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2010年7月19日 (月)

「超越的」と「超越論的」≪超越論的な真理は本当か2≫

認識の考察の仕方について、カントは「超越論的」という言い方をする。
実在の側に「物自体」が存在し、しかしそれは、人間という観察者には決して到達しえないという。
その世界を構成している素材から触発されて、人間の感性は世界の像を見出す。このとき、観察者は、形式を用いることによって初めて世界を解釈することができる。・・・とするのが、カントによる認識モデルである。
そして、その認識モデルの中で「時間的に見て、全ての認識は経験からはじまる。だが、・・・全ての認識が経験から生まれるわけではない。」(純粋理性批判序論)と言って、カントは、「実在」と「観念」の間で、世界の存在を捕まえようとする。存在への、そのようなアプローチを自分で「超越論的」と呼んでいる。

「超越的」と「超越論的」というよく似た言葉があるが、先にその意味を整理しておきたい。

「超越<transcendent>」とは

カントのいう「超越」とは、「人間の理性によって判断できる領域を超えた」という意味。神や死後などの理念で、それが正しいか正しくないかが決まる保証はない。「形而上」と同様、おとぎ話でしかないような考察である。

「超越論的<transcendental>」とは

カントのいう「超越論的」とは、①「対象を認識する方法そのものについての、あらゆる認識(において)」という意味。認識に関するメタ認識という意味で「<超越論>的」と言われる。
とくに、カントは、②「対象一般に対して、アプリオリな諸概念を認識しようとする認識(に、おいて)」という意味で使っていることが多い。つまり、「アプリオリな概念がどのようにして対象の認識のために使われるかという視点において」ということである。

「超越論的認識」は、世界のあり方や認識されるべき仕方が、あらかじめ、「物自体」の側だけで決定されているのではないとし、認識し解釈する側がそのための形式をもって見るから世界が世界として表れるのだとする、世界観である。
これは、「世界の在り方がすべてすでに決まっている」とする実在論とは違う。また、「世界の在り方は客観的に決定することができず、主観的に勝手に決められるだけだ」とする観念論とも違う。決して触れることのできない「物自体」を、実在論と観念論の間で、追い続けるような認識の仕方だと言えるだろう。

つづく 超越論的な真理は本当か3

超越論的な真理は本当か目次

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コメント

「物自体」が存在し、しかしそれは、人間という観察者には決して到達しえないという。

思いつきの質問です。

決して到達しえないのに、どうして「物自体」が存在すると言えるんでしょうか?カントだって人間なわけでしょう?

「物自体」を存在するか、存在しないかわからないので、とりあえず保留にした現象学の考え方のほうが、誠実な感じがします。


taatooさん、コメントありがとうございます。

到達できないはずの存在を語るというのは、確かに論理矛盾で、不誠実ですよね。しかし、僕はカントのシンパシーを感じます。
老眼の僕は眼前のりんごを見るために、老眼鏡をかけたり、光学顕微鏡で見たり、電子顕微鏡で見たりします。するとずいぶんはっきりとりんごが見えるようになります。それでも、そのリンゴの姿を完全に手に入れることはできません。(という言い方が可能です。)科学技術がさらに発展するとさらに細かなところまで見えるようになるでしょうが、「これでおしまい。完全に見えました」というところまでは到達し得ません。そーゆー意味で、カントの物自体は到達不能です。
でもこれは、世界の見方の問題や言い方の設定の問題、文法問題で観察記述の姿勢の問題ではないかと思います。
現象学の言うように「原理的に見えないはずの存在をかたることなどは無意味である」とすることもできるし、カントの言うように「見えない先に本物がある」とすることもできるだろうということです。どっちが「本当の世界の見方か」を問う問題でも、どっちが「本当の世界のあり方か」を問う問題でもなくて、どっちが「便利な世界の見方か」どっちが「便利な文法か」を問う問題でしかないように思うわけです。
そして、taatooさんの指摘のようにどっちが「誠実な言い方か」を問う問題でもあるでしょう。

で、僕もカントの文法が不誠実だというのに賛同します。でも同時に、カントの方が便利だと思います。

回答ありがとうございます。ここでの誠実は、言語や論理に対する誠実さで、道徳的な誠実さとは違います。哲学と宗教を区別する誠実です。哲学と宗教の区別を意識しない言語ゲームでは、誠実と便利は同じ土俵ですが、哲学と宗教を区別する言語ゲームでは、誠実と便利は違う土俵のような気がします。

私の中の現象学と哲学史上の現象学は、かなり違うような気がしますし、別に現象学に肩入れしているわけではありません。ただ、無いかもしれないものを在ると言いきる感性は哲学より宗教に近いという印象をどうしても持ってしまうのです。

カントのようなレベルに高い哲学者は、哲学と宗教の間を行き来しているということなんですかね。なら、なんとなくわかります。

taatoo さん、こんばんは。
僕はカントの「純粋理性批判」を読んで力尽きてしまったので「実践理性批判」は読んでないのです。なので、ごめんなさい、「実践」と「探究」の共通点の話はわかりません。「実践」もウィトゲンシュタインの「論考」-「探究」のように自説に対する否定と乗り越えが主題になっているのでしょうか。

「誠実さ」の話から、実無限と可能無限の関係を思い浮かべました。「限りがなく、数え上げようとしても数え終えることができないようなもの」を考えるときに実無限派は、その無理な注文をまったく不誠実に乗り越えて、その「数え終えることのできないはずの無限」が「ある」ことにしてしまいます。taatooさんの言われている「誠実・不誠実」ってそーゆーことですよね。「誠実」かどうかという切り口がとても面白いと思いました。
「宗教的」だという整理の仕方も面白いと思いました。でも、はっきりとイメージできるほどには理解できませんでした。

いつもお世話になります。変な質問をしたかもしれません。私は原書を全く読んだことがありません。私には難しいのです。横山さんのブログは難しいところもありますが、わかるところもあって、世界が広がるような感じがあり、楽しく読ませて頂いています。

無限の話は知らなかったので面白いです。言葉や論理に対して誠実な哲学は、小数点を永遠に計算し続けるスーパーコンピュータみたいなもので、言語や論理に対して不誠実な宗教は、計算を放棄して確信的にメタレベルへの飛躍を認めてしまう。ということになるでしょうか。

とすると「無限」って、宗教ですよね。カントの「物自体」も宗教じゃないですかね。「神」の代わりのあえて置いたのではないでしょうか。ただ、ぎりぎりまで言語や論理と格闘しているのだから、不誠実ではない。誠実な宗教≒哲学ということになりそうです。

taatooさん、こんばんは。

実は僕も「宗教的」という語で哲学的態度を揶揄することもあります。でもtaatooさんの使い方とは少し違っているようです。(語の用法の話ですからどちらが正しいかという問題ではないと思います。ただ違うということを紹介します。)

本来、経験的な発言をすべき場で、経験的に知り得ないことを、あたかも神の視点による客観的事実であるかのように発言された場合、僕はそれを「宗教的」だと言っています。例えば、「決定論者」は「世界の運命が全て既に決定している」と言いますが、これは経験的に知り得ないことを神の視点による客観的事実のように言うので「宗教的」だと思えます。同様に「非決定論者」が「世界の運命が決まっていない」と断定するのも「宗教的」に思えます。
しかし、「実無限派」が「1=0.999・・・」だとして「・・・」の表記で限りないはずの果てを乗り越えてしまうのは、確かに経験的には知り得ないのは同じですが、神の視点でさえその答えを知ることはできないことを判断しているという点で、違いがあります。どちらが正しいかという視点ではない次元の問題として、実無限派は実無限の立場を選んだのであるから、これは「宗教的」とは僕は言いません。
で、「物自体」の場合、神の視点をカントは持ち出して来ているようにも見えますが、神の視点による客観的事実として言っているのではないように、僕には思えるのです。「物自体」というものを設定して考えてみましょうという提案に思えるのです。ですから、僕はカントが「宗教的」だとは思えません。

まあ、単に「宗教的」の語の意味を、僕はそのように使っているというだけのことですから、あまり気にしないでください。

「無限」を「神」と置くのも、ありかなと思った、思いつきのコメントです。「実無限」については、よく知らないので、新しい引き出しとして、自習してみたいと思います。

カントの「物自体」を、提案(仮説)と考えるなら、「宗教的」ではないと思います。「物自体」についても、さらに自習してみたいと思います。

誠実なご回答、ありがとうございました。

ひとつ質問させてください。
カントの「物自体」に関する質問です。
今、目の前にリンゴとミカンがあるものとします。
それを見てそれがリンゴとミカンであることを認識します。
この場面について、リンゴとミカンの区別がどの時点で生まれるのか、を(カントの主張に沿って)知りたいのです。

<解答1>「物自体」で区別が生じる。
リンゴの物自体とミカンの物自体があって、リンゴの物自体を対象として認識した場合はリンゴの認識が得られ、ミカンの物自体を対象として認識した場合はミカンの認識が得られる。

<解答2>悟性のカテゴリーで区別が生じる。
「物自体」には如何なる区別もない。リンゴとミカンの区別もない。
悟性がカテゴリーを適用する時点でリンゴとミカンの区別が生じる。

いったいどの解答が正しいのでしょうか?
どの解答が正しいのか、ず~と疑問に思っておりました。
ご教授願えれば幸いです。

異邦人さん、こんばんは。
僕がカント「純粋理性批判」を読んで理解できたことは、この「超越論的心理は本当か」の章でおおよそ記しています。お尋ねの物自体と素材と形式の関係については、第4第5節辺りに書いたのですが、読んでいただけましたか。りんごやミカンの例は挙げていませんが、素材と形式が合わさって初めて意味が生じるという点はどんな対象でも基本的に同じです。

横山信幸さん。お返事有り難うございます。

第4第5節につきましては以前に読ませていただきました。
また、今回も改めて読み直させていただきました。
しかし私の疑問の解答になっているようには読み取れませんでした。
私の読解力が不足しているのかもしれません。
もう少し噛み砕いてご説明願えませんでしょうか?
よろしくお願い致します。

異邦人さん、
僕のカント理解は自分では正しいと思っていますが、偏っている可能性は大いにあります。眉唾で聞いてください。

物自体は到達不能であるので、認識論的にそれが何かしらのものであると言うことはできない。そして、認識論を踏まえないで存在論的にそれが何かしらのものだと語ることには意味がない。
とするのがカントの立場だと思います。
それゆえ、「解答1」の物自体で区別が生じるというのは正しくないと思います。
「解答2」の悟性のカテゴリーで区別が生じるというのは、物自体から得られる印象とカテゴリーの形式が組み合わさってリンゴが判別できるようになったという意味で正しいです。認識論的に区別できるようになったから、存在論的な区別にも意味が生じたというところでしょうか。
ただし、だから、物自体は何物でもないゆえに如何なる区別もないというのは確かなのですが、それは決して物自体がすべて均一で同一だという意味ではありません。

如何でしょう。お問合せの回答になったでしょうか。

横山信幸さん。ご説明有り難うございます。

大体、横山信幸さんのご説明は分かったような気がしております。
しかしまだ「物自体から得られる印象」というのが引っかかっております。
つまり「カテゴリーの形式の組み合わせ」のみではリンゴの認識が成立せず、素材としての何かが「物自体」から得られて初めてリンゴの認識が成立ということ、であろうと一応理解しています。
そうだとして「物自体」から素材としての何かが得られる、ということが一体如何なる事態を意味するのか、いまひとつスッキリ捉えきれずにおります。

「物自体」からリンゴの印象が得られた場合「悟性」で「リンゴ」の認識が成立し、「物自体」からミカンの印象が得られた場合「悟性」で「ミカン」の認識が成立する。
というように解釈しますと<解答1>が正しいという結論になり横山信幸さんのお答えとは違ってくるような気がします。

どうもスッキリしません。
この点について再度、横山信幸さんのお考えをお聞かせ願えませんでしょうか?

宜しくお願い致します。

異邦人さん、こんばんは。

僕の深読みなのかも知れませんが、カントは世界を3次元空間と1次元時間との4次元時空として解釈しないような生物(宇宙人)がいる可能性を考えていたような気がします。例えば「π次元空間もどき」と「φ次元時間もどき」から出来ている時空みたいな。

われわれ人類はたまたま4次元時空として世界を解釈してしまうから、物自体も4次元時空の延長を元々持っているように考えがちになるんだ。だけど、世界を4次元に当てはめようとする人間の視点を前提にしないなら、世界は4次元だとは限らない。元々、世界自体は時間空間という枠組みなど有してないのだ。

カントはこのような世界の捉え方をしようとしたのだと思います。
これが認識論を踏まえない存在論が無意味だと言ったことの趣旨です。もちろん、認識論などを踏まえなくても存在論はそれだけで有意味だとする立場に立つこともでき、そのときは、世界は人間に認識される前から4次元だとすることも可能です。
でも、カントが言おうとしたのは、人間の持っている形式などは決して絶対のものではないのだという視点で世界を捉え直そうということだと思います。
人間が悟性を当てはめる以前の、人間が到達しえない物自体がリンゴとミカンに区別されてるという<解答1>を否定したのは、そのような意図で、「認識論を踏まえない存在論は無意味だ」という立場に立って答えているからです。

どうでしょう。少しはすっきりしてもらえたでしょうか。

異邦人さん、
補足させてください。
認識論を踏まえないでも存在論は有意味だとする立場に立てば、「人間に認識されなくても世界は4次元だ」と言える。と言いましたが、
カントはその論に対して、例えば、「君の説は、木彫作品が彫り出される前に丸太の中にすでに存在していたと言ってるようなもんだ。」と反論すると思います。

この論点によって、僕はカントの意見に強く共感します。

横山信幸さん。

カントの場合、時間空間は感性の認識形式であり「物自体」や世界には属さない、という考えのようですから、仰るとおり様々な次元の世界を考えることは可能であるのでしょうね。

私は認識論には否定的な立場ですので認識論的説明はどうしてもスッキリ理解できません。

もう少し自分で考えて見たいと思います。
お付き合い有り難うございました。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>われわれ人類はたまたま4次元時空として世界を解釈してしまうから、物自体も4次元時空の延長を元々持っているように考えがちになるんだ。だけど、世界を4次元に当てはめようとする人間の視点を前提にしないなら、世界は4次元だとは限らない。元々、世界自体は時間空間という枠組みなど有してないのだ。
>カントはこのような世界の捉え方をしようとしたのだと思います。

オカシイですね。カントの見解は「時空間的な在り方をしていない【世界】などという代物は―我々が理解し得る経験の成立条件を逸脱しているが故に―不可能である」というものだった筈ですが。
「②人間の視点をとっぱらってしまえば、①世界は時空間的な在り方をしていないかもしれない!」―既に縷言したと思いますが、件の形而上学的主張は①形而上学的様相と②認識論的様相の文法的差異だけを根拠にして提出されていますね。

>これが認識論を踏まえない存在論が無意味だと言ったことの趣旨です。もちろん、認識論などを踏まえなくても存在論はそれだけで有意味だとする立場に立つこともでき、そのときは、世界は人間に認識される前から4次元だとすることも可能です。

超越論的観念論なる謬見に頭をやられてさえいなければ、
我々が①形而上学的様相と②認識論的様相を区別しているという【経験的かつ文法的な事実】

[現実=諸事物のネットワークの総体]の【在り方】である延長性及び持続~推移性
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52323779.html#comments
を混同することはないと思います。

>でも、カントが言おうとしたのは、人間の持っている形式などは決して絶対のものではないのだという視点で世界を捉え直そうということだと思います。

これもオカシイですね。彼が【言おうとした】のは「我々はカテゴリーの外に出ることが出来ない」ということでは? とはいえ、これは、示される他ないものをを語ろうとする背理―要するに不可能な試みでしかなかったわけですが・・・

異邦人さま

>カントの「物自体」に関する質問です。今、目の前にリンゴとミカンがあるものとします。それを見てそれがリンゴとミカンであることを認識します。この場面について、リンゴとミカンの区別がどの時点で生まれるのか、を(カントの主張に沿って)知りたいのです。

カントならば、「その問いは立て方が悪い。私の見解は、我々の認識においては既に常に感性と悟性は共動してしまっている、というものだからだ」と答えるかもしれませんね(cf. ジョン・マクダウェル『心と世界』)
「空間或は時間において規定されて表象されるべき一切のものがそれに合致しなければならないところの【結合】も、先天的に凡ゆる【覚知】の総合の条件として、元々これらの直観と【共に(の内にではなく)同時に】与えられているのである(カント『純理』)」

工藤さん、
僕のいい加減で独りよがりな解釈の説明文章に対して、一般的な解釈による適切な補正をしていただきましてありがとうございます。言われていることはよく分かりました。一般的な解釈はそういう言い方で説明するのですね。

確かに、カントの論旨が「時空間的な在り方をしていない世界などという代物は不可能である」ということであれば、大森荘蔵の言うようにカントの形式主義はムダな加工主義でしかないですね。
超越論的世界観に関するその読みは一般的な解釈なのでしょうけど、ムダな議論にしかならないものをあげつらっただけにしてしまうという点で面白くないですね。

>確かに、カントの論旨が「時空間的な在り方をしていない世界などという代物は不可能である」ということであれば、大森荘蔵の言うようにカントの形式主義はムダな加工主義でしかないですね。

カントが残した最良の哲学的遺産は【我々が理解し得る経験の成立条件を画定しようとする試み】だったように思われます(それがどこまで成功しているかは別にしても)。

>超越論的世界観に関するその読みは一般的な解釈なのでしょうけど、ムダな議論にしかならないものをあげつらっただけにしてしまうという点で面白くないですね。

とりあえず、ストローソン『意味の限界』を読んでみてください。
似非問題に踊らされている人(大森)は「哲学の見本」にはなりません。

工藤さん、図書の推薦ありがとうございます。
「意味の限界」は我が市立図書館にあったので早速借りてはいるのですが、他に読まなくてはいけないものが多くて後回しにしてしまっています。できるだけ急いで読み進めたいと思います。読めれば感想も挙げたいです。

工藤庄平さん。(>2013年10月 2日 (水) 22時04分)
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「問いの立て方が悪い」ということであれば、そうなのかもしれないという気がします。
では私の疑問はどのように問うべきであるのか、どのように問えば疑問を解消できるのか、が解りません。
その点につきまして再度ご説明願えれば幸いです。

カント『純理』の引用部分については、難しすぎて私にはチンプンカンプンです。
私には読解不能です。

異邦人さま


こんばんは、工藤です。ご質問にお答えします。


><解答1>「物自体」で区別が生じる。
リンゴの物自体とミカンの物自体があって、リンゴの物自体を対象として認識した場合はリンゴの認識が得られ、ミカンの物自体を対象として認識した場合はミカンの認識が得られる。
<解答2>悟性のカテゴリーで区別が生じる。
「物自体」には如何なる区別もない。リンゴとミカンの区別もない。 悟性がカテゴリーを適用する時点でリンゴとミカンの区別が生じる。


始めに言っておきますと、僕はカント主義者ではありませんし、異邦人さまの問いは真っ当かつクリティカルなものと考えております。「問い方が悪い」と書いたのは、唯カントの思想的立場を(不承不承)代弁しただけであって、他意はありません。
繰り返しますが、カントならば「<解答1>も<解答2>も間違っている。我々が外界の事物を認識する際には【既に常に感性と悟性が共動してしまっている】のだから」と答えると思います。

工藤庄平さん。(>2013年10月 4日 (金) 02時47分)
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どうもやはりスッキリ理解できません。
カントに限らず観念論は難解すぎて容易に頭に入りません。
私は観念論に否定的であるので、観念論は無駄に難しいだけであるようにしか思えません。
しかし観念論は最も主要な論敵であるので、好むと好まぬに関わらず、注目せざるを得ません。

ご説明有り難うございました。
もう少し自分で考えてみます。

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