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2010年6月15日 (火)

独今論者はカップ麺を食べられるか2 独過去論でもいいんじゃないか

ここに今開いているこの世界の基準点が、「今」、「ここに」、「我として」、あるのが当然だと考えて、「独今論」はこの世界を「今」なのだとしてきた。
しかし、「世界はここに今開いている」という言い方をしているが、ここに不必要な思い込み、不必要なドグマがあるのではないか。
結局、その独今論というのは、「ここに、今、世界が開いている」という設定を前提にしておいて、「世界が今ここにのみある」と主張しているだけの話なのではないか。
この「今」というのは必然的なものではないかもしれないとは、考えられないか。
「世界は今ここに開いている」前提は絶対ではないと考えられないか。

世界を観測し解釈する視点が今というこの瞬間のみにあるのだとすると、世界のデータとは、私の体表に今受けている感覚だけではなく、今以外のデータ(記憶の内容や思考の内容など)も、今私に開示されていることになる。つまり、独今論では、記憶や思考が解釈者の側に属するのではなく、世界の側に属することになる。
しかし、これに対して、世界を観測し解釈する視点が過去から現在へ連続して存在しているということを前提とするならば、記憶の内容や思考の内容は解釈者の側に属するものになるだろう。

世界を表すセンスデータさえ、その範囲を最初から確定されるべきものではなく、何を前提にするかによって変わりそうである。
だとしたら、独今論は絶対的な世界観でもなんでもなく、極端に偏った世界観にすぎないということにできるだろう。(できるだろうし、するべきだろう。)

たとえば、過去こそが世界のデータを受け取って解釈し終えた時点だとして、「過去の私こそが世界に対して実在する私である」という世界像を作ることも可能だろう。つまり、「独過去論」である。
独過去論によると、今というものは幻影でしかない。全てのデータは過去のものである。そのデータを、今感じて、解釈し、そこから自分がどのように行動するかを決め、未来に向かうのである。このとき、未来はまだ現実化してないのだから実在しない。そして、この今というのは私のこの私的世界でしかないから客観的実在ではない。
このようのとらえて世界像を作るとすると、実在する世界は過去のみであると、言うこともできるだろう。

「世界を正しく表す文はあるか」で考えてきたように、ある世界像のみを特定して実証することは不可能であった。だから、このことは逆に、あらゆる世界像は矛盾していなければ何だって正しいことにできるとも言えることになる。
独今論が正しいのなら、独過去論だって正しいとしていいのだ。どちらが正しいという視点では比べても仕方ないのだ。比べるならば、どちらが便利だとか、どちらが美しいかだとか、どちらが幸せかなどという観点で見るべきなのかもしれない。

そうだとすれば、独今論は基本的な世界観でも何でもなく、さまざまにある凡百の世界像のうちの一つでしかないのだ。それどころか、3分後のカップ麺を食べることができないかなり不便な世界像である、と言える。
独今論は、だから、正しいのだけれども、ダメなのである。

独我論がダメなわけ

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