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2010年7月 3日 (土)

「私」の意味を私が勝手に決めていいのか?≪超越論的な真理は本当か1≫

実在論と独今論は、世界の見方が違うだけなのだろうか。
≪「私」が過去・現在・未来につながって存在し、過去・現在・未来の各時点で実世界を開く開闢者である≫とするのが、一般的な実在論的な世界観においての「私」であるのに対して、
≪「私」が今この時だけに唯一の開闢者として存在し、すべての世界をここに開いてる≫とするのが、独今論の「私」であるといえるのではないか。

つまり、独今論と実在論がどう違うかというのは、「私」という言葉の意味をどうとらえるかという問題になってしまうのではないだろうか。
結局、実在論と独今論とは、「私」という言葉の意味をスライドさせ変換することによって世界の見え方を変えただけの話でしかなく、世界が「本当は」どうなっているのかを語り得るものではないのじゃないか。

しかし、世界を正しく理解するために世界を言葉にしているのなら、「私」などという基本的すぎる言葉の意味までを勝手に変えてしまうことが許されるのだろうか。
言葉の意味を変えてしまって世界を正しく描こうとしても、世界を捉えることなどできず、ただ世界像をもてあそんでいるだけになってしまうのではないだろうか。

世界を正しくとらえようとするのなら、いたずらに変更すべきではない言葉というものがあるのだろうか。たとえば「実在」や「私」や「時間」「空間」などの概念や言葉の意味を、勝手に変えることが許されるのか。

カントは超越論的な認識や分析というものを考え、世界はカテゴリーによって仕分られることを唱えた、このカテゴリーの立て方というものはすでにして決まって、「時間」「空間」などはアプリオリな認識なのだとしている。

カントの言うように「時間」はアプリオリな存在であるのだろうか。そして、そのアプリオリ性がゆえに独今論などという世界像を語ることは許されないことなのだろうか。
それとも、私という発言者が勝手に「時間」の実在性を決めることができ、独今論的世界を語ることが許されるのだろうか。

ここでは、カントのいう超越論的なる視点で、時間と世界を考えてみたい。

つづく 超越論的な真理は本当か2へ 

超越論的な真理は本当か目次

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