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我思うゆえに誰あり

「クオリアは比べられない」

私には、感覚があり、感情がある。痛いと思う。悲しいと思う。赤い色を赤いと思う。日差しがまぶしいと思う。温かい。蝉の声。金木犀の匂い。カレーライスの味。また、昨日のことを思い出したり、明日のことを考えたり、その感覚をありありと感じることができる。これを、クオリアがあると言う。

私のクオリアは私にありありと表れる。これに対して他者のクオリアがどんなものであるかは知ることができない。他者も赤い色を赤いと言う。でも、それがどんな赤さとして感じているのかを確かめる方法はない。日差しがまぶしいと言う。でも、それがどんなまぶしさなのかを確かめることができない。

他者のクオリアと私のクオリアは、比べることができない。

それどころか、他者にクオリアがあるのかないのかということさえ、知ることができないのだ。

私には心がある。

私以外の人にも心があるのだろうか。

あるだろうけれども、心があるように装っているだけかも知れないと疑ることもできる。心があるかどうかを、どうやって検証すればいいのだろうか。

私以外の人に心があるかどうかも検証不可能なのだ。

そして、このような疑いはさらに進めていくことができる。

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「我思うゆえに我あり」

デカルトという17世紀の哲学者は、人間を欺く神というものを考えだして懐疑を進めた。人間を欺く神がありとあらゆる物事について間違った思い込みをさせてしまうというもので、これを方法的懐疑という。デカルトに倣って、どんな懐疑ができるかを考えてみよう。「他者には本当は心がないのではないか」「他者など本当はいないのではないか」「机の上のリンゴも、机も本当は無いのに、あると思わされているだけなのではないか」「世界に存在しているのは、私の意識だけなのではないか」というようにどんどん疑っていける。

映画「マトリックス」では夢の懐疑が描かれていた。すべての人類が機械によって眠らされて、この現実を夢に見ているというストーリーだった。現実だと思っていた世界は実はコンピュータにコントロールされたバーチャルな世界であり、その外側に本当の現実があったという話だった。ここで示された外の世界は、人類がコンピュータに支配されているという恐ろしいものであったが、主人公のキアヌ・リーブスは外の世界でもやはりキアヌ・リーブスの姿のままであり、人間の想像を超えるようなものではなかった。(そんなことを意図した映画ではないのだろうけれど。)マトリックスは衝撃的な外の世界の可能性を示してくれたが、懐疑の可能性への追求は十分だと言えるものではなかった。外の世界については、もっといろいろな可能性を挙げることができるはずである。荘子は現実が胡蝶の夢かも知れないことを言い、パトナムは培養液の中の脳が見ている夢かも知れないと言ったが、「本当は」アメーバのようなものが見ている夢かも知れないし、それどころか、たとえば、ものの大きさや重さなどというものがないかも知れない。時間がないかも知れない。2+3=5が間違っているかも知れない。世界は「もの」でさえない「モノ」が見ている景色かも知れない。さらに、空間が複素平面であったり、時間が病弱だったり、重さが甘酸っぱかったり、そもそもカテゴリーというもの自体がなかったりするような、人間の想像や理解を超えた無茶苦茶なものであるという可能性さえある。

デカルトは、懐疑を進めていって、最後にもうどうしても疑いえない地点にたどり着いた。それが、「我思う。ゆえに、我あり。(コギト・エルゴ・スム)」である。「私がこのように『全ては偽である』と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる。どんなに疑ってみても、「それを疑っている私が実は無いのだ」と、疑うことはできない。

この発見は、懐疑に対する終結点でありかつ始発点である一つの地平が存在することを示した大変な偉業だと思う。

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でも、この「我」とは、誰だ。 

 

「我思う ゆえに誰あり」

「コギト」の「我」とは何を指すものであろうか。

一般に「私」の死とは私の体が機能しなくなることである。脳死でも心停止でも、体の機能を失うことを人の死としている。しかし、「コギト」の「我」が体の機能を意味するわけがない。もし、私の体の機能が無くなって幽霊になったとしても、「我思うゆえに我あり」はそのままそこに残っているからである。

また、この「我」は記憶でも、性格でも、感情でも、感覚でもない。私が私の記憶や性格や感情を失くしても、すべての感覚を失くして、見えない聞こえない温もりも痛みもない、静寂の闇の中でも、ものを思うことができるのなら、やはり「我あり」は残っている。

では、私が思考することができなくなったらどうだろう。「思考」が無くなったら「我思う」も無理だろう。「我あり」を確認することもできない。だから、「コギト」が指していた「我」とは「思考する私」だったのであろう。デカルトの発言からはもうその先を問うことはできない。

しかし、私の思考が無くなっても、まだ、さらに、その奥にあるものがあるのではないだろうか。

ここで、私が死んだ後の、私のいない世界というものを想像してみたい。私の体や記憶、性格、感情、感覚、思考のすべてを失くして、私が死んでしまったという状況を想像することができるだろうか。もちろんできる。私が死体になって葬儀されているところも、人類が滅亡して干上がった大地も、思い浮かべることができる。

しかし、その世界を開いている私についてはどうだろうか。世界の開闢としての私というものを考えるのだ。この開闢者としての私を失くすことは、想像することさえできないのではないだろうか。開闢者を失った世界を想像することができたとすれば、その世界のイメージは当然、私によってされている。イメージする私がいなかったら、その世界は開き得ない。このとき世界を開いているのが開闢の私なのである。それでも、私が死んだ後の世界を想像することができるじゃないかと思いたくなる。しかし、それはそれを想像している今現在のこの自分がいるのだから、「世界の開闢」をしている「私」は失くすことはできていないのだ。「世界の開闢」を失くすことはそのまま定義として「世界」を失くすことであるから、その「私」を失くすことは不可能なのである。「開闢の私」とは想像上の存在ではなく、まさに今現実にいる私なのである。だから、開闢の私を失くすには、実際に私が死ぬしかないのである。それも、体や記憶や性格や感情や感覚や思考のすべてを失くすだけでは足りない。この世界すべてが閉じるような死に方をするしかないのである。

 

「我思うゆえに世界あり」 

 

懐疑論の終結し始発する地平は、「我思うゆえに我あり」の先にまだあり、それは「ただ、世界が開いているだけ」とういうところではないだろうか。

そこで、「我あり」を、このレポートでは「世界あり」と言い変えたい。「我思う。ゆえに、世界がある。どんな世界かは分からないがとにかく、ある」というところである。今、存在を疑っているのだから、少なくとも何かがあるのだ。それは、もしかしたら想像を超えた無茶苦茶な世界であるかも知れない。しかし、あるのだ。デカルトが言いたかったことも、おそらくこの意味での「我あり」だったのである。そう理解しないと、文脈が意味不明になってしまう。ただ、「我あり」という言い方と同様、「世界あり」という言い方も、ある意味で論点先取になっている。「世界あり」という表現に変えても、言いすぎていることには変わりない。今論じている原初の地平では「我」も「世界」もまだ認められていないため、本当は「あり」としか言えないところである。しかし、それでは「今、現に開かれているこの何ものか」があるということが表現できない。それで、しょうがなく、言いすぎになってしまうことを承知で言わなければならないのである。

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コメント

「我思うゆえに我あり」

確かにそう思います。

ただ、私は同時に「「我思うことを思わす」我以外の作用」を、我が思うことを経験したのも事実です。

「思わせられる」受動と「思う」能動が疑えない事実として浮かんで来るのも確かです。

もし徹底した独我論であれば「そう思う」のが必然でしょう。

そのことは従来の独我論の欠点・批判をクリアすると私は思います。

FUKAMIさん、コメントありがとうございます。
独我論の欠点というのは、客観的で有意味な世界を立ち上げることができないということを指してらっしゃるのでしょうか。しかしそれに対して「「我思うことを思わす」我以外の作用」が必然であるなら、独我論は必然的に客観的世界を前提としている…というアイデアだと理解しました。
合っているでしょうか。
とても面白いアイデアだと思いました。
ただ、論の展開に論点先取があるような気がします。「我思うことを思わす」ような我以外の作用が必然であるとすると、「我思う」は我以外の作用は疑えない事実である。・・・とこうゆう論の展開になっているような気がするのです。いかがでしょう。
たぶん僕がどこか勘違いして理解できていないのでしょうが、そうだとしたら、ごめんなさい。

横山様
コメントを本当にうれしく思っています。

哲学は私にとって学問ではなく、友達でもあり、先生でもあり、また息抜きでもあり、ストレス発散でもあります。

でも、自分の言いたいことを文章で表現するとなると「学問的センスのなさ」のプレッシャーをいつも感じてしまいます。

「「我思うことを思わす」我以外の作用」が客観的な世界であるか、どんな世界であるか独我論には何の関係もない世界でしょう。

もし、徹底した独我論というのであれば「自分以外の作用(我を欺こうとする作用も含め)により生かされていると、我が受動的思いを感じる」ゆえに「我思える原因を我思う」というのが独我論の究極ではないのかと思われます。

「我思うゆえに我あり」は、インパクトはあるが、本質を突いていない不備があると思われます。

また、独我論の本質に論理的に向かおうとすると「我思うことを思わす作用は我以外の何か?・・・そう独我論的に思う我を思わす作用は我以外の何か・・・またそう思える・・・・・・」いつまでもどちらが先の原因か結論を見ない決定不可能な論理的パラドックスを、独我論は初めから含んでいるということだと考えられます。(実際は我を思わす作用が先の原因であろう)

独我論から始めるフッサールの現象学的方法では、未完成ではあるが「原因」に足を踏み込んでいると思われます。
独我論から主観と客観の謎を構造的に解き明かしたフッサールの功績は大きいと思われます。

ただ、独我論から初めて解き明かした主観・客観の謎の構造が、普遍性を持った原理として、そのまま他の分野で応用されていないのは、独我論そのものに論理的限界があるのが原因であると考えられます。

FUKAMIさん、こんにちは。

デカルトはコギトから出発して世界の存在を説明するために、神なるものを持ってきました。フッサールの議論はそれよりも手の込んだものになっていますが、他我を説明するために他我を密輸入しているような議論になってしまっているように、僕にはおもえてなりません。
つまり、独我論は正攻法では、(独我論の中から話を進めていくだけでは)、いわゆる実在論に沿うものに変換することはできず、独我論の外部を説明するために独我論の外部を設定するような「裏技」を使うしかないように思えるのです。

だから、僕は、カントの超越論的な認識論(フッサールの超越論ではなく)や、ウィトゲンシュタインの言語ゲームなどによる、独我論のひっくり返し方の方に共感します。独我論対実在論という世界の見方をその根底から変換してしまっているからです。
決してデカルトやフッサールの偉業を軽んじようとは思いませんが、対独我論に関してはあまり成功しているような気がしません。

こんにちは横山さん
私のつたないお話にお付き合い願いましてありがとうございます。

フッサールの現象学的方法は主観と客観は一致しない。
というよりか「客観」などない、幻想であり、想定されてもリアルにはないものである。
そう主張します。

主観と客観の一致=真理だという思い込みを独我論から初めることで、その謎を解きました。(論理・数学・物理科学・心理etcの論理的原理になるであろう.)

主観は多様性があり、そのため主観の集合は完結した一つの一致した共通の完結集合(客観)にはならない。(あるのは共通了解のみ)

哲学的・科学的帰結とし抽出された価値の法則として、絶対的覇権に向かわず、個人の集合のバラバラの意味・価値観の、違うことを認め「互いに共通了解し合う要素・条件」で繋がれ広げ、高めていくことに価値がある。
そのように個人的には理解しています。

神を持ち出し絶対の幻想に向かう哲学者や懐疑論者ばかりの中、これだけの科学的にも応用可能な法則を示した哲学者は知りません。

≪このフッサールの客観・主観の謎ときは独我論的に初めることで成功したと思っています。
けれどたまたま?独我論の内包する矛盾・パラドックスの解明なしにうまくいったのだ?とも思っています。

その要因は、完結した我と個々に他と違った異質性を内部にも付与することで絶対性を排し、完結した内部を多様にすることで世界にそのまま異質性を適応したのです。
ただ異質性を分かりやすく見せただけで、外部から「密輸入した」わけではありません。(独我論のルール違反なし)

毒蛾論として、個としての我とその世界は閉じられているが「完全にガラスで仕切り透明化」したように見やすく、異質性を解りやすく、「前提」ではなく独我論の外部との異質性の一致を想像させたことに功績を感じます。

しかし独我論としての、我の個としての完結が内包するパラドックスは未解決です。
つまり、フッサールは本質に足を突っ込んではいるが、その重要性に気づいていないということでしょう。

このパラドックスが解明されれば普遍性を持ちあらゆる分野に応用可能になると確信しています。≫

・・・この辺まで来ると、フッサールに対し後の研究者も、難解すぎて何を言っているかさっぱりわからないし、フッサール自身も解っていないのではないか?という意見が真面目に討論されているのも事実です。
ですので≪ ≫内は、ただの私の個人的見解で、後に後継者たちの話題に上った形跡をまだ知りません。

FUKAMIさん、こんばんは。

哲学のこと話し合える友がそれほど多くないので、こうしてコメントをもらえるととてもうれしいです。
フッサールに関してあまり勉強してないので、僕の理解不足は大きいと思います。イデーンもデカルト的省察も最後まで読めないで挫折したままです。ですから、FUKAMIさんの言われる話にも分からないところがあります。

僕の理解ではフッサールといえば「主観と客体とを別のものと考えず、一つの志向性の表裏としてとらえる」という考えた人というものなのですが、「客観」については「他我」の存在は認めて「間主観性」というアイデアを導入したと考えるべきものだと思っています。 その点でフッサールが「主観と客観の一致」を説いたと言われている点がよく分かりません。
「「我思うことを思わす作用は我以外の何か?・・・そう独我論的に思う我を思わす作用は我以外の何か・・・またそう思える・・・・・・」いつまでもどちらが先の原因か結論を見ない決定不可能な論理的パラドックス」~このアイデアも大変面白いと思います。しかし、本当にパラドクスになっているかどうかということがよく理解できないままです。
そもそも、FUKAMIさんがイメージされている「独我論」とはどのようなものなのかということも、まだつかめていません。

ただ、フッサールが面白そうだというのはとても感じています。
今のウィトゲンシュタインの「探求」を勉強した後は、永井均のウィトゲンシュタイン観を読み進めたいと思っているのですが、フッサールの現象学を勉強するのも面白そうですね。

こんばんは~横山さん
哲学のお話っておもしろいですね~

私はホントに専門的な哲学の知識などなく「独我論」とかの専門用語と言えば、おおよそのウィキペディア・辞典などを見ながらやっています。

哲学は、あらゆる学問を含む分野の接着剤であると考えますので、どこの専門分野にも属さないことが哲学の位置だと考えて来ました。

おかげで既成概念も少なく、自由な発想でいろんな専門分野を恐れることなく勝手に出入り出来ています。

でも、改めて「それは学問的にどう解釈していますか?文章で記述してください的な・・・」ことを言われると自身がぐらつくのは本音です。

私の興味は学問的知識ではなく「ホントのこと」が知りたいだけです。
学問をすれば「ホントのこと」が必ずしもが分かるとは思われません。
かえって心を惑わし曇らすことさえあります。

「ホントのこと」を知りたいがために、2次的に仕方なく学問知識を入れているというところでしょうか。

>僕の理解ではフッサールといえば「主観と客体とを別のものと考えず、一つの志向性の表裏としてとらえる」という考えた人というものなのですが、・・・

・・・とありますが、フッサールは「客観などない」と初めて納得できる説明をした人です。

>その点でフッサールが「主観と客観の一致」を説いたと言われている点がよく分かりません。

・・・私は「主観と客観の一致=真理だという思い込みを独我論から初めることで、その謎を解きました」・・そう言ったのです。(フッサールは主観と客観の一致を説いたのではありません、その逆で不一致でもなく、「客観などなない」を論理構造で示した)

それまでの特にヨーロッパの哲学では主観と客観が必ず一致することが「真理」だと思い込まれていたため「なぜ一致しないのか?するはずだ・・と謎めいた」歴史があります。(今でも哲学・科学者の多くがそのように思っていると考えられます)

・・・そういう意味では初めて「主観と客観は一致しない、というよりか客観などない」と
・・言った人だということです。

人間社会にある「存在・価値やその意味・本質」は「個々のバラバラの主観の集合」で間主観(相互の確信了解)だけしかなく、社会とはその網の結び目を互いに織り込んで行くようなものであるとも言われています。

≪私はフッサールの存在の価値・意味の「確信了解」は後期のウィトゲンシュタインの言う「ざらざらした大地」であり、フッサールの「客観などない幻想だ」はウィトゲンシュタインの否定したい「ツルツル滑る氷」「言語の決めつけ」に論理構造上共通するのでは・・・と思っています。(つまり表現方法は違うがおよそ同じようなことを言っている)

言語ゲームでは、言語の客観的決めつけは幻想であることに気づくことから発想の転換が始まった・・・言語ルールはざらざらした大地である共通了解エリア内の結び目、つまり“独今”とその範囲の推移である。≫
≪ ≫内は端に私の感想です。

FUKAMIさん、こんばんは。
ていねいな、解説ありがとうございます。少し分かってきましたが、まだ、よく分からない部分が多いです。やっぱり、フッサールをもう一度ちゃんと読んでみます。「イデーン」はだらだらした文章という印象を持っていて苦手なのですが、やっぱり「イデーン」を読むべきでしょうか。「デカルト的省察」だけでもある程度はわかりますか。

こんばんは~横山さん。

近年、数いる哲学関係者・理論の中、個人的に「普遍法則」に一番近いところにあると思われるのは・・・私の知る範囲では「フッサールの現象学」だと思っています。

哲学はどれだけ普遍法則に接近しているか・・・そして出来る限りの、その知りえたホントのことを、自分以外、社会に知らせられるかではないでしょうか。

「フッサールの現象学」の解説者の中でも竹田青嗣さんは解りやすい。

ただ解説するだけの解説者ではなくて、フッサールの欠点を指摘し、欠落している部分を丁寧に補うことまでして、かつ、批判者に対しフッサールに代わり適確な反論まで行っています。

『初めての現象学』 竹田青嗣  海鳥社
参考にされたらどうでしょうか。

ネット上でも「現象学」竹田氏をときどき軽く見る場面に接することがあります。

その内容を吟味すると、大抵は「現象学」そのものを深く知らず、上べだけで、しかもフッサールの全く主張もしない内容が、独り歩きしている場合が多く、残念なのが現状です。

たしかに、独我論的現象学は初めから限界があります。
それでもその極限は閉ざされているけれど、極めてホントに接近しています。

この惜しい状態をどうすればよいのか、気付いたものは知的可能性にかけたくもなるでしょうね。

FUKAMIさん、こんにちは。
図書館でフッサール「間主観性の現象学その方法」と竹田青嗣「現象学は思考の原理である」が予約できました。さっそく読んで認識を改めたいと思います。(イデーンもありましたがやっぱり腰が引けました。)フッサールがどうやって他我を認め、どうやって「主観と客観」の問題を乗り越えたのかに注目したいと思います。
なんだか、話がフッサールへ流れてしまいましたが、僕の趣味は断然ウィトゲンシュタインです。もうすぐこのブログを更新して、ウィトゲンシュタインの独我論論駁をあげられると思います。また読んでいただけたらご感想をください。
ありがとうございます。

FUKAMIさん、こんばんは。
フッサールの「間主観性の現象学」と竹田の「現象学は思考の原理である」「現象学入門」を読みました。
「客観などというものはない。あるのは自我の主観と、自我とあまり変わらない他我の主観である。そしてこれらが共通理解できるのみである。だから。これらが、真偽を計るための唯一の物差しになる。」というのがフッサールの考え方だと思っていいでしょうか。この中で僕が引っかかってしまうのは「他我の主観」です。
「間主観性の現象学」でフッサールは「私と或る他者が正常な目を持っていて、もし変化しない同じ事物が同じ客観的空間位置において呈示され、その位置を私たちが交互に占めることができるなら私たちは同じものを見ることになる。」と言っています。しかし、他我の見ているものがこの私の見ているものと大きく変わらないということが、なぜ正しいと言えるのでしょうか。他我に見えているものが私と同じか否か。それこそ、神にさえ分からない彼岸なのではないでしょうか。それを同じようなものと捉えることにしてしまったフッサールのやり方は、完全な密輸入だと言えるのではないか。これが、僕の疑問です。
いかがでしょう。やはり、僕がどこかで勘違いしているのでしょうか。

フッサールは世界や客観が存在しないとか幻想などといっていません。世界の存在にたいし判断停止、つまり保留するといっているだけです。現象学的還元は世界を構成している作用を主題として取り出すための方法です。フッサールは初期にデカルトの方法をたどりましたが、後期になると作用ではなく、見えない「能作」に主題を変更し、発生的現象学にいたりました。いいかえると私たちの心を初め世界を構成している根源に到達しました。しかし、この根源が差異でしかないと後にデリダによって批判されました。
「論理学研究」から「イデーン」そして「デカルト的省察」が一応公刊著作ですが、最近翻訳された「間主観性の現象学」は期待したのですが、初期の考えと変らず、がっかりでした。広松渉の「フッサール現象学への視角」で言うように他我論はフッサールの弱点です。

<実在論(唯物論)より見た現象学批判>
(テキスト)竹田青嗣著、講談社現代新書
『超解読!はじめてのフッサール「現象学の理念」』

現象学は認識問題の謎を解明するという問題設定からはじまる。
<主張1>「主観-客観」の一致の不可能性が問題である。(認識問題の謎)
<主張2>自然科学は「主観-客観」の一致を前提としているため認識問題の謎を解くことが出来ない。
<主張3>現象学的方法(現象学的還元)で認識問題の謎を解くことが出来る。
<主張4>現象学は「確信成立」の条件を明らかにすることにより認識問題の謎を解明する。

私の結論
自然科学的方法で認識問題の謎を解くことが出来る。
現象学的方法で認識問題の謎を解くことは不可能である。

目の前にリンゴがあり、そのリンゴを認識している場面を考える。
我々の認識(リンゴの認識)は不完全である。
我々は対象(リンゴ)を一定の精度でしか認識できない。
また直接見ることの出来ない背面や中身は全く認識できない。

この事態を現象学では「実在(リンゴ)は認識できない」と捉えています。
私は「不完全ながら実在(リンゴ)を認識できている」と捉えています。
認識という行為は常に不完全です。
では不完全だから対象(実在)を認識できない、と言っていいのか否か、それが問題です。
私は「不完全とはいえ対象(実在)を認識できている」と考えます。
メガネが曇っている場合を考えます。
リンゴの像は多少ボンヤリしてきます。
認識の不完全さが増しますが、それでも私は「リンゴ(実在)を認識できている」と考えます。

「リンゴ(実在)が存在する」というのも「リンゴ(実在)を認識できている」というのも仮説であり仮説に過ぎません。
しかしそれは「整合的で過不足のない説明可能性」の条件を満たしています。(私はそう判断しています)
この条件を満たす言明(仮説)は真実と呼ぶに相応しいものであると考えます。
この条件を満たす言明(仮説)は恣意性を排する強さと確かさとリアリティを持ちます。
自然科学もこの条件を満たしています。
ですので自然科学も恣意性を排する強さと確かさとリアリティを持っています。
「主観-客観」の一致というのも仮説である、とは言え恣意性を排する強さと確かさとリアリティを持っています。

客観(実在)を排して内観(現象の領域)のみの探求で認識問題を解くことは不可能です。
なぜ我々は「世界存在の確信」を持っているのでしょうか?
なぜ我々は「他我存在の確信」を持っているのでしょうか?
もちろんそれは世界や他者が実在するからに他なりません。
もし世界や他者が実在しないのであれば「世界存在や他我存在について考える動機」さえ生まれ得ません。

現象学での「他我」「間主観性」というのは何でしょうか?
外なる存在を排して(エポケー)していますから、
「他我」というのは自分と独立して存在する他者のことではありません。
「間主観性」というのも自分と独立して存在する他者との間の共通認識といったようなものではありません。
何れも自分の内観の内の出来事に過ぎません。
現象学の読者も「自分と独立して存在する他者」ではなくあくまで自分の内観の内に現れる「他我」であることになります。
全ては自分の内観の内の出来事に過ぎません。
自分の内観のうちに「他我」が居り、その「他我」との間で「間主観性」が成立します。
どこまで行っても自分の内観の内の話であり「独我論」から抜け出せません。
現象学は独我論から出発して独我論を超え出ることを目指しているようですが、それが成功しているとはとても思えません。

竹田青嗣著のテキストには随所に現象学的方法は「誰でも」確認できる、「われわれ」は自分で現象学的方法を実行できる、というような表現が出てきます。
この頻繁に出てくる「誰でも」「われわれ」という表現は何を指しているのでしょうか?
当然、竹田青嗣自身と独立して存在する他者ではないはずです。
竹田青嗣自身の内観に現れる像ということになります。
このテキストを読む読者も竹田青嗣自身の内観に現れる像ということになります。
これで果たして有効な学問といえるのでしょうか?
甚だ疑問に感じるのは果たして私だけなのでしょうか?
それとも私が全く現象学を理解できていないことを示しているだけなのでしょうか?

<実在論(唯物論)より見た現象学批判>(補足)

「主観-客観の一致」は不可能である、というのが現象学の主張です。
それに対し「主観-客観の一致」は十分なレベルで可能である、と私は考えます。
我々の認識は不完全ですから完全な一致はあり得ませんが、だからといって、不可能だという主張は誤っていると考えます。
私は「主観-客観の一致」という命題の復権を主張します。
「主観-客観の一致」という命題は「この世界の整合的で過不足のない説明可能性」という条件を満たしています。
この条件を満たすこの命題は恣意性を許さない高いリアリティがあります。
この命題は仮説であるとは言え、真実と呼ぶにふさわしい命題であると考えます。
こうした高いリアリティを持つ命題を否定して、リアリティのない現象学を支持する、というのは私には信じられません。

現象学は独我論を抜け出ることが出来ずリアリティがありません。
現象学は「世界存在の確信」「他我存在の確信」の成立の条件を解明できるとしています。
しかしそれは「世界存在」「他我存在」を予め暗黙のうちに前提としており矛盾です。
そもそも外なる実在を本当にエポケーしたのであれば「世界存在の確信」「他我存在の確信」という問題について考える動機など発生しようがありません。
明らかに「世界存在」「他我存在」を予め暗黙のうちに前提としています。

(注)私は竹田青嗣のテキストを基に考えています。
フッサールの考えとは異なっている可能性があります。(可能性大?)
ご了承ください。
竹田青嗣のテキストは読み易いので、いくらかでも(十分ではないが)読解可能な範囲にあります。
フッサールの著作は私には読解不可能です。

こんにちは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>「間主観性の現象学」でフッサールは「私と或る他者が正常な目を持っていて、もし変化しない同じ事物が同じ客観的空間位置において呈示され、その位置を私たちが交互に占めることができるなら私たちは同じものを見ることになる。」と言っています。しかし、他我の見ているものがこの私の見ているものと大きく変わらないということが、なぜ正しいと言えるのでしょうか。他我に見えているものが私と同じか否か。それこそ、神にさえ分からない彼岸なのではないでしょうか。それを同じようなものと捉えることにしてしまったフッサールのやり方は、完全な密輸入だと言えるのではないか。これが、僕の疑問です。


ご指摘の通り、フッサール流の超越論的議論及び類推論法から間主観性を導出することは不可能です。後者について言えば、完全な論点先取ですし。
既に縷言したと思いますが、間主観性―僕なら言語ゲームと言いたいところですが―の成立には【生活形式―例えば、ウィトゲンシュタインの言う「魂に対する原初的態度」等々―を共有する複数の存在者と事物世界が織り成す三幅対の相互交流―三角測量―が不可欠】でしょう。
付言しますと、以下の事柄
①主体概念と自己意識―経験を自己帰属し得る、文・思考とそれを真/偽にする[文・思考に還元不可能なもの]の差異を理解し得る主体―の不可分性
②主体概念~自己意識の内発的生成の不可能性
③主体概念~自己意識の成立には他者との言語的交流が不可欠
を説得的に論証してみせたのはクリプキとデイヴィッドソンでした。


汎心論等による、他者の心の問題に関する議論は-略-身体が「心」を「持つ」という【概念】は自明である、と見做している。
翻って、ウィトゲンシュタインは、身体が「心」を「持つ」ということに関する【明確な概念】を我々は【実際に】持っているのだろうか、という問いに専心している。―クリプキ

工藤庄平さん。(>2013年10月 8日 (火) 12時29分)

>「私と或る他者が正常な目を持っていて、・・・

ここでの「或る他者」という表現が引っ掛かります。
竹田青嗣著のテキストに随所に出てくる「誰でも」や「われわれ」という表現と同様です。
エポケーした場面でこれらの表現を使用するのは不適切であるとしか思われません。

>フッサールのやり方は、完全な密輸入だと言えるのではないか。これが、僕の疑問です。

この点については全く同意です。

>を共有する複数の存在者と事物世界が織り成す三幅対の相互交流

これがフッサールの主張の要約だとすれば「複数の存在者」という表現が「或る他者」という表現同様引っ掛かります。
そうではなく、これがフッサール批判者の主張の要約だとすれば肯けるような気がします。

<クリプキ、デイヴィッドソンの引用について>

分かる様な気もしますし、良く分からない部分もあります。
ですが余り範囲を広げるのは控えたいと思います。
悪しからずご了承願います。

独我論も、実在論も危険ですが、実在論の方がさらに危険かもしれません。西欧とイスラムの血みどろの対立は、そんなことを考えさせます。
 
独我論は、他人の痛みは感ずることは出来ないと言います。この裏には、自分の痛みは感ずることができるということが隠れています。果たしてそうでしょうか、現在の気持ちの持ち方によって、痛みなど感じないか、快楽になることさえある。というのは日常の経験です。
病気は、死を予感したとき、大きな病となります。将来の予測と大いに関連するのです。
現今、企投する存在という、実存主義の主張はどうなっているのでしょうか。

哲学は、倫理をも積極的に包摂しなければ、机上の空論になるのではないでしょうか。
独我論と、実在論を超えるには、一人一人が皆人類のことを考えるような、皆が「でくの棒」と云われようとイエスや釈迦になるような世界を目指すことしかないように思います。

みどやすさん、ようこそいらっしゃいました。歓迎します。

みどやすさんは、独我論と実在論を超えるところに世界平和が続いているとお考えなのですか。すごくユニークな哲学観ですね。興味深いです。

 「我思う故に我あり」の解釈には誤解がありそうです。

 「意識(大森荘蔵氏のいう立ち現れ現象のこと)」現象は疑いもなく「ある」。
 と言っている。 我というのはラテン語の一格表現の誤訳と思います。
 意識というのは、
 【 脳の認識活動を、自身の認識機能自体が直接的な自己認識している現象のこと 】

 「意識」が出現しているのが「私」であり、
 出現しないのが「他人」です。
 先に「私」を定義しようとするので無理が出来てしまいます。

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