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独今論の「今」は0秒間か

独今論」は成立するのか

ここまで、「私が瞬間ごとに消滅しそのたびに再構成される」という「瞬間の世界」モデルを作っても、何ら不都合がないことを論じてきた。しかし、この「瞬間ごとに再構成され消滅していく私」というのは、その一つ一つが「世界の開く者としての私」であったので、それぞれの瞬間瞬間の私が別の世界を開いていることになってしまう。だから、この「瞬間の世界」は、結局、今この瞬間だけが私の世界であり、すべての過去も未来もみな、自分ではない他人がひらいた世界になってしまうということだった。つまり、「瞬間の世界」モデルは矛盾なく作れるのだが、それは「今この瞬間だけが存在する」という「独今論」と同じことを語っていることになるのである。

ここまで論じている「独今論」は「いつでも私がいるところが『今』であって、『今』以外にいることはできない」を意味するものではない。そのような「いつでもある今」を対象にしたものではなく、「今は、唯一この瞬間だけしかない」とするものである。そうは言っても、現にほらこうしている間にも「今」はどんどん過ぎ去って、唯一の瞬間になど、とどまりうるものではないじゃないか、と反論されるかもしれない。確かに、ただ一つの瞬間を「今」として選んでしまうと時間が固定されて、時間が流れなくなってしまうのではないかと思われる。しかし、無理を承知で、唯一絶対の「今」がただ一つ、ここにあるこれだけのものとしてあり、この「今」というところに、過去の記憶や記録があり、未来の予測があるだけだとする。この世界モデルが、ここでいう「独今論」である。

実際に「世界を感じうるのはこの今だけであり、すべてはここから観測するしかないのだ」ということは、当たり前のことを言っているようにも思える。しかし、そこにはいくつかの疑問が生じる。この「今」というのは時間の幅が0の瞬間という意味だろうか。それだったら、運動など起こり得ないのではないか。時間の流れはどうなるのか。だいたい、私たちの暮らしている世界が、過去や未来を別世界の出来事だとするのなら、3分後の自分のためにカップ麺を作ることさえできなくなるのではないだろうか。こうして考えてみると、「独今論」が成り立つ可能性はないかも知れないと疑われてくる。

そこで、「独今論」のどこが正しくて、どこが間違っているのか、そのハードルを一つ一つ検証し、確かめていきたい。

 

5分前世界創造仮説

まず、独今論の「今」の時間幅が0ならどうなるかを、考えたい。時間幅の無い世界などあり得ないのではないか。もしあり得たとしても、その世界は単にモノの集まりでしかなく、出来事など起こり得ないのではないだろうか。だから、独今論の「今」には幅が必要なのではないか。しかし、だとしたら、その瞬間の中には、非常に短時間であったとしても、やはり時間の流れが存在してしまうことになる。これは「独今論」が矛盾していることになるのではないか。それとも、時間幅のない世界が存在することは可能なのだろうか。

ラッセルという数学論理学者が、「5分前世界創造説」というものを唱えた。これは、世界がまさに5分前にいきなりできたのだとする説である。1985年に阪神が優勝したという事実も、2009年夏に自民党が惨敗して下野したという事実も、その通りの状態でその通りの記憶や記録を持った世界が、5分前に突然生じたのだというのである。「そんなバカな」などと言ってはいけない。それを実証することはできないが、反証することもできないのである。たとえば6分前の記憶がある事は何の反証にもならない。なぜなら、この説は間違った記憶を持った状態で、5分前に世界の全てが生じたとするものだからだ。

そこで、今考えたいのは、「この5分間が0秒間になっても同じことが言えるのか」ということだ。全く時間幅のない「今」という瞬間に、世界がいきなりできて、そして同時に消滅してしまう「世界0秒間創造説」というものが可能かどうかである。

 

時間を失ったものは存在し得ない。「時をかける少女」の1シーンから

よく映画などで「時間」が止まるシーンがある。アニメの「時をかける少女」では時間が止まったスクランブル交差点の雑踏で、主人公たちだけが動いて話し合うという場面があった。しかし、これは時間の止まっている状態だとは言えない。時間が止まっていないからこそ、運動の静止があるのだ。もし、時間が本当に止まっているのであれば、主人公たちも歩いたり話し合ったりできるわけもなく、群衆とともに静止しているはずである。しかしその静止状態は誰にも観察できないのである。誰かがそれを止まっているのだと言うときには、その誰かにとって時間が動いていなければならないのである。そして止まっていることが誰かによって確認された状態とは、時間の止まった状態ではなく、単に運動が静止した状態でしかないのだ。

「時をかける少女」のそのシーンでは、「自分たちだけの時間を動かしたままで、その周りの世界の時間だけを止められる装置」を使ったという設定だったとしようか。だとしても、うまくいかないのだ。そのとき、時間の止まった方の世界は、光さえ静止しているのだから周囲や雑踏の様子は見えないはずである。主人公たちの体と触れ合ったとしても、時間がないのだから物理的な力はすべて働くことができず、主人公たちと相互作用することができない。触れ合ったとしてもそれに反応することができないのだ。主人公たちには時間の止まった世界が見えず触れることもできないことになる。だから、結局、無時間の世界は存在しないことになってしまうのである。

 

「0秒間世界創造説」

それでは、独今論の「今」を時間0の瞬間とすることはできないのだろうか。別方向からトライしてみよう。今度は、「5分前世界創造説」の5分間を短縮していって、時間0にすることにチャレンジしてみる。

まず、5分前創造説の5分が何度も繰り返される世界を想像してみる。「それまでの過去の経過があったものだとする記録や記憶を備えた世界」がある時刻に突如現れて、5分間が経過したら、ふたたび5分前とまったく同じ世界がまた始まる。そして、また5分間たったら三たび同じ世界が現れ…、というように、同じ5分間がエンドレスで繰り返される世界を考える。この世界の住人は、その人生が実は5分間しかないものだとは気づかずに、日常の生活を送っているのである。この内部は5分間だけの世界ではない。この5分間に、長い長い人生の思い出とその情感と、これから来るべき長い長い未来への希望と絶望の全てが、記憶であったり予測であったりするものとして、あるのだ。何度繰り返されようとも、この世界の住人にはそんなことは知ったことではない。ただ一回きりのこの瞬間を、一度きりの人生のものとして送っているだけである。まるでニーチェの「永劫回帰」の5分間版だ。

そして、この5分間を、3分間にし、3秒間にし、どんどん短くしていってみよう。0.1秒間に短縮して、その0.1秒が何度でも繰り返される「永劫回帰」をイメージすることもできるだろう。しかし、この繰り返される時間を完全に0にすることはできないのではないだろうか。時間幅を0にしてしまうと、それを何回繰り返しても、それを想像する私の方に想像するための時間的スペースができないから、想像しようにも想像することができないのだ。

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ここで裏ワザを使う。ビデオ映像を一時停止するような状態として、世界を捉えるのだ。つまり、完全に時間幅を0にして停止した世界を想像するために、それまでの時間とは別に、新しい時間次元を導入する。今までの時間軸をテレビの中の時間だとして、その時間を止めたままで、それとは別の新たな時間としてテレビの外の時間の流れを考える。そうすれば、とりあえず止まった時間をイメージすることができるのである。このように、完全にその世界の外から眺めるのであれば、時間を止めることも、時間幅を0にすることも可能なのである。そして、この世界イメージでは、外から見れば無時間である世界でも、その世界の中にいる住人にとっては延々と続く過去と未来がまさにあり、鳥が空中に浮かび、歌がリズムにのって歌われているのである。

5分前仮説と同様、この世界0秒間創造仮説も、それを実証することはできないが、反証することもできない。その意味で、5分前仮説が「世界の外」の話であり、「おとぎ話」であるのと同じで、世界無時間仮説も空想の話でしかない。もともと、5分前創造仮説の時点で、イメージ設定のために世界の外からの視点を入れてしまっているのだ。外からの視点を導入しないと、こんなふうに「本当は○○かもしれない」などと言うことはできない。しかし、このような「本当は○○かもしれない」というおとぎ話としての意味でだから、時間は流れていないことにもできるのだ、とも言える。

さまざまな時間像

現実に世界を開いているこの視点を「今」と呼ぼう。この「今」という視点は、時間軸にそって移動していくとするイメージが一般的ではないだろうか。秒速1秒で過去から未来へ向かって移動していくというイメージだ。しかし、世界の外からの目線で語っていいのなら、この「今」は秒速1秒で移動しなくてもいいのだ。「今」の移動速度が、ゆっくりだったとしても、突然10分前の私が世界の開闢者になりその「次の瞬間」に3年後の私が世界の開闢者になっていたとしても、また時間軸を「逆行」したとしても、あるいは、まったく動かなかったとしても、そんなふうに「今」があっちに行ったりこっちに来たりしていることに、この世界の中の住人が気付くことはできないのである。世界の中にいる方の私と、世界のあり方を空想している側の私が、それぞれの別の時間を持っているのだから当然と言えば当然である。

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さらに、時間像というものは、もっといろいろな種類のものがイメージできるだろう。

時間軸の中で「今」が移動するのか固定しているのか、時間の帯が連続しているか否か、時間の最小単位に長さが有るか否か、また運命というものがあるのか否か、などの視点で、さまざまな時間像を作ることができる。

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いずれの時間像でも、これらの世界の住人にとって時間が停止したりジャンプしたりするわけではない。運動をしているものは運動の速度を持ったまま、それまでの過去の経過があったものだとする記録や記憶や、これから起こるであろう未来の出来事の予想をすでに備えた世界があって、この世界の中の人にとっては時間が流れているのだ。けれど、この世界を外から見た場合に、時間が停止していたり、逆行したり、不連続だったり、最小単位があったりするような設定をすることも可能だということだ。しかし、このような時間像はどれも世界の外から考えた「おとぎ話」である。「おとぎ話」だから、さまざまな時間の流れ方を自由に想定することができるとも言えるのだ。

外の世界の時間はおとぎ話の時間でしかない

5分前創造説にしても、0秒間創造説にしても、この世界が必ずそうなっていると主張することはできない。そうかもしれないと言えるだけだ。今ここで考えてきたのは、「独今論」の「今」が時間幅0でも成り立つかという問題であったが、ここまでの検討によって、5分前創造説や0秒間創造説の設定に不都合がないと確認することはできただろう。しかし、この確認に何か意味があるのだろうか。ここで確認できたのは、「独今論」の「今」は時間幅0としても原理的に成り立つということだけで、この世界の時間幅が本当に0なのかどうかという話とは全く関係がない。「世界が5分前に突然生じたのだ」と言ったとしても、独今論の「今」が0秒だと言ったとしても、その5分や0秒は、この世界の内側での時間ではなく、世界の外に勝手に設定したおとぎ話の時間の話なので、結局、何も意味がない発言でしかないのではないか。世界の外からこの世界をどう見たとしても、それは、独断的な「おとぎ話」でしかなく、客観的な世界についての話にはならないのだ。

独今論の「今」とは何を指すのかについて、世界の内側から実際に見ることができないのだが、世界の外から見ようとしても、おとぎ話の世界の時間を勝手に設定してしまい、好き勝手な時間像ができるだけで、何も答えられない。

「独今論」の「今」とはいつのことなのか。結局、ふりだしに戻ってきてしまった。

つづく

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コメント

ラッセルの5分前に起きているという議論は、無意味のようで、面白いですね。私ももっと勉強して皆さんの議論についていけるようになります。

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