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2010年4月25日 (日)

世界を正しく表す文はあるか1 分析・総合とアプリオリ・アポステリオリ

世界が本当はどのようにできているのか。

実在論は、確実な証拠が何もないままに世界の在り方を勝手に確定させようとして、それが実在しているのだと「思い込む」ようなものであった。
そこで、「独我論」は、そのような勝手な思い込みによる「おとぎ話」的な世界のとらえ方ではダメだと考えて、「我あり」こそが唯一確実な「本当の世界」の在り方だとして、それ以外の世界は実在ではなく、我の観念にすぎないのだと考えた。
また、「基礎づけ主義」と呼ばれる考え方では、絶対確実な、世界の基礎なるものを見出し、そこから確実だと言えるものを一つ一つ着実に積み上げていくことで、「本当の世界」に近づこうとした。
そして、さまざまな記述文について、アプリオリで分析的なものと、アポステリオリで総合的なものとに分けることによって、本当の世界の在り方を考えようとしてきた。
このとき、「分析的」とは「その文の意味のみによって、それが正しいかどうかが決まるような記述」のことをいい、
「総合的」とは「実世界と比べることで正しいかどうかが決まるような記述」のことをいう。
また、
「アプリオリ」とは「それが正しいかどうかを決めるのに経験を必要としない」ことをといい、
「アポステリオリ」とは「それが正しいかどうかを決めるのに経験を必要とする」ことをいう。
一般的に分析的な文はアプリオリであり、総合的な文はアポステリオリであると、言われることが多いようだ。(カントは、アプリオリな総合文があるとして、数学を例に挙げている。ここにも興味深い問題がありそうだけれども、今は深入りせずに、分析文のみがアプリオリであるという立場で話を進めることにする)

分析文は文の内容だけからその真偽が決まるわけだから、現実世界の在り方とは関係のない文でしかないとも言える。いま欲しいのは、本当の世界の在り方を示してくれる文なのだ。だから、求めているのは真なる総合文だということになる。

それはどこにあるのだろうか。

デカルトは「『我あり』だけはどうしても疑うことができない絶対的な真だ」と言っている。この「我あり」ははたして総合文であろうか?実際にここに「私」がいて、それがどうしても疑えないのなら、正しい総合文だと言えるだろう。しかし、それは「本当」だろうか?

つづく 世界を正しく表す文はあるか2へ 

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