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2010年6月12日 (土)

世界を正しく表す文はあるか10 「痛いと思うと思う」を思う

もう一つの問題は、課題文の「~と思う」などは世界解釈の像であって、世界そのものではないのではないか、ということである。

心の中の状態が世界内の出来事であるとする見方もできるだろうし、この世界像自体は世界ではないとする見方もあるだろう。
「~と思う」が単なる世界像の像であって世界そのものの像ではないと考えるのなら、話は単純である。これは、世界そのものを表したものではないのだから、真であるけれども総合文ではない。
それに対して、これが心の中の状態であり、それが世界内の出来事だとするのなら、「~と思う」はその状態を正しく表した真なる総合文だと言えるのではないかとも思いたくなるが、そうではない。正しくは「~と思っていると思う」という世界像の対するさらなる像が必要になるのだ。思っている内容を世界内の出来事だと考えようとすると、この後退はどこまでも続いてしまい、結局、完全に正しい世界の在り方は延々と逃げていってしまう。真なる総合文をすくい取ることはできないのである。

では、「痛い」はどうか。「痛い」というのは、ここに確かに「痛み」があるのだから明らかに正しい文になるのではないか。
しかし、そうではないのである。「痛み」をここで本当に感じていることと、それを「痛い」という文にすることには、深い溝がある。「痛いと感じている」そのことを像にする必要がある。「痛い」は「痛いと感じていると思う」という意味でしかなくなってしまう。「と思う」と同様に、いくら掴まえようとしても「正しい世界そのもの」は逃げていくのだ。
(このことを私は、ウィトゲンシュタインのいう「私的言語の否定」と基本的に同じアイデアではないかと疑っている。)

結局、確実なモノを積み重ねて、論理によって世界像を建てていこうとする「論理実証主義」は出来ないようである。
世界を正しく表す文を一つだけ確定させることは無理なのである。そこで、クワインは「ホーリズム」と「プラグマティズム」によって世界に迫ろうとし、ポパーは「反証可能性」と「開かれた世界像」によって世界に迫ろうとした。一方、ウィトゲンシュタインは「私的言語の否定」と「言語ゲーム」と唱えた。

独我論という世界像が可能なのかどうなのか。
章をあらためて、私的言語やプラグマティズムについて考えていきたいと思う。  

つづく 超越論的な真理は本当か

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