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瞬間転送と私の死

このページでは
自分自身を瞬間転送させる思考実験によって、「私の死が今ここにあること」や「私は死に続けながら、生きている」という発言ができることを導き、そして
、独今論へつなげていきたいと思う。

論の展開の手順としては、

①転送作業によって私が生きて転送されるのか死んでしまうのかという疑問について、その問題は、私が「私」自身をどうのように定義しているかという問題になってしまうことを考える。

②転送された私が死の経験したことになるということを考え、

③私が次々と消滅しそのたびに再成され続けているのだと仮定したとしても、何の不都合もないことを考える。

そこから、目標の「私は死に続けている」という発言を導き、自分の「死」を実感できるようになることを目指したい。 

 

 

 

 「瞬間転送機」

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瞬間転送機は、パーフィットという哲学者による火星転送の話で取り上げられ、転送された人物が元の人物と同一かどうかを考えるための材料にされた。「ハエ男の恐怖」(1958)というアメリカ映画では物質電送機として出てきたし、ポケモンのゲームでは、預かりシステム(ポケモンをデータ状態での保管、転送する)として、同様の装置が扱われている。そのシステムは、おおよそ「ブースAで、そこに入れられた物体の組織構成を素粒子レベルまで読み取ってから、その組織を消去させ、ブースBで物質の組織を再構成する」というものである。

「ハエ男の恐怖」は、物理学者アンドレが物質電送機で自分を転送する実験に失敗し、ハエ人間になってしまうという、とてもよくできた恐怖映画だった。私もその昔に見て大変怖かった。ハエ男の悲劇も怖かったが、私は「転送機の実験が成功したとしても、送られた瞬間にブースAの中の人が死んでしまうのではないか」という自分の思いつきの方が怖かった。分かってもらえるだろうか。たとえ転送が成功して、私と全く同じ分子構造をもって、全く同じ記憶をもった人物がブースBに現れるとしてもその人物は私ではなく、私はブースAで消されると同時に死んでしまうのではないかという恐怖である。この時、私が死んだということを誰が分かるのだろうか。私が死んだという事実を当の死にゆく自分が分かるわけがない。コピーされてブースBに現われる人間にとっては、自分がブースAで生きていた人間のそのままの記憶を持ってそこに生きているのだから、自分が死んだなどと思わないはずだ。しかし、この装置で、私が本当に死ぬのだとすれば、その死とはどういう意味なのか。逆に、私が死なずに転送されるなどということがあるのだろうか。また、私は具体的には何を恐れているのだろうか。ブースに入る前の人物と再構成された人物において何が同一であれば、その人物は生き残り、また何を失えば死ぬのであろうか。 

 

 

 

「転送の前後で同一人物であるかどうかは、誰が判断するかによって変わること」 

 

パーフィットに倣って、アンドレを火星へ転送する実験を考えてみよう。アンドレA は、地球の転送ブースでデータを採られ、時間tにおいてその体を消失させられる。そして、同時に、火星でそのコピーが再構成される。再構成された方をアンドレBと呼ぶとする。

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ここで、アンドレAとアンドレBの何が等しければ、その二人を同一人物だと判断するのだろうか。まず、体が同じであることだろう。第三者の視点からその指標になるのは、まずその身体の物理的状況が等しいことである。そして、その内面の思考や記憶や性格などその人らしさも同一人物だと判断する要素になるだろう。

しかし、アンドレBの視点から考えてみたらどうだろう。アンドレBからは、アンドレAと自分が同一であるかどうかははっきりしている。自分がアンドレAだったという記憶があれば、自分はアンドレAと同一だと主張するだろう。自分のありありとした記憶が根拠であるので、間違いようのない主張であろう。

どうやら、アンドレAとアンドレBが同一人物かどうかは誰が判断するかで変わってくるようだ。同一人物かどうかは、どんな性質を共有しているかという点も大切かも知れないが、誰がどの視点で考えているかをはっきりさせることが必要なのではないか。

アンドレAの視点ではどうだろう。映画ではアンドレは自分がそのままBのブースから出てこられると信じていた。この時、アンドレAの立場から言うとブースBから出てくる人物がどんな人物であればそれが自分だと言えるのだろうか。心も体もそのままのアンドレであれば問題なく自分だと言えるだろうか。体が変わっても記憶がそのままであれば自分だと言えるのだろうか。体がそのままであれば自分だと言えるのか。性格がそのままであれば自分だと言えるのか。

 

「私が生きて転送されるのか死ぬのかという問題は、「死」をどう定義しているかという問題になってしまうということ」 

 

私自身がアンドレAだったなら、やはり怖ろしくてこんな機械には入りたくない。私の体が素粒子のレベルまで完璧にコピーされたとしても、私の魂と呼ばれるようなものは失われ、私が感じているこの世界が、おそらく無くなってしまうからである。そこに私そっくりの人物が私の記憶と私の性格や考え方を持って現われたとしても、そいつは私にとっては他人であり、知ったことではない世界の話だからである。

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これが、ドラえもんのどこでもドアなら話は別である。どこでもドアの仕組みは、空間を捻じ曲げて、遥か遠くの場所をこことつなぐというものである。だから、地球から火星に行くのにもこの体はいったん分解されたり消去されたりすることなく、そのまま一歩進むだけで火星へ行けてしまう。それなら、私はそこで自分が死ぬとは思わなくてもすむ。

今論じている転送装置でも物理理論的に私と全く同じものが作られるのだから、心配することなどないのかもしれない。(地球の私を構成していた素粒子と火星で再構成される素粒子は、それが別の物だとか同じ物だとか言うことが物理的に無意味であることは立証されているのだから。)しかしそれでも、地球の私が消去され火星にコピーされるときに何かが失われてしまうように思えてならない。このときに失うものを私の「魂」と呼ぶとしよう。

そこで、転送機の業者がやってきて、「今回の新商品は新しく開発されたシステムによって、人間の魂まで転送できるようになったのです。」と言ったとしよう。それなら、安心してこの機械に入り転送されるだろうか。たくさんの人間がこの装置のよって遠く離れた所に転送され、その人のそのままの体と心が完全に移送されているように見える。装置から出てきた人も「自分自身がなくなるようなことはなかった」と笑っている。

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しかし、問題は、本当にこの魂が転送されるのかどうか、確かめる方法はないということだ。たとえば、自分を実際に転送したとしても、火星で出てくるヤツが結果を知ることになるだけだ。そいつが「問題なかった。私は生きている」と言ったとしても、そいつがこの私自身であることを確かめたことにはならないし、どんな方法でも確かめることができないということが問題なのだ。

結局は、この転送機によって私は死ぬのか、Bへ転送されるのかは、定義の問題になってしまうのだ。つまり、「この転送によって私は死ぬのだ」と言えば、「その『私』はこの転送によって失われる何かを示している」という定義になってしまい、「この転送によって私は問題なく火星へ行くことができる」と言えば、「その『私』はこの転送で失われることのない何かである」という定義になってしまうのである。この機械の性能のことを問うことはもはやできず、私自身が「私」のことをどう捉えているかという問題にすり替わってしまうのである。

だからこそ、二つの人物が同一人物かどうかを判断するには、誰がどの視点から考えているのかをはっきりさせることが必要なのであって、どんな性質が共有されているかは必ずしも要しないことになるのだ。第三者から見ると、身体の物理的性質や記憶や性格などの心理的性質など性質が同じかどうかという問題になるのだが、これに対して、本人の視点では「私」の問題になるのだ。その事件前からの視点では「これからあるであろう私」をどう捉えているかの問題になり、その事件後からの視点では、「その人物だった記憶」において「過去の私」をどう捉えているかという問題になる。自分の視点では、どんな性質が共有されているかは、大きな問題ではなくなるのだ。そして、その「私」の定義の仕方を好き勝手に決めてしまったとしても、何ら不都合はなく、その定義に応じて私が転送されるか死ぬのかが決定されるのである。

ここまで、「①転送作業によって私が転送されるのか死ぬのかという問題は、「私」をどうのように定義しているかという問題になってしまう」というところまでを考えた。

 

 

 

「私は私の死を経験している」

次に、アンドレBがアンドレAの記憶を持っていることに注目しよう。注意してよく考えてほしいんだが、まず「この転送によって私は死ぬ」とする。

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「私」は転送によって失われる何かであると定義するということだ。そして、アンドレBの立場から、アンドレAのことを考える。すると、定義からアンドレA は転送とともに死んだことになる。だから、アンドレBは、自分自身がアンドレAとして死ぬ、その瞬間の記憶を持っていることになるのだ。

その記憶の内容は、単に「どうなるのかなあ」とか「不安だなあ」とかの普通の感情だけで「死」の深淵など全くないものではある。しかし、それこそが死の記憶なのである。アンドレB は確かに「死」の外側には出ていない。しかし、「死」の瞬間までの記憶があると言う意味で、死んだ経験を経たと言えるのではないだろうか。

 

以上が、②の「転送された私は死の経験を持っていること」の説明だが、納得してもらえただろうか。確かにこの論の進め方は、やや眉唾のところがあるかもしれない。「死」はそれを考える視点によって左右されると言っておきながら、ABとの視点を交差させることでその狭間から無理矢理に虚無的な「死」を引きずり出してしまっているからだ。しかし、虚無的な「死」とは言ってもあながち間違った論というわけではなく、これを考えることはかなり有意義な内容を引き出してくれると思うので、もう少し我慢して付き合ってもらいたい。

 

 

 

「私がすぐその場で再構成されるパターン」

今度は、地球の転送ブースAで私のデータが採取され私が消去された直後で、私が再構成されるのが火星ではなく、そのまま、地球のブースAで再構成されるとしよう。

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すると、アンドレAは消去した瞬間にそのまま同じ場所でアンドレBとして再構成されることになる。アンドレB は死んだ経験を経て生きていると言うのは、先程の話そのままである。しかし、ここで注目すべきは、「アンドレA が消えてアンドレBが現われたのか、アンドレAが消去されずにそのまま生きているのか」の違いをアンドレの様子からだけで判断することは、アンドレ自身にも他者にもできないということである。

それなら、一々このような機械を想定しなくても、普段の生活のある瞬間に私が消滅し、同時に全く同じコピーがそのままの姿で再構成されているのだと、考えても、それを否定することは誰にもできないのではないか。何のためにそんな想定をするのだと問われれば、私の死を実感するためである。そんな自分勝手な理由で自然の世界の成り立ちを設定してはいけないとか、本当に消滅と再構成のくり返すような世界があるわけないなどと、思われるかもしれないが、構わないのである。そう設定しても不都合はなく、それどころか、「本当はそうなっている」とか「本当は違う」などということを確かめることはできないのである。

さて、そうするとどうだろう。アンドレは自分でも、自分がアンドレAなのかアンドレBなのかを知ることもできず、ただ自分の死を経験しながら、そのままの生を生きていることになる。ここに、私の死の感触を掴むことができるのである。

「私が瞬間ごとに消滅しそのたびに再構成されると仮定したとしても、何の不都合もないこと」

さらに、この死の瞬間の設定をすべての時間に対して当てはめてみたらどうなるか。つまり、あらゆる瞬間ごとに、今のこの現実の私は消滅し、そのたびごとにそのままの姿で再構成されているのだと仮定する。

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やはり、こう仮定しても何の不都合もないのである。現実のこの私が、次々とやってくる全ての瞬間において死に続け、そしてそのたびごとに同時にそのままの姿で生き返っているのだと想像してみてほしい。私の死は、今この瞬間も私に寄り添ってあるのだ。

これで、③の「私が瞬間ごとに消滅し、そのたびに再構成されると仮定したとしても、何の不都合もないことを考える」というところまで来ることができた。

このように考えると、「私は死に続けながら、生きている」と言い方に辿り着く。「私の死」は常に未来の出来事であり、絶対的に未知の事柄であるとも言えるのだけれど、「死」がまさに「世界の消滅」それだけの意味であるのなら、「私の死は今ここに在り続けている」と言うこともできるのである。

ここで問題にしている「私の死」は、体の痛みに苦しむことでも別れを悲しむことでもなく、体や記憶や心を失うことでもない。それらはこの転送で失われるものではないからだ。転送によって失われる「私」とは、「世界の開闢者としての私」である。私自身は一貫して、転送によって世界が閉じてしまうことを怖れてきた。つまり、ここで扱っている「死」とは「世界を失うこと」である。

だとすると、それはおかしくないか。「世界としての私が死に続けている」という発言はすでに矛盾しているではないか。その矛盾をとりあえず置いておくとしても、死んだのが私ではなく他人になってしまうのだ。

つまり、今この瞬間だけが本来の「私」の命であり、その前の「私」は死んでしまったのだから、厳密にいえば、一瞬前の私はすでに「私」ではないのである。つまり、死んだのは他人だということになり、私は他人の死を記憶しているということになる。ここが、先ほど述べた、この論の進め方に注意が必要だという点である。この点については次節で考えていきたいと思う。

また、ここで論じたことは、「死は、世界を失うだけのもので、生者に影響をもたらすものではない」と定義しておいて、「自分が死んでも自分の生は何も影響を受けない」という結論を出しただけの話であり、結局、「Aと定義するとAである」という単なるトートロジーを語ったことにしかなっていない。そのため、無意味な話だとも言えるのだが、自分の「死」を身近に感じるために使える便利なお話だと自負している。そして、「この今の私が、死の記憶を持っている」というのは、矛盾のない世界モデルであり、「私の死」を目の前にあるものとして考えられるようにする発言としては、やはり有意義なものであり、その意味では全く正しい。

「死」は、特別なものではなく、今ここにある普通の生活と同じ目線にあるものであった。「死」はここに存在しており、「私の死」を深遠で不可思議のものだと怖れる必要はないのである。私たちは、今まさに死につつ生きているのである。

 

独今論」へ

 

ここまで、「私が瞬間ごとに消滅しそのたびに再構成される」という「瞬間の世界」モデルを作っても、何ら不都合がないことを論じてきた。しかし、この「瞬間ごとに再構成され消滅していく私」というのは、その一つ一つが「世界の開く者としての私」であったので、それぞれの瞬間瞬間の私が別の世界を開いていることになってしまう。だから、この「瞬間の世界」は、結局、今この瞬間だけが私の世界であり、すべての過去も未来もみな、自分ではない他人がひらいた世界になってしまうということだった。つまり、「瞬間の世界」モデルは矛盾なく作れるのだが、それは「今この瞬間だけが存在する」という「独今論」と同じことを語っていることになるのではないだろうか。

 

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