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2010年1月31日 (日)

独我論がダメなわけ1 世界を見るための言語が違うだけ

バークリのいうような独我論的な観念論も、カントのいう物自体を認めるような観念論も、一般的な実在論も、結局、世界を見る時の切り口が違うだけなのだろう。世界を見るための言語がどのようなものであるかによって、世界は変わる。たとえば「在る」という言葉の意味の定義の仕方によって、世界の断面や、そこに見られる景色は大きく変わる。

そこのところを、ていねいに分析していくと、「独我論」を否定したり、否定できなくとも「独我論」も特別な世界観ではなく、実在論のうちの単なる一つの見方であるということを示せたりできるのではないか。

ここからは、様々な使い方をされている「独我論」のうちの、一部の独我論は世界に対する懐疑の仕方が甘く、また別の「独我論」は厳しく懐疑しているが、どの「独我論」にしても、もっとも基本的な存在論であることにはならない・・・・という議論にアタックしたいと思う。

つづく 独我論がダメなわけ2へ   

独我論がダメなわけ目次

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コメント

 哲学がダメ扱いされるのは、たくさんな視点があるときに、どっちでもいいよね、と言わずに他方を否定するところだと思います。
 (哲学何も知らずで、勝手なことを言いますが・・・)

 宇宙の本質は、
 「解らない、知り得ない、そうかも知れない」
だと思っています。
 それらしい、自分になじむ答が沢山あればいいのです。
 あるものとごが「ある」、と主張するならば、他方は全て「解らない、知り得ない、そうかも知れない」でいいのです。

 哲学者たちは頭がとても固い、と思えてしまいます。

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