フォト
無料ブログはココログ

« 「感性・悟性・理性」と「時間空間・カテゴリー・理論」≪超越論的な真理は本当か4≫ | トップページ | アプリオリな総合文の作り方(前)≪超越論的な真理は本当か6≫ »

2010年8月 9日 (月)

「本当である」とはどういうことか≪超越論的な真理は本当か5≫

「真である」とはどういうことか?

カント以前の「本当」(真なる命題)というのは、実在論の視点による正しさか、観念論の視点による正しさかの、いずれかでしかなかった。
実在論では、世界がどのような形で存在しているかという問いの答えが、神の視点と呼ぶべきようなものによって、あらかじめ決定されているので、「本当のこと」とは、「その正解と照らし合わせてみて、食い違いが無いこと」であった。
それに対して、観念論では、あらかじめ決められている世界などというものは単なるおとぎ話の世界でしかないとし、「本当のこと」というのは、「私が感じたこと・認識したこと」でしかないとする。
実在論によるなら、おとぎ話の中の神に世界を委ねなければならなくなり、
観念論によるなら、今抱いている世界像が本当かどうかをどこまででも疑い得ることになり、懐疑論に陥ってしまう。

しかし、カントによって第3の道が発見された。(あるいは発明と言うべきか。)
物自体はあるのだが、到達できないとしたのだ。

物自体は存在し、それによって我々は物自体に関する様々なデータを得ることができる。しかし、「物自体」自体はもともと自らを形づけることができるような意味を持たない。
データは時空やカテゴリーなどの形式に当てはめられてはじめて意味あるものになれるのだから、「物自体」自体にはそれがどのような形で存在しているかの正解が無いというのだ。
だから、世界の正しい像を示す神の視点などというものも存在せず、実在論のいう「本当の世界」などはもともと無いことになってしまう。
そして、物自体は実在しているので、懐疑論に陥ってしまうことにもならないと言うのだ。

このことを、カントは「主観的経験的な実在論であり、超越論的観念論である」と言う。

たとえば、「時間は現象を直観するための形式である」という認識モデルについて言うなら、時間は、直観を成立させるための条件なのだから、つねに対象に先だって存在していることになり、実在によらない。つまり観念性を備えていると言える。
一方、時間は、現象に対してだけ客観的な妥当性を持つことができるのだから、つねに経験を必要とすることになり、実在による。つまり実在性を備えていると言えるのだ。

それでは、この世界観において、「本当」(真なる命題)とは何を意味するのだろう。
物自体はある。でもそこに「真なる世界像」は存在しない。ならば、「本当かどうか」などということを、どうやって決められるのか。あるいは、「本当かどうか」などということに何の意味があるのだろうか。

カントはこう言っている。

「認識の素材の側面から真理をつかむことはできない。認識の形式の側面からなら、悟性が普遍的で必然的だとした規則に対して、真偽を決めることができる。つまり、真理の基準があるとすれば〈形式〉だけである。」

何だと? 〈形式〉だけが真偽の基準になるだと?
〈形式〉とは世界を見る側が勝手に立てた単なる枠組みではないか?
「本当である」とは、「人間が勝手に決めた判断基準にそっていること」でしかないというのだ。
そんな真偽の基準でなら、それあ、いくらでも「真なる命題」や「アプリオリな総合文」が出てくるだろう。
カント自身、先の文章に続いて、こうも言っている。

「ある認識が悟性と理性の普遍性で形式的な法則と一致することは、真理の必要条件である。ただし、消極的な条件にとどまる。

「なあーんだ」である。

結局、「真なる命題」と言ったって、自分で立てた形式に対して正しいことが分かるだけの、「消極的な真」でしかないのだ。そんな自己満足的な「真」に何の意味があるのだろうか。

しかし、それしかないのだ。
おとぎの国の神の視点を頼りにした「本当の」世界など、「積極的な真」などというものは、どこにもないのだ。
それ以上の「真」など存在しないのだから、この「消極的な真」を積極的に胸張って受け入れるしかないのではないだろうか。
実在論でありながら、神の視点というおとぎ話に陥らず、
観念論でありながら、懐疑論に陥らないで、
その間のギリギリの所で、世界を開く細い道を見つけていかなければならないのだ。

確かに、「本当」や「真」という言葉の意味をスライドさせただけだという見方もできる。
しかし、これによって、「自分には分からないだけで、本当は○○かもしれない」という宗教的だとでもいいたくなるような世界観は、意味を失くすことになる。
この「消極的な真理」は議論をずらしただけに見えて意外とタフな所もあるようだ。

ではこの「消極的な真理」の下で、「アプリオリな総合」はどんな意味を持つことになるだろうか。また、独我論との関係はどうなるだろうか。

つづく 超越論的真理は本当か6

超越論的な真理は本当か目次

« 「感性・悟性・理性」と「時間空間・カテゴリー・理論」≪超越論的な真理は本当か4≫ | トップページ | アプリオリな総合文の作り方(前)≪超越論的な真理は本当か6≫ »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/49103874

この記事へのトラックバック一覧です: 「本当である」とはどういうことか≪超越論的な真理は本当か5≫:

« 「感性・悟性・理性」と「時間空間・カテゴリー・理論」≪超越論的な真理は本当か4≫ | トップページ | アプリオリな総合文の作り方(前)≪超越論的な真理は本当か6≫ »