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2010年2月 7日 (日)

独我論がダメなわけ4 「世界が観念であるという世界モデル」は可能なのか?

世界を認識しようとした時に、物自体を直接知ることはできない。世界の像を試作して、それによって理解したつもりになるしかない。
そして、その世界の像というのは多種多様なものをでっちあげることができるのだ。
言葉によって像を作ること以外に、絵や模型、ビデオ、音楽テープや、映像、あるいは空想など、さまざまな形態で作ることができる。本当らしいものでも、それはないだろうというものでも、神が存在するというモノでも、他者が存在しないというモノでも、何でもいいのだ。
そのうちのどれが現実の世界と一致するか、あるいは一致しないかを決めることで、その像が真か偽かを決めることができる。

現に、今ここに、世界は開いている。このコレがどんな世界であるかを理解するには、なにがしかの像をあてはめるしかない。
今ここに、私がいて、この目の前にテーブルがあり、テーブルの上に紅茶がのっている。そして、昨日のことを思いだしている。・・・・・たとえば、これが、言葉で表現した世界像である。
これに対して、像になる前の世界とはまさしくここに広がって見えて聞こえて思いだせるのだが、それ自体は全く意味を持たない混沌である。そこに意味を見出すにはそれをなにがしかの枠にはめて意味を作りだす必要がある。カントのいう「カテゴリー」である。世界の混沌のデータはカテゴリーに当てはめられてはじめて、長さや色や時間や重さなどを持つことができ、像を成すことができるようになる。

このようにして世界の像が作られると、それに応じて世界の成り立ちを理解できることになるのだが、得られたデータを矛盾なく組み立てていればどんなモノでも「本当の」世界として理解できることになる。
たとえば、昨日の出来事の記憶を、昨日の記憶として整理し理解するとき、「昨日トイウ時間世界ガ実在シタ」とするような世界像を作ることができる。あるいは、昨日の出来事というのは今ここに記憶としてあるだけだとして、「過去ナド実在シナイ」とするような世界モデルを作ることもできる。「実在シタ」という言い方と同様、「実在シナイ」という言い方も、どちらも本当の時間像とすることが許されるのではないだろうか。

では、物自体が存在するような、「物事が実在するのだという世界像」を作ることができるように、「物事が実在せず観念のみがあるのだとする世界像」を作ることもできるだろうか。・・・・・・それができたとして、それは無矛盾な世界像なのだろうか。また、それはどういう意味があるのだろうか?
しかし、ここで言う「観念」と「像」とは、同じものではないのか。つまり、「実在」とは、「像」にして理解するほかないという意味で、「観念」でしかないのではないだろうか。

だとすると、
「世界は観念だ」という発言は当然過ぎて何の意味もない「無意味な発言」でしかないのではないか。

これに対して、バークリは「私が物質的実体の存在を否定するのは、物質的実体の思念が存在するということが自家撞着だからである。(対話)」と言っているが、私は逆に「世界は観念だ」という発言の方がトートロジーであるということに注目したい。
そのような観点で、独我論のいう「世界は観念だけによるという世界モデル」は、可能ではあるが無意味であると言えるのではないか、という疑問が生まれる。

つづく 独我論がダメなわけ5

独我論がダメなわけ目次

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