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2010年8月13日 (金)

アプリオリな総合文の作り方(前)≪超越論的な真理は本当か6≫

我々にんげんは物自体に到達できない以上、「神が存在するか否か」の答えを正しく知ることなど、できるわけがない。
ましてや、その神の視点に人間が立って、完璧に正しい世界を知ることができるわけがない。
だとしたら、我々は、我々が正しいと思う正しさを、我々が正しいと思う手段で、探っていく以外に方法はないのじゃないか。
カントは、そこで、さらに積極的に、神の視点など存在しないとし、人間が人間の立場で普遍的で必然的だと判断したものこそが真実であるとした。

それでは、具体的どうやってそれを証明しようとしたのか。「純粋理性批判」では、かなり無茶な証明が並んでいるように僕には思える。しかし、それはとても意義深い無茶である。

  

  

  

因果律の否定の否定

ヒュームは、さまざまな事柄について本当に信じられるのかを疑い、他者の存在を疑い、事物の実在を疑った。
そして、因果律さえアプリオリではないと言った。

手の上のリンゴは、手を離したら下に落ちる。今まで必ず落ちたのだから、何度やっても同じように下に落ちる。十分な経験があれば、「手を離す」という原因に対して「リンゴが落ちる」という結果が得られる・・・と普通は考えられる。

しかし、それは、単に、これまで例外が無かっただけで、厳密に必然性があるとは言えないとヒュームは言うのだ。
100回の経験で確かめられたとしても、101回目はその予測が覆されるかもしれない。「10000回ダメでへとへとになっても 10001回目は何か変わるかもしれない」とドリカムも言ってた。

原因と結果が関係しているのだという当たり前すぎるような法則さえ、確かな必然性があるわけじゃない。人間が勝手に、原因があって結果につながっているという法則(因果律)があるのだと思いこんでいるだけにすぎない・・・のかもしれない。

この因果律否定論に対して、カントは次のようなことを言っている。
「因果律が必然だとするのは、実際にはまったく経験から得られたものや、また習慣によって見かけだけの必然性を得たとしたものを、理性の真正な洞察だと思い誤った妄想にすぎないのだと・・・ヒュームは言うだろう。しかし、そんな主張をすれば、アプリオリな総合命題を含んでいる純粋哲学も純粋数学も破壊されてしまい、存在できなくなる。ヒュームでさえ、それを悟れば、あえて因果律の否定を主張しようとはしなくなるだろう。」

すべてを疑うことができると言えばできるだろう。「もしかしたら、今ここに開いているこの世界はすべて誰かの夢なのかもしれない」と疑うことは、いつでも可能である。

しかし、全てを疑ったままで、自分の恋愛や喜びや悲しみなど全てを、妄想かもしれないとして、人生の全てを真として受け止めないままで一生を終えるとしたら、それが正しい世界観である可能性はあるのだろうか。

「本当は」が示す神の視点を拒否した今、「本当は○○かも知れない」という疑い方ではダメだろう。あるコトの真偽を検証するために、「本当は○○かも知れない」とすることは無意味であるため、何か、ここで、今、手に入れられる証拠を探して、それによって考えるしか、無い。
そして、私が入手できるデータは私が経験すること以外にはありえない。私が、全くの経験から、なにがしかの必然性を得たのだとすれば、それこそを「本当だ」としなければならないのではないだろうか。
自分の人生をそのまま受け入れる以外に本当の世界は無いとしなければならないのでは無いだろうか。

  

  

「だって、そーなんだもん」

同様に、数学や自然科学もそれが、ある洞察によって必然性を得られたのなら、それによって、それこそを、理性の真正な洞察そのものだと考え、積極的にアプリオリな判断だとして設定すべきなのだろう。
それについて、カントは次のような事を言っている。
「純粋な数学はどうして可能か。純粋な自然科学がどうして可能か。これらが可能でなければならないということは、それが現実に存在しているという事実によって証明されるからである。」

つまり、「だって、そーなんだもん。しかたないじゃん」 ってことだ。

因果律があるってことにするだけの絶対的な理由があるわけじゃない。因果律がないってことにしている宇宙人が実際にいるかもしれないという可能性は、常にある。
でも、我々が世界を見るための枠組みとして、因果律が最も適したものの一つであり、因果律を失うと、ほとんどの哲学や科学が破壊されてしまうと洞察される。そして、実際、現実に因果律があるとすることによって、「だってそーなんだもん」という状況があること、そのこと自身が証明になっていると言うのだ。

数学にしても科学にしても、我々としては、最善の方法をとって世界を見ている。もしかすると、そんなものとは全く違う何か(枠組み?)を使って世界を見ることができる宇宙人がいるかも知れないが、我々には、それを予想したり、理解したりすることはできないだろう。
我々にとっては、我々の数学を使い、我々の科学を使うしかない。
それによって、世界を理解するしかない。
そうなっているのだ。「だって、そーなんだもん」なのである。

  

  

コペルニクス的転回・アプリオリな総合判断がなぜあり得るのか

以上が、カントの言う、世界理解の本当に正しい仕方である。
我々が必然だと思う形式によって、世界を仕切るわけだから、その世界観は必ずアプリオリである。
そして、実際にその形式を用いることによって、世界が立ち上がり、その形式に形づけられて存在することになるのだから、「だって、そーなんだもん」として、世界に関する認識が結合されていく。別々に立ち上がった認識が「だってそーなんだもん」によって結合され、総合判断になるのだ。

世界は、物自体の側に本当の姿を持っているのではない。
物自体の側には、何ものでもない世界が、ただ在るだけなのだ。
我々が、世界を、意味あるものにするのだ。
だから、我々は「だってそーなんだもん」と言って、アプリオリな総合判断をすることが可能になるのだ。

これこそが、アプリオリな総合を生む、コペルニクス的転回という「マジック」のタネである。と僕は思うのだが、どうだろうか。

ただし、ここでアプリオリな総合としたものは、いつでも「もっと適切な判断ができるかもしれないが、これが今の、最善の正しさだ」というものでしかなく、その意味で、絶対的な真実だとは限らない。
アプリオリな総合と言ったって、世界を確実に捕まえ得るものかと言うと、そーでもない。
絶対的な真が得られないと言う意味では、このコペルニクス的転回は必ずしも、世界の見方を前進させるものではないのだ。

しかし、この転回は、これによって、実在論や観念論などに頼らず世界を見るという確実性の無さ、この「確実性の無さ」自体に、確信が持てるようになるという意味で、大いなる前進なのだ。

どうだろう。無茶苦茶だけど、凄く意義深いと思ってもらえただろうか。

  

  

それなら、このコペルニクス的転回によって、独我論も論駁できるのではないだろうか。
またアプリオリな総合文の作られるトリックの詳細について、
次節で考えたい。

つづく 超越論的な真理は本当か7

超越論的な真理は本当か目次

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