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2010年2月28日 (日)

独今論がダメなわけ2 独今論問題は文法的な問題でしかない?

「今が、『ある』。」 「過去が、『あった』。」 「未来が、『あるだろう』。」 時間について、一般的にそういう言い方をする。

独今論が「本当にあるのは今だけだ。」というのは、「『ある』と言うのなら今だ。過去なら『あった』だ。」などと言うような問題になるとは考えられないか。
独今論は、結局、文法の問題になってしまうのではないか。

ここでいう「文法」というのは、「世界を記述する際に時間なるものの存在を受け入れた方が合理的で簡単に世界の様相を記述することができるようになるので、時間のある世界像を設定した」ときの、その設定の仕方のことだ。

世界を語るときに、「時間などない。在るのは今だけだ。」とするような世界像を設定することも可能かもしれない。独我論や独今論がおそらくそれを担うものであろう。「今だけが在るのだ」という「独今論」は、時間を否定することで、かなり難しくややこしい世界像を展開しなければならないことになるだろうけれど、そういう世界像もあることはあるだろう。
しかし、それは、一般的な日本語には乗らないだろう。一般的な日本語で言おうとしても、「『ある』と言うのなら今だ。過去なら『あった』だ。」という問題と区別できなくなってしまうからだ。

そう考えると、「今」という言葉の意味について「独今論」は間違っているとも言える。

ここに世界が開いている。この世界を記述するのに時間と言うモノを設定した方が、合理的に世界を理解することができる。そこで、時間を設定し、「今が、『ある』。」 「過去が、『あった』。」 「未来が、『あるだろう』。」 という世界像を導入する。
「今」とは、そうやって過去と未来と共に生まれるのではないか。

そして、その時間スケールを、ここに実際に開いている世界にあてはめてみる。すると、この世界は、「世界は今である」とも、「世界は、過去であり、今であり、未来である」ともいうことができるものとなる。

つまり、独今論の「今」は、過去と未来とセットで設定すべきものから「今」だけを残したものになってしまっていて、「この本当に開いている世界」の名前を単に「今」と名付けただけの世界像になっているのではないか。

つづく 世界を正しく表す文はあるか

独我論がダメなわけ目次

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コメント

独今論はベルクソニズムの影響を受けているので
そこを端折ると記事のような解釈になってしまいますね…

http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/kobayashi(04-1-31)

コメントありがとうございます。

上記の京産大の小林先生のレポート、読みました。(もしかしてご本人でしょうか)とても面白いと思います。でも、僕の読解力のなさと、哲学的語彙の不足とのために、なぜ、「独今論はベルクソニズムの影響を受けているので そこを端折ると記事のような解釈になってしまいますね…」なのか、その意図が読み取れませんでした。よろしければ、解説をしてください。
よろしくお願いします。

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