に出ることができたとしたら、「時間」の無い世界というものがあり得るのかもしれない。我々と全く異なる言語を持つ宇宙人が、時間を用いないで、この世界を「見る」ことができるのかもしれない。しかし、我々は、我々の言語から出ない限り、その内容を想像したり理解したりすることはできない。そして、我々は、我々の言語から出ることはできないので、「時間」は、世界を見るときには、つねにそこに無ければならない。

同様に、「因果律」は「物自体」には含まれないが、我々は「因果律」を認めなければ世界を系統立てて理解することがほとんどできなくなる。「因果律」の無い世界というものはあり得るのかもしれないが、我々が意味あるものとして世界を理解しようとするなら、「因果律」はつねにそこに無ければならないのだ。

我々は、我々の言語の系の中にいることしかできない。そのことによって、「時間」「空間」「純粋数学」「純粋哲学」「自然科学」などが、それを排除するには、この系の外に出なければならなくなってしまうので、恒真命題(トートロジー)でもないのに、つねに真になってしまうのだ。
こうして、つねに真になる総合文ができる。世界を解釈するための言語が、その文の「偽」の要素を排除してしまうのだ。

以上、この、ある種の人間原理のようなものが、「アプリオリな総合判断がなぜできるか」へのカントの回答の重点だと、僕は考えている。(カントの入門書や案内書などではこういう説明はあまりされていないように思えるが、僕には、これが「純粋理性批判」の中心の論点だと思えてしょうがない。カントに詳しい方、ご意見ください。)

さらに、この「アプリオリな総合判断」ができる仕組みは、「コギト」と「世界」の関係が、関係して完成されると思われるのだが、本節も長くなったので、続きは次節へ残すことにする。

つづく 超越論的な真理は本当か8

超越論的真理は本当か目次

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