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2010年6月 3日 (木)

独我論がダメなわけ8 「本当は他我が無い」の「本当は」がダメ

独我論とは「我独りのみが世界に存在している」とする世界観である。しかし、その内容は、「隣人がゾンビかもしれない」というものから「世界は私の世界である」というようなものまで、さまざまな形がある。
そこで、本節では、「その独我論の我は何に対して存在するものか」という視点での分類を考えてみる。

①本当は他我が無いかもしれない
独我論の一つ目は、「他者に対しての我」がこの世界に独りであるという世界観である。世界には本当は他者がいないのかもしれないと考える。テレビの中で騒いでいる人たちも、ここにいる妻も子も、多分、私と同じようにモノを感じ、考えているように思える。しかし、それは絶対確かなのか。もしかすると、そう思い込んでいるだけで、実は、私以外の人間はみな感覚や感情や思考を持つことのない、哲学的なゾンビなのかもしれない。世界に他者が存在しないのならば、この世界を観察している者は私一人である。誰も隣人のいない孤独な世界になってしまう。
このレベルの「独我論」を「対他我-独我論」と呼ぼう。
「誰も聞かなかった、森の一葉の音は鳴ったのだろうか」というような問いがあるが、この問いは、「対他我-独我論」では「私に聞こえない音は鳴ったのだろうか」というかたちに変わる。
あるいは、「人類が滅亡したあとの世界は、誰にも認識されず、存在し得るのか」という問いは、「私が死んだあとは、世界は存在するか」という問いに変わる。
世界を開いているのは私ひとりであるのだから、私に認識されないものは存在しないと考えるのものになるのだろう。

②本当は世界の事態が無いかもしれない
独我論の二つ目は、「モノやコトに対しての我」がこの世界に独りであるという世界観である。世界には本当はモノやコトがないのかもしれないと考える。ここでいう「モノやコト」とは、物質や時空や事態のことである。この二つ目の独我論には、物質や時空や事態の一部が欠けているかもしれないという世界観から、これらの全てが無いという世界観まで、幅広くさまざまなものを含む。
たとえば、「独今論」はここに含まれるかもしれない。
「時間に対しての我」を考えると、それは「今」のことになるのだろう。この今が過去未来から独立しているという世界である。
世界には本当は過去や未来も無いのかもしれない。過去の私は単なる記憶であり、未来の私は単なる予想であるにすぎない。過去の私も未来の私も、厳密に言うと私ではないのだから、私は、過去や未来から隔離されて、今この瞬間のみに存在する・・・とするのである。(ただし、過去や未来の私を他者とするという視点で考えるならば「独今論」は①の独我論に含まれるだろう)

「空間に対しての我」を考えるなら、「独ここ論」と呼ばれるものになるのだろう。

「物質に対しての我」を考えるなら、「観念論」と呼ばれるものになるのだろうか。
これは、モノがあるとする我と、モノそのものの存在を分けて考えるときの我である。世界には、本当はモノが実在せず、存在していると思われるのは私の観念にすぎない・・・とするのである。「トータルリコール」や「マトリックス」「培養脳」などの物語で描かれたような、「現実世界と思われた世界は実在ではなく、バーチャルな空間だった」とする世界観も、ここに属するものだろう。あるいは、物質や時空や事態のすべてが無いのかもしれない、とすることもできる。モノやコトがあるとする我と、世界を成しているモノやコトの存在を分けて考えるときの我に関しての独我論なので、「対モノコト-独我論」とでも呼ぼうか。

本当は、時間も空間も事態も無いのかもしれない。ここに開いている世界は、ここに何ものでもない私があるということ以外、何一つ確かなものはない、全てを疑うことができるような、何ものでもないような世界かもしれないのである。本当は、世界に、今この瞬間の、ここに、私の観念ひとりが存在しているのかもしれない。なんという孤独な世界観だろう。

しかし、これで終わりではない。まだ、この先にも独我論がある。

③「本当は」などという世界が無い。
独我論の三つ目は、「神に対しての我」がこの世界に独りであるという世界観である。ここでいう「神」とは、本当の世界の在り方(リアル、実在)のことである。世界は本当はこのように存在するという「本当の在り方」自体が無いのだとするのである。
一つ目の独我論では世界には本当は他者が無いのかもしれないと考えた。
二つ目の独我論では世界には本当はモノやコトが無いのかもしれないと考えた。
そして、この三つめの独我論では、その「本当」が無いのかもしれないと考えるのだ。
「実在論がダメなわけ 」の章で、実在するものを見るためには最終的に神の視点なるものが必要だと言ったが、ここで否定しているのは、その神の視点なのである。「世界を正しく表す文はあるか 」の章で見てきたように、本当に正しい世界というものがあるとは限らないのだ。
だから、ここに開いているこれこそが世界だとするのである。
神がいたとして、そいつが本当の世界の在り方を知っていたのだとしても、そんなことは知ったことじゃない。ここにあるこれだけが世界だとするのである。

考えてみると、対他我-独我論も、対モノコト-独我論も、「本当は~かも知れない」と考えているわけだから、実在を見極められる神の存在を前提としているわけで、実在論的だとも言える。その「本当は~かもしれない」という実在論的世界観から決別し、世界は私一人が開き、見て、規定するのだという視点での独我論を考えるわけだ。だから、対実在-独我論とでも呼べるだろうか。そうすると、どうなるだろうか。

対他我と、対実在の独我論を、合わせて考える。「他者がいるように見えているが本当はそれは他者が存在しているわけではなく、私がそう思っているだけのものである。」から「本当は」を失くすのである。こうだ。「他者がいるように見えているが、他者は存在しないとして世界を見る。」
独今論と、対実在の独我論を、合わせて考える。「過去や未来があるように思えても本当はそれは実在しているわけじゃなく、本当にあるのは今この時だけなのだ。」から「本当は」を失くすのである。こうだ。「過去や未来があるように思えるが、今しかない世界だとして解釈する。」どうだろう。何かおかしいだろう。
「本当は他我が無いかもしれない」「本当は私が思うような事態など無いかもしれない」などという懐疑は意味を失くしていく。
一つ目の独我論は、「他我の中身を確定させることは不可能である」という問題のみが残ることになり、
二つ目の独我論は、「世界の事態を確定させることは不可能である」という問題のみが残ることになるのだ。

こうして、独我論は突き詰めていくと、結局、「世界は私の世界である」という次元以外のものは消滅していくことになる。

つづく 独今論のダメなわけ

独我論がダメなわけ目次

独我論を論駁する

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コメント

ブログをはじめた初心者です。哲学に興味があり、少し読ませていただきました。余りにも立派なブログで、私の及ぶものではありません。未だ十分に内容を読み取ることがまだできていません。しかし何か、私も実在論の系統の論者かとも思い、興味があります。またあとで読ませていただきますが、電子書籍の部には、なかなか慣れません。じっくり時間をかけて読み込む能力しか持ち合わせないため、パソコンも、今年初めて触ったような未熟者でもあり、文章に鉛筆で傍線を引いたり、コメントを書き込むことで、数年をかけて読み込む癖には時代について行けない宿命かとも思っています。現代物理学理論の矛盾を指摘し、トーマス・クーンの『科学革命』の根本の意義を説いております。まさしく独断専行の実在論と笑われるかもしれませんが、勝手に得意になっている愚か者です。今後ともよろしく。

かなよしさん、はじめまして。こんばんは。
コメントありがとうございます。
独我論について興味を持ってこんなブログを作っていますが、哲学やさまざまな思想には全くの素人です。クーンについても野家啓一氏の案内書を読んだ程度でくわしく知りません。
いろいろと教えてもらえたら、ありがたいです。今後とも宜しくお願いします。

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