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2009年12月 9日 (水)

独今論者はカップ麺を作れるか

独今論の「今」とはいつか

独今論の示す世界モデルは、「今」という瞬間の世界だけが「実在」であり、過去や未来というのはこの「今」の内部にだけ(記憶や痕跡あるいは予想や予測として)、存在しているという考え方である。しかし、この世界像をどのようにイメージすればいいかというとよく分からない。具体的にはどうイメージすれはいいのだろうか。

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まず、「本当に」存在する客観的な時間をイメージする。過去から未来へつながっていく一筋の時間軸のうちの一点の時を「今」として定め、この「今」が、世界の開闢点として過去から未来へ移動していくという時間像を考えてみる。その上で、その時間軸の中の過去と未来の部分を、いま開かれているこの世界とは関係のない別世界のものだとして消し去ってしまい、「今」だけを「実在」の出来事として残しておく。そして、過去や未来は、この「今」の私の意識の中のだけに存在するのだとイメージしてみよう。「今」だけが「実在」であり、過去や未来は「実在」していないとするのだ。独今論のイメージとは、このようなものではないだろうか。
しかし、この時間のイメージはうまくない。このイメージでは、3分後が世界の外側になってしまうので、3分後の自分が他人になってしまう。3分後の自分のためにカップ麺を作ることさえできなくなってしまうのだ。
この世界像は、ウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」という著作で「視野はこのような形をしてはいない」と批判した、その形になってしまっているのだ。

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どこで間違ったのだろう。実在論と独我論を不用意に混ぜこぜにしてしまったことではないだろうか。「論考」の図では、開闢者である「眼」を私の世界の「モノ」として描いてしまったことが問題であった。このことをウィトゲンシュタインは「主体は世界に属さない。それは世界の限界である。」と語っていた。
この「今の私」だけが「本当に」存在するモノだとするのは、ウィトゲンシュタインの批判した、主体を世界に属する状態としてしまうことになる。独我論的な世界の中に実在論的な存在が紛れ込んでしまわせた点で、間違っているということだ。ウィトゲンシュタインの図の示している「眼」とは、世界の開いている主体である。この主体は世界の内部にはモノとして存在してはならないのだ。実際に世界の中に私の眼は物体としてある。この眼によって私は世界を見ることができているということも言える。しかし、この場合のモノとしての眼は世界を見るための単なる機関であって、世界を開いている主体ではない。ここでいう主体とはコギトの地平を考えた時の「我」でさえない何ものかのことである。(「我思うゆえに我あり」の「我」はこの世界の開闢の主体だとすべきであるのに、それを世界の内部のモノとして捉えてしまう混乱が、たいへん多いように思う。)
先ほどの独今論のイメージでは、「今」を「実在」する事柄だとしてしまっていたが、この「実在」や「本当に」がやはり曲者なのだ。「本当」の「今」が「実在」していてそれが世界を開いているのではなく、先に世界が開闢しているのである。この世界が「今」であるのだ。ここは重要だと思うので繰り返しておこう。「眼」が先にあって、世界が開かれるのではない。開かれた世界が主体なのだ。「今」が先にあって、世界が開かれるのではない。開かれた世界が主体としての「今」なのだ。
それでは、独今論の「今」とはどうイメージするべきなのか。
「今」とは、この目の前に広がっている世界そのままの、これではないか。わざわざ、時間軸を設定してから今を探すような回りくどいことをしなくても、ここにある「これ」を「今」だとすればいいのだ。
いや、コギトの地平、「我思うゆえに世界あり」の地平では、「我」も「空間」も「時間」もまだ存在しない。ただ何ものでもない世界の混沌があるだけで、時間そのものがまだ存在しない地平であった。まだ、時間がないのだから、まだ「今」とさえ言えないような混沌である「これ」がまずあって、ここを時間的原点として設定する作業から始めるのが、独今論の「今」なのだろう。

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すべては、この何ものでもない世界がコギトの地平として開かれるところから始まる。すべての存在は、この唯一絶対の開闢からしか発生し得ない。
だから、すべてを疑いつくした最後に残った、この混沌が世界の開闢であることを確認した上で、その混沌が理解できるような形に整理していく必要がある。何ものでもない混沌の世界に、「時間」という枠組みを使って整理しようとするとき、はじめて「今」と「過去」と「未来」が生まれるのではないか。また、「空間」という枠組みをあてはめて理解しようとするとき、「ここ」と「あちら」が生まれる。そして、人格的区分という枠組みを使って整理しようとするとき、「我」と「他者」が生まれるのだろう。だから、まだ何もない混沌から「今」や「ここ」や「我」が切り出されて生まれてくると言える。「今」「ここ」「我」はもともと一つであり、開闢そのものを時間、空間、人格という刀で切り取ったときに現れる、それぞれの断面であるとも言える。
こう考えてくると、独我論と独今論とはもともと同じものであると言えそうだ。いずれも、原初の混沌の地平から世界を開いていこうとする世界の見方だからだ。これを空間的に切り出した場合に「独ここ論」と呼ばれ、時間的に切り出した場合に「独今論」、人格的に切り出した場合に「独我論」と呼ばれるものになるだけなのだ。
こういう意味で、独今論の「今」とは唯一絶対の開闢点であり、世界を開く主体であり、世界を形成する限界である。時間が生じるまえから存在しているという意味で、この主体としての「今」は時間でさえないのである。
独今論者は3分後の自分のためにカップ麺を作れるか
先ほどは、最初に客観的な時間が存在すると考えて、そこから過去の部分と未来の部分を消したのだが、もともと客観的時間が存在していると想定したのがいけなかった。独今論では、もともと客観的時間などないのだ。先に「今」があってこの「今」が世界を開いているのではなく、開かれた世界が「今」であると考える。この世界の中で、過去を思い出したり考えたりすることができ、未来を予想して考えることができる。これを過去から未来までつなげていって時間の像を作ることができる。
過去が「本当に」あって、それによって今の記憶や痕跡が生じたのだと考えるのが、実在論的な時間論であろう。しかし、独今論では、そのような独断的な「本当」の存在の仕方を拒否して考えることにする。過去が「本当に」あったのかどうかとは関係なく、今世界が開かれているこの事実のみを、世界を理解する手掛かりとしようというのである。今私には自分が昔小学生だったという記憶がある。その他の様々な痕跡から考えて、「私は小学生だった」という事実があったのだろうと推測できる。でも、その小学校での授業内容はほとんど覚えていない。だから、授業はなかったのかと言うと、そんなことはない。「どんな授業だったかわからない」だけだ。「わからない」ということを認めるのが、独今論の時間観である。
 

この時間観で考えると、ラッセルの「5分前世界創造説」も、「客観的時間の中で5分前以前の時間というのは本当は無いのだ」という話ではなく、「今の時点から見ると、世界は過去から延々と続いてきたように思えるけれど、その推測は間違っているかも知れないよ」という普通の不思議でもなんでもない意味になってしまう。5分前に作られたどころか、今しかないのだ。今ここに開かれているこの現実だけが世界の全てなのだから、この世界についての観測や推論のミスはあるかもしれないし、どうしても解明することができない問題もあるのだという、当たり前の話になってしまうのだ。
だから、「過去も未来もない。あるのは今だけだ。」という考えも、「それあ、もともとないんだ。私が今、開いているんだ。」という普通の話になってしまう。
そうすると、3分後の自分はどうなるか。今ここに「開闢の私」がいる。「開闢の私」は、「今」や「ここ」や「我」などという基準点を世界の中に設定し、そこから世界像を組み立てる世界の原点になる。この開闢の原点から見る限りにおいてのみ、過去も未来も確かに存在するのだ。ここで、3分後になったら3分後の私が開闢の原点になると考えてはいけない。そう考えると、3分後の私が他人であることになってしまう。この開闢の原点は現に今ここにしかなく、3分後の私というものも、今ここで開いているこの世界の出来事だと考えるしかないのではないか。そして、3分後の私というのは、未来の予想という意味でだけ「本当に」存在するのだと考えるべきなのである。
こうして、3分後の私はこの世界の存在であり、他人ではなく私自身のためにカップ麺を作ることができるのである。
しかし、そのカップ麺を味わうことは未来のこととして想像するしかないことになる。味わうことは諦める以外なくなるのではないか。私は「本当に」食べることができないのか。それは次節以降で考えたい。

独今論者はカップ麺が食べられるか

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