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2010年5月 3日 (月)

世界を正しく表す文はあるか5 経験と対応する文があるというドグマ

ここまでの話で、全称文では真なる世界記述をすることができないことを見てきた。ここから、存在文なら正しい記述ができるのかという問題について考えていく。
ここまで長々と前段を述べてきたが、クワインの「経験主義の2つのドグマ」を私がどう解釈しているかについて、述べるところまでやっと来ることができた。ここから、存在文ならば世界の在り方を正しく表せるのかを見ていきながら、このドグマについて考えていきたい。

クワインのいう2つのドグマ(独断)とは、
①分析命題と総合命題とを明確に区分することができること、
②還元主義(命題一つ一つを一定の経験に対応させることができるとすること)
の2つであり、これが確証のない勝手な決めつけだと言うのである。

順番は逆になるが、まず、2つめの還元主義の方が勝手な決めつけであるとする考え方について見てみよう。

課題文③-2 「白いハクチョウがいる」(存在文)
∃x(Fx∧Gx):「あるものが存在し、それはハクチョウであり、かつ、白い」

存在文の肯定文なら、真なる総合文を作ることができ、正しい世界記述ができるか。
これなら、そのような事実が一つあればいいのだから、すぐに真の総合文を得ることができるだろう。
しかし、ここにも問題がある。いま目の前の池に白いハクチョウが泳いでいるのが見えているとして、このことを「白いハクチョウがいる」という総合文として表現するためには、無数の前提が必要になる。たとえば、「私の眼が調子よく働いていて、正しく見えている」という前提があって、はじめて「白いハクチョウがいる」と言えることになる。他にも、「ハクチョウに見えているのは作り物の模型ではない」「ハクチョウの意味を正しく理解している」「私は夢を見ているのではない」などなど、である。
つまり、
∃x(Fx∧Gx):「あるものが存在し、それはハクチョウであり、かつ、白い」
という文は、これだけで絶対正しいと言えるものではないということだ。本来は、
∃x(Fx∧Gx)∧H∧I∧J∧・・・・・・
:「あるものが存在し、それはハクチョウであり、かつ、白い、かつ、私の眼が正しく働いている、かつ、ハクチョウの意味を理解している、かつ、夢ではない、かつ、・・かつ・・・・・・(どこまでも続く)」
としなければならず、これらの前提の一つでも欠けると、白いハクチョウがいることにはならないのだ。そして、こう考えると、世界の記述の仕方というのは、見たもの聞いたもの思い出したものなどの経験から、ストレートに1つの解釈文が決定するのではないということになる。
「目の前に白いハクチョウが泳いでいるのが見えている」のだからそのまま「白いハクチョウがいる」という総合文が得られるというのは、すでにそこで、「ある経験」を「白いハクチョウが泳いでいるのが見えている」と勝手に解釈した上で「白いハクチョウがいる」と言っているのだというのである。
こうして、「命題一つ一つを一定の経験に対応させることができる」というのは、勝手で無謀な決めつけであったと言えることになる。
結局、目の前にあって手で触って確かめられるようなことでさえ、その一つの文だけを確実に正しい総合文とすることはできないのである。

つづく 世界を正しく表す文はあるか6へ 

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