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2010年2月10日 (水)

独我論がダメなわけ5 「世界の限界である私」は他者と向き合えるのか?

①「あらゆる世界像は必ず私の今の世界である」
②「ここに一つの世界が『本当に』開いている」
独我論とはこの2つを同時に問うている議論だともいえるだろう。

①は、ある世界像について、その世界を開いている視点のことを「私」と記述し、開かれている時点のことを「今」と記述するのだから、あらゆる世界像は、必ず「私」の世界であり、「今」の世界である。当然すぎる話で、トートロジーでしかない。
②は、誰にも伝えることができない内容である。これを理解できるものは私以外には存在せず、独り言で言うしかない。

それゆえ、①も②も発言に値しない。だから、独我論は無意味である。

②について、もう少し付け足そう。
世界を開闢している私を「私A」とし、世界の内に存在し他者と話ができる私を「私B」とする。このとき、「私A」と「私B」を混同してはならない。
ウィトゲンシュタインが『論考』で「主体は世界の限界である(5.632)」と言った主体は、「私A」であり、他者と話をすることができる主体は「私B」である。
別のものである。
だから、「私Aは世界の限界である」と他者に発言したとすれば、発言したこと自体が間違いであり、「私Bは世界の限界である」と発言したとすれば、その内容が間違いである。
どちらにしても偽となる。この命題は独り言でいう分には当たり前の内容なのだが、他者に発せられてしまうと必ず偽になってしまうナンセンスな発言なのである。

だから、独我論は他者と話し合うことができないのだ。一人で悶々と考え続けないといけない。こんなところで話し合ってしまってはダメなのだ。
こうして、独我論も否定される。

つづく 独我論がダメなわけ6へ 

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コメント

はじめまして、
「独我論」で検索していてこちらにたどり着きました。
私も哲学は素人ですが、哲学的な興味はあって、もうかれこれ40年は哲学しています。
私は、現在の哲学そのものに疑問を感じています。

私のブログは、誰にでも理解できるように易しい言葉で書いています。
というか、それが私の実力ということかもしれませんが、
難しい言葉を使わないとできないような哲学は意味がないと思っているのですが、弁解に聞こえますでしょうか。

独我論は理解はできますが、それですべてを解釈しようとすると、非常に複雑なものになってしまいます。
私は人間に与えられているものは何か。何ができるかが問題だと思います。
いかに疑問があっても、できないことはできないのですよ。

凡人さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
現在の哲学はむずかしい言葉を使ってしまっているという指摘その通りだと思います。僕も、中学生の息子が理解できる内容を心がけているつもりですが、難しいです。
「何ができるかが問題」というのは、思考の限界、言語の限界を考えようとしたカントやウィトゲンシュタインの言ったような意味でおっしゃっているととらえましたが、いかがでしょうか。

はじめまして、こんにちは。
哲学書は永井さんの本しか読んだことがないので、問題意識がおそらく偏っていると思います、
お許しください。

「世界にいくつもの生命・意識がある」ことと、「そのうちのどれか一つが本物の世界になる」
との間には途轍もない差がありますよね。そのギャップを『現に』横山さんは私に伝達出来ているから、
語っていることは無意味ではないような気がします。最も、端的な現在そのものは語られてないとは思うのですが、
問題をなぜか共有できている理由が私には全然分かりません。横山さんはいかがお考えですか。

塩谷さん、こんにちは。よくお越しくださいました。歓迎します。

塩谷さんの問いは、
この現実世界の開闢者が端的な事実としてこの横山信幸の視点独りだけであること、それは本来なら語り得ないものであるはずなのに、実際には、こうやって伝わっている。
それはなぜか?
という問いだと捉えてよいですよね。

それは、僕もとても興味のある問いです。
ウィトゲンシュタインやダメット、マクタガート、ベルクソン、ドゥルーズ等々このブログで取り上げている様々な問いどもも、どれもその同じ問いを共有してるような、とても重い問いだと感じています。
それで、僕にとってそれはまだまだ答えが見えていない問いなのですが、現時点で考えていることはありますので、それを紹介させてもらいます。ただ、それは、僕の問いにおいてのものなので、もしかすると、塩谷さんの問いに対してはまったく的はずれのものかもしれません。そうであればごめんなさい。

僕は、それが「私的言語」やいわゆる語り得ないとされる「クオリア」の私秘性に関連する問題だと考えます。そして、それらが本来なら語り得ないとされるのは、それを語る言葉の意味を設定するときに、他者や神などの存在自体が語り得ないとする立場を取るのか、語り得るとする立場を取るのか、についての「立ち位置」をどう設定するのか、ということがこの問いの本質ではないか、と考えています。
永井やマクタガートそしておそらくヘーゲルやアリストテレスなどは、それが語り得ないとする立場を取ると思います。それは存在自体が決して一義的には語れない「存在の非一義性」の立場になりそうに思えます。
対して、スピノザやキェルケゴールやニーチェやウィトゲンシュタイン、そしてプラトンなどは、それが語ることにできるとする立場を取ると思います。だからこそ逆に私的言語が不可能だとすることになるのだと。そして、それは世界は私の生によって実存するがゆえに「存在は一義」でなければならないとする立場になるのだと思えます。(永井はこの問いが、ウィトゲンシュタイン以前には問われていなかったとしていますが、僕は普遍論争自体がこの問いに深く関わっていて、多くの哲学者がその問いに対して意識的だったのではないかと疑っています)

さて、そのように捉えたときに、
①「この現実世界の開闢者が端的な事実としてこの横山信幸の視点独りだけであること、それは本来なら語り得ないものであるはず」
②「なのに、実際には、こうやって伝わっている」
の①と②はその2つの立場を行ったり来たりさせてしまったことによる勘違いな問いなのではないか、

というのが、現時点で僕の考えている回答案です。

しかし、僕が採ろうとしている言葉遣い、すなわち、
私的言語などなくて、私が私のクオリアを語れて私が現実世界の開闢者であることを語れるとするような言葉遣い、
を認めるためには、様々な不具合が出てくることも確かなことではあるのです。それはしかし、矛盾ではなく、ドゥルーズが副次的矛盾としているものに過ぎないと考えています。
そして、永井などの言う、私的言語があって、私秘性が語り得ないとする言葉遣いを採るなら、マクタガートやヘーゲルの言うように、我々が生きるためには矛盾を受け止めなければならなくなると考えています。

それで、僕は、矛盾したらダメという立場で、私的言語はないとする方をとるべきだと思っているのですが、でも、その辺りは好き嫌いで決めても良いのかも知れないとも、思っています。

いかがでしょうか。あまり、伝わるような回答にならなかったかもしれません。ご質問からずれたかもしれません。
回答になってなかったらスミマセン

付け加えます。

それゆえ、

①「この現実世界の開闢者が端的な事実としてこの横山信幸の視点独りだけであること、それは本来なら語り得ないものであるはず」
と言うのであれば、
そこで語り得ないとしたそのこと自体は、その言葉遣いの文脈においては、決して、僕と塩谷さんとは共有できておらず、それゆえ、自分自身でも何を言っているのか実は何もわかっていないとせねばならない、
と思います。

そしてそれに対して、
②「そうは言っても現実に共有できている」
と言うのであれば、
その言葉遣いの文脈においては、そこで語り得ないとしたその内容自体が実はまったく語り得る内容だったとしなければならない、
と思う。

と、そういう感じのことを考えているわけです。

濃密な議論を示してくださり、大変ありがたく思います。その濃密さをまだちゃんと理解できてないのですが・・・

>>この現実世界の開闢者が端的な事実としてこの横山信幸の視点独りだけであること、それは本来なら語り得ないものであるはずなのに、実際には、こうやって伝わっている。
それはなぜか?
という問いだと捉えてよいですよね。

 その通りです。私の方は死ぬまで「唯一の現実は目の前のこれだけです」と主張しますし、そのことをよくわかっているのですが、これを本来語りえないはずの他者(永井さんや横山さん)がこの私に伝達出来ていることの意味が知りたかったのです。

>>付け加えます。それゆえ~(以下略)について
 存在が一義かそうでないか、ということがどういうことなのか、すみませんわからないです。簡単な説明かなにか参考書を挙げていただけると嬉しいのですが。

 横山さんの意見では、クオリアが各人にとって私秘的である、ということと横山さんの視点のみが唯一の現実だ、ということは両方とも語りえる、ということですかね??だから矛盾も存在しないと。
 ①と②の往復運動が誤った理解を産む、ということが腑に落ちました。私は①一本槍でいくほうが性にあっているようです。横山さんとはここで差があるのかもしれませんね。塩谷が開闢点であるような現実が、横山さんの唯一の現実性を「現実」に否定してしまっている、と私は確かに言うことができますが、唯一性は端的に共有不可能と思われるので。しかし、なにか独在論は反論を許さないような体系で、議論をこれ以上広げられる気がしないのが、今の僕の心配事です。横山さんは永井さんのレトリックを錯誤とみなせる論拠ができあがりつつあるのでしょうか?私の方も考えてみます。返信ありがとうございました。また質問させてください。

追記:存在の一義性はこのブログでまとめられているのですね。まずはそこから学んでみます。

塩谷さん、
クオリアについては、僕はそれをかなり批判的に捉えていまして、このブログでも、たくさんクオリア批判のページを書いてます。一般的によく哲学課題とされてるチャーマーズのクオリアは、それが物的機能から完全に独立だと定義されているというその語義によって、必然的にナンセンスな私的言語にならざるを得ず、それが指示する内容は自分自身でも捉えられるものになるわけがない、という批判です。

その話も、存在の一義性の問題も両者ともがかなり深く関わりあっていると考えてます。よろしければ、ブログ記事のあちこちを読んでもらえると嬉しいです。
何か疑問や批判や意見などあれば、またお気軽に書き込んでください。

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