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2010年8月23日 (月)

「コギト」は一つ 世界も一つ≪超越論的な真理は本当か8≫

カントは「純粋理性批判」で、アプリオリな総合文を作りだす手順を(というか、トリックを)、2つ提案している。
その一つが、「コペルニクス的転回による『だってそーなんだもん』」であり、
もう一つが、「統覚による『我思う(コギト)』の結合」である。

カントは、我々が何かの存在を認識するためには、何らかの形式を用いることによって、その表象をその形式の枠組みによって理解可能な形に形づける必要があると、言った。
それなら、その世界観の中で、「自我と他者」はどうやって形づけられると、考えればいいと言うのだろうか。
カントのカテゴリー表の中には「自我と他者」を分析するための枠組みが立てられているようには見えない。

この点について、カントは次のように言っている。
「『我思う』は私の一切の表象に伴い得るものでなければならない。さもないと、全く考えられないようなものまでが、私の内で表象されるということになるだろう。これは、この表象が不可能であるか、私にとって無になるかということである」

ここで言われている「我思う」(「自我」、いわゆる「コギト」)は、世界の中の現象として存在するものではない。
ある現象を私が認識するとき、その認識において、現象の影として、あるいは現象というカードの裏面として、あるいは現象という作用の反作用として、必ず現れる(しかし同時に決して現れない)モノがある。それがここで言う「我思う(コギト)」なのである。

たとえば、「何かがある」という認識をもつためには、「何かがある」という認識カードを作る必要があるのだが、そのカードは裏面に必ず「と我思う」が印字されている、というようなイメージだとでも言えばいいだろうか。

この自我は、世界の在り方に関する認識があるときだけ存在し、世界がどうなっているかの表象が全くないときに、自我のみで単独で存在することはできない。
この自我は、世界そのものと表裏一体としてのモノである。
ウィトゲンシュタインが「世界は私の世界である」と言った時の「私」に近いようなものだろう。
世界のアラワレ無くして「コギト」は無く、「コギト」無くして世界はアラワレ得ない。のである。
「コギト」は、カテゴリーによって世界の中に位置づけられるようなものではなく、世界と一体のものとして、あるいは世界の影として、つねに世界によりそってソンザイする(そして、同時に存在し得ない)モノなのだ。

このような「自我」を設定した上で、カントは総合文の作られ方を次のように説く。

「『我思う』というこの表象は、他の一切の表象に伴い得なければならない。そして、私の一切の意識作用において常に同一でなければならない。もし、ある直観において与えられる多様な表象が、一個の自己意識に属していないとしたら、これらの表象は私の表象であるというわけにはいかない」

「直観において与えられた多様なものの統覚の完全な同一性は・・・、私が一つの表象を他の表象に付け加えて、表象の統合を意識することによって成立するのである。
私は直観において与えられた多様な表象を一個の意識において結合することによってのみ、これらの表象における意識の同一性そのものを表象できるのである」

たとえば、「あるものがある」と書かれたカードAがあり、その裏面に「と私Aは思う」と書かれている。さらに、2枚目のカードBには「それはハクチョウである」と書かれてあり、裏面にはやはり「と私Bは思う」とある、としてみる。
このような場面で、この2枚のカードの「私A」と「私B」が同一の私でなければ、この2枚のカードを一つの認識として結合させることはできない。
この2枚のカードの「私A・B」が別人なのであったら、それぞれは無関係な別の世界の出来事になってしまい、2枚のカードがあることの意味を失ってしまう。
「私A・B」が同一であるとき、この2枚のカードは「と思う私」の同一性によって結合されるのだ。

そして、「私A・B」が一つに統一されることによって、そのカードが示す「自我」と「世界」の両面が結合し、拡大される。

たとえば、
「あるものがある」(と私Aは思う)、かつ、「それはハクチョウである」(と私Bは思う)、かつ、「それは白い」(と私Cは思う)・・・というような複数の表象が結合され、
「白いハクチョウがいる」(と私ABCは思う)という新たな総合文が作られることになり、世界と自我がそれに応じて内容を増やす、というように。

たとえば、
「あるものがある」(と私Aは思う)、かつ、「それはカップ麺である」(と私Bは思う)、かつ、「カップ麺にお湯を注げば3分で食べられる」(と私Cは思う)、かつ、「それはお湯が注がれた」(と私Dは思う)・・・が結合され、
「カップ麺にお湯が注がれたから3分で食べられる」(と私ABCDは思う)という新たな総合文が作られ、世界と自我がそれに応じて内容を増やす、というように、である。

ここで、注意する必要があるのは、この結合によって、単に、認識が広がったり深まったりするだけでなく、これによって自我が広がると同時に、世界が広がっているということだ。
この「自我」は、何らかの表象によって世界そのものとして、生まれ、複数の表象による世界としての「自我」と結合することによって、「自我」自体を広げ、世界を広げていくのだ。

もともと、カントの世界観では、世界をどう形づけるかの正答があるわけではないのだから、「我思う・コギト」が何を思うかによって、世界はまさしく生まれるのだ。
この「自我」は、世界の住人ではない。ある意味で、世界の構築そのものである。

こうして、総合文が完成する。
「コペルニクス的転回による『だってそーなんだもん』」によって、アプリオリな認識が作られ、
「統覚による『コギト』の結合」によって、複数のアプリオリ文が総合文として結合される。
これが、アプリオリな総合文が作られるマジックのタネである。

しかし、すごいマジックである。
マジックのタネが分かっても、それを偽物であるとは一概に決めつけられそうにない。
ただの目くらまし的なマジックではない。これによってまさにコペルニクス的転回がなされ、「本当であること」の意味、「我」の意味、「世界」の意味、まで変わってしまった。
目くらましどころか、「本当」の世界を探るために、ある意味で必然的な世界観なのかもしれない。

それでは、この超越論的世界において、独我論や独今論は成り立つのであろうか。

次節では、ようやく独我論の話にもどれそうだ。

つづく 超越論的な真理は本当か9

超越論的な真理は本当か目次

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