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2010年5月 4日 (火)

世界を正しく表す文はあるか6 分析文と総合文が区分できるというドグマ

前節では、文の一つ一つを一定の経験に対応させることができないことについて考えた。ここで、経験主義の2つのドグマのうちのもう1つの方の、分析文と総合文が明確に区分できるという独断について、それが勝手な思い込みであることを考えたい。

課題文③-2 「白いハクチョウがいる」
「目の前に白いハクチョウが泳いでいるのが見えている」のだからそのまま「白いハクチョウがいる」という総合文が得られるとするのは、そこにすでに「ある経験」を「白いハクチョウが泳いでいるのが見えている」と勝手に解釈した上で「白いハクチョウがいる」と言っているのだとしていることを確認した。
結局、課題文は「いま経験していることは『目の前に白いハクチョウが泳いでいるのが見えている』と解釈できるすると、白いハクチョウが存在する」というトートロジーにしてしまうことで正しい文だとしていることになるのだ。
これは、もう分析文に違いなく、もはやおとぎ話と変わらないものになるのではないだろうか。
そして、もし、目の前に白いハクチョウが見えていると思われるこの感覚(センスデータ)を取り敢えず「白いハクチョウがいる」としておくことにし、絶対に正しいと言うことをあきらめ、間違っているかもしれないことを認めるのであれば、これはおとぎ話ではなく、現実の世界を記述している「総合文」だと言えることになるのだろう。

もちろんこれは、存在文だけでなく全称文についても同じことが言える。「すべてのハクチョウが白い」と言うため一つ一つの現実を検証する時に、その目の前の存在がハクチョウであること、それが白いことを「間違っているかもしれないが、正しい」という態度で検証すれば「総合的」だと言えるし、「絶対正しい」という態度で検証したいのなら「分析的」にならざるをえない。

世界を記述しようとする文は、その文だけでは、それが「分析文」か「総合文」かということが決定できるようなものではないのだ。

それを絶対正しいのだとするために、「世界はこうなのだ」と決めつけてしまう態度に出れば、それは「分析文」になってしまい、おとぎ話になる。
そして、それが正しいだろうけど間違っている可能性もあるという立場で、「世界はこうだろう」として、絶対的な真を確定しようとするのでなければ、それは「総合文」になり、現実の世界を記述しようとしていることになるのではないだろうか。

こうのように、「分析性」と「総合性」の差とは、結局「程度の差」であり、たいへんあいまいなモノでしかない。だから、分析文と総合文を明確に区分することなど到底できるものではないのだ。

ここまで、クワインのいう2つのドグマの、
①分析命題と総合命題とを明確に区分することができることと、
②還元主義(命題一つ一つを一定の経験に対応させることができるとすること)
の2つがともに確証のない勝手な決めつけだと言うことを、確かめてきた。

ここまでの検討から、どんな文でもその一文だけで、その真偽を決定しようとすることは、意味がないと言えるだろう。
どんな文でも、その前提になる状況を設定し直すことで、真にすることも偽にすることもできるからだ。たとえば、「世界は蝶の見ている夢だ」などと言ってこの世界を否定するような大きな代償を払う覚悟があれば、大抵のものの存在を否定することさえできてしまうのだ。

では、だとしたら、世界を正しく表そうというのは出来ない話なのだろうか。

つづく 世界を正しく表す文はあるか7へ 

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