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実在論がダメなわけ

「客観的な『本当の』世界」

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誰が見ても正しいと言えるような客観的な世界のあり方について考えてみよう。

どうすれば客観的な世界を捉えることができるのだろうか。私が死んでしまっても無くならないような世界はどこにあるのだろうか。

世界のあり方について疑いが持てるものをすべて排除し、確実だと言えるものだけに信頼を置くことにしようとする考え方のことを懐疑論という。

この懐疑論を進めていくと、私以外の人間は世界に存在しないのではないかと疑うことになる。

この懐疑のことを、「世界に私一人」という意味で独我論という。

また、「世界が私の観念でしかない」という論点で考えたモノを観念論という。

この懐疑論や独我論あるいは観念論から客観的な世界に辿り着けるだろうか。

懐疑論も独我論・観念論も正しい。疑いうるすべてを疑った末に得られた考え方なのだから、それをさらに疑ることはできない。

しかし、「世界には私一人しかいない」「私は世界である」などという自分勝手な考え方が客観的に正しいわけがない。

世界に存在しているのが私一人なのだったら、独我論者は、駅前で裸踊りをしても平気なはずだ。

でも、そんなことはできない。それは、独我論・観念論が間違っていることに他ならないのではないか。

 

これに対して、実在論というのは、そこにちゃんと物があるという考え方だ。

私たちが普通に使っている一般的な存在論で、違和を感じないし、他者が存在しているので、駅前で裸踊りをできない理由もはっきりしている。

では、実在論は、独我論・観念論よりも客観的でしっかりとした存在論だと言えるのだろうか。

例えば、今、私の目の前にリンゴがある。

このリンゴは、誰が見ても、私が見ているままの姿で存在しているのだろうか。

そんなわけはない。

私は眼鏡がないとはっきり見えないのだが、今は手元に眼鏡がないのでぼんやりとしか見えていない。

このぼんやりしたリンゴが客観的な姿だったら大変だ。

だから、私に見えているぼんやりのリンゴとは別に、細部まではっきりした客観的な「本当の」リンゴがあるはずだ。

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世界を知ろうとしたときに、独我論では最終的に「世界は、どんなであるか、はっきりしない」ような地平に辿り着く。

しかし、実在論では客観的な「本当の」世界があるというところからスタートするので、いろいろな物や出来事がきちんと実在していることを前提として生活することができる。

独我論に比べてしっかりした安心できる世界だと思えるかも知れない。

客観的に正しい「本当の」世界がはじめにあって、私たちはそこからデータを得て、世界を像として捉えているというのが実在論により世界モデルである。

この構図は、おそらく私たちが一般的に世界を理解しているやり方なので、あまり、違和感はない。

 

ところが、問題がある。

ここで設定されている客観的な「本当の」世界とは、一体何なのだろう。

誰の視点で客観的だと言うのだろうか。

誰が「本当」のことを知っていると言うのか。

そもそも、本当の世界などというものを設定することが許されるのだろうか。

 

この「本当」が曲者なのである。

つまり、実在論では、最終的には神の視点とでも言わないといけないような、絶対的な視点が、必要になるのだ。

このことは、主客二元論と呼ばれ、客観的なリアルと主観的なリアルの二つがあると言う考え方である。

これに対し、独我論は主観一元論である。

実在論が言っているこの「本当の」世界の存在が認められるのであれば、私が見ていなくても、また私が死んでも、そんなこととは関係なく世界は存在できるはずである。

それができてこそ、「世界に私一人」などという馬鹿げた考えを覆せるのだ。

そんなことができるのだろうか。

 

 

「ニューニュートリノ」

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たとえば、ニュートリノという物質がある。

ニュートリノは、重さがほとんど0で、電磁力もなく、物質と相互作用する力が大変弱いので、私たちとほとんど関係しあうことできない。

その多くが地球を貫通するほどである。

ただ、非常にわずかではあるが他の物質と相互作用することはできるので、その存在を予想したり確かめたりすることができた。 

そこでもし、他の物質と全く相互作用することができない「ニューニュートリノ」という物質が存在すると想定したら、どうだろう。 

それは、存在することができるのだろうか。

 

しかしそれは無理だ。

できないのだ。 

 

我々と一切相互作用しないモノは、それに触れようとしても触れることができず、見ようとしても見ることができず、その存在を確かめる方法が原理的に無い。

相互作用できないものは、空想上のモノとしてでしか存在することができないのだ。

と言うことは、つまり、ある事象の存在を示すデータが無いのに、それを存在することにするわけにはいかないということである。

そして、ある事象に関する何らかのデータがある時のみ、それは存在を検討する価値があると言える。

だから、私と相互作用関係にある事象だけが世界の要素でありえるのだ。

私によって開かれる世界は、私に作用できるもののみでできているのである。

もし仮に、私に作用できないモノがあったとしても、それは無いのだ。

(相互作用のない「ニューニュートリノ」は、矛盾でしか言うことができない。)

 

それでも、「人間には見たり触れたりすることができなくても『本当は』存在しているというものがあるのではないか」と言いたくなる。

我々にはその存在を確かめることこそできないが、「神の視点として『本当は』存在しているのだと想定することはできる」と。

 

でも、これは間違いだろう。

実在論が言う「本当の」世界などは、今私が実際に感じているこの世界とは関係のないおとぎ話のモノでしかないのだから、神の視点による「本当」の世界の存在をでっちあげたとしても、それは結局、誰かの独断になってしまうのだ。

空想上のおとぎ話を語ること自体は否定されるものではないが、おとぎ話をもとにして世界を作り出してもしようがないのである。

 

こうして、実在論の客観的リアルは否定される。私は、私の理解を超えたものを勝手に実在することにはできないのだ。

 

ならば、独我論や懐疑論による懐疑から始めるしかないのではないか。

 

しかし、すべてを懐疑し「世界に私しかいない」や「私が世界である」などという主観的で偏った視点から、客観的な世界を組み立てることができるのだろうか。

 

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コメント

受験で覚えたアンセルムスの名前が思い出せなくて、「実在論」で検索したらたまたまこの記事に辿り着きました!

す、すごい!分かりやすくてびっくりです!
実在論についてのこんなに分かりやすい説明ははじめてみました。
すばらしい記事をありがとうございますっ

NOVUさん、感想のコメントありがとうございます。実在論と独我論に絡めていろいろな考察をしています。ご意見などいただければ幸いです。これからもよろしくお願いします。

実在とは何か、について書いてみます。
ある対象が自分とは独立に存在していると考えられる場合その対象を実在と呼びます。
ある対象の独立存在性について他人との間に共通了解が得られるならその対象は実在であると判断できます。
例えば、(Aさん)「あれはリンゴだね」(Bさん)「そうだね」、という会話について考えてみます。
AさんとBさんの間で、その対象はリンゴであること、その対象はあの位置にあること、の2点について共通認識(共通了解)が成立しています。
そのことから、その対象(リンゴ)は実在であることが判断できます。
我々の認識は本質的に不完全ですからAさんもBさんもその対象(リンゴ)を完全に認識できているわけではありません。
そしてまた、AさんとBさんの認識は完全には一致していないはずです。
さりとて、共通認識が成立しているのですから完全に不一致というわけでもないはずです。
AさんとBさんの認識には一致している部分と不一致の部分があるはずです。
一致している部分を客観成分(共通成分)、不一致の部分を主観成分(個性成分)と呼ぶことにします。
もし、その対象(リンゴ)が共通の存在(客観的存在=実在)でないのだとするならば、
AさんとBさんの認識が一致することはありえませんし客観成分(共通成分)が存在することはありえません。。
AさんとBさんの認識に客観成分(共通成分)が存在することを持ってその対象(リンゴ)の実在性を確信できます。
我々の対象認識は本質的に不完全ですから対象の姿を完全に捉えることはできません。
こうした実在の主張に対し、実在(対象)の姿を完全に捉えることができて初めて実在が在ると主張できるのではないか?、と批判する人もいます。
私は、実在(対象)の姿を完全に捉えること、が実在主張の要件であるとは考えていません。
私の考える実在主張の要件は、この世界の整合的説明可能性にあります。
その対象(リンゴ)の実在性、この世界の実在性を仮定して、この世界が整合的に説明可能であるか、矛盾が生じることはないか、を問います。
この問いに対して私は、全て整合的であり如何なる矛盾も生じない、と判断しています。
従って、その対象(リンゴ)の実在性、この世界の実在性については、そのとおり確信しています。

実在とは何か(その2)
そもそも、何かを主張する、何かを書く、何かを述べる、という行為は他人(読者、聞き手)の存在を前提としています。
その他人は自分とは異なる独立した存在であることが前提とされています。
自分とは異なる独立した存在は実在と呼ばれますから、その他人(読者、聞き手)は実在であることが前提とされていることになります。
そうであるにも拘らず実在を否定する主張を述べる行為は矛盾していると言わざるを得ません。

ある唯物論者さん、コメントありがとうございます。
ある唯物論者さんに、全面的に賛同いたします。

ウィトゲンシュタインは、語の解釈説から語の実践説への転換を訴えました。
実在する対象物を完全に解釈し得るとし、これこそが実在だとする立場、これを「実在解釈説」と呼ぶことにします。実在解釈説は実在対象を確定させて考えようてするので、上記本文の「ニューニュートリノ」のような逆説を生み出してしまいます。それに対して、言語ゲームの中で「実在」という語を実践使用するその使用内容こそが実在の意味だとする立場、これを「実在実践説」と呼ぶことにします。実在実践説は不必要に語の意味を広域化したり厳密化したりしないので、矛盾は生まれにくく、生まれたとしても語の意味がすべて否定されるのではなく、単にその言語ゲームが終了するだけです。

或る唯物論者さんが説かれている実在論は、この実在実践説に近いように思いました。

横山信幸さん、お返事ありがとうございます。
実在実践説と言われると強い違和感を感じます。
言葉の意味を限定的に使おうとか、矛盾の生まれない範囲で言葉の意味を使おう、というようなことはまったく意図していませんし、考えてもいません。
ただ我々の不完全な認識能力を前提として如何にしてこの世界の姿、存在意味を正しく捉えることができるのかを考えているだけです。
正しく捉えるとは、この世界を過不足なく整合的に説明することを指します。
私が求めているのは、この世界の全ての現象を過不足なく整合的に説明可能な原理です。
その原理は唯物論にあるものと考えています。(但し、既存の唯物論はいずれもダメです)

P.S.
横山信幸さんが実在実践説と言われることには違和感を感じますが、そう仰る気持ちは分かるような気がします。
ですのでこの点についてこれ以上お返事をいただく必要はありません。

実在を神の視点で定義してはいけないということか。
人間の視点で定義すればよいわけだ。なるほど。

人間だから人間の視点で定義するのは当たり前。
強調するほどのことではない。

でも、当たり前だと言って、軽んじられる論の中にこそ、重要な真実が潜んでいることも、多いと思う。

実在は認識できない。認識できるのは現象のみである。
実在を捨て現象へ還るべし。
実在はまやかし、エポケーすべし。
すべては絶対所与より始めるべし。
すべては純粋意識へ還元されなければならない。

<唯物論と心、精神、クオリア、現象的意識>
唯物論では、心や精神は物質から生まれます。
唯物論では心や精神がどのように物質から生まれるかを明らかにできます。
唯物論ではクオリアや現象的意識がどのように物質から生まれるかを明らかにできます。
クオリアや現象的意識の意味を真に明らかにできるのは唯物論のみです。
唯物論では(精神現象を物理現象に)還元する方法を明らかにできます。

<自由意志について>
自由意志は存在しません。
自由意志と物理法則は決して両立しません。
物理法則はこの世界の秩序を保つために無くてはならないものです。
この世界の秩序なしに生命は生存できません。
もし物理法則が成立しなければ、天体の運行、太陽系の運行が維持できなくなります。
車は道を走ることができず、船は海を航行することができず、飛行機は空を飛行することができません。
地上の生き物は地上を歩くことができず、海の生き物は海を泳ぐことができず、空を飛ぶ生き物は空を飛ぶことができなくなります。
もし物理法則が成立しなければ、この世界は無秩序な世界になり生命は存在できなくなります。
我々が生きていくためには物理法則が成立することが必須です。
ですので自由意志は否定されなければなりません。
自由意志と物理法則を両立させようという試みは数々存在しますが成功した試みは一つとして存在しません。
両立させようとする試みは決して成功しません。

<心は如何なる存在か>
もし「心は実在するか」と問うならば、その答えは「NO」です。
もし「心は存在するか」と問うならば、その答えは「YES」です。

物質が実在としての存在であるのに対し、心は働きとしての存在であり実在としての存在ではありません。
心は脳の純物質的仕組みからその働きとして生まれます。
心は働きとしての存在であり実在ではありません。
心は存在しますが実在ではありません。

ある唯物論者さん、興味深い考察をいただきありがとうございます。
ただ、でも少し疑問点もありました。

「物理法則が成立していなければ無秩序な世界になり生命は存在できなくなる。だから自由意志は否定されなければならない」という推論には誤謬があるように思えたのです。
つまり、
「世界が秩序づいている」
から得られるのは、せいぜい、
「或る事象は物理法則へ厳密に還元され得る」
かまたは
「任意の事象は物理法則へある程度還元され得る」
でしかないはずです。なのに
「任意の事象は物理法則へ厳密に還元され得る」
を導出してしまっているのではないかという疑問です。

また、僕は自由意志について、デイヴィドソンの行為者性のアイデアで「自由」の語の意味を考えることが本来的な解決に繋がると考えていまして、この点である唯物論者さんとは違う考えをもっているのかも知れません。「心は実在するか」という一連のページで僕の考えを書いています。
また、心の実在自体の考察については、今後ブログを更新しつつ、チャーマーズとウィトゲンシュタインの違いを取り上げたり、「心」や「意識」などの用語の整理をしたりして考えていきたいと思っています。
それらについても、またご意見を頂ければありがたいです。

横山信幸さん、お返事ありがとうございます。
世界の秩序云々の箇所は仰るとおり厳密な記述ではありません。
厳密に述べますと枝葉末節の議論となり長くなりますので、ここでこれ以上は遠慮したいと思います。

結論は変わりません。
(自由意志は存在しない、物理法則の成立は必須、自由意志と物理法則は決して両立しない)

横山信幸さんの論考は(存在論関連の部分に関して)一通り読ませていただいております。良い論考だと思います。これからも注目していきます。

独我論がダメな理由として、「駅前で裸踊りができない」というのは少し弱いのではないかという気がします。半信半疑の独我論者というのがいてもおかしくはないし。人形の置いてある部屋で一人でいたりすると、怖くなったりすることがあります。

独我論がダメな本当の理由は、独我論を語る資格があるのはこの世界の中で、他ならぬこの私しかいないということだと思います。

しかし、独我論を語る資格がある私が独我論を語る時、語りかける相手であるあなたの中に私との同型を認めることになり、既にそれは独我論ではないということになってしまいます。

ゆえに、独我論が共通の言葉で大っぴらに語られることはないはずです。

御坊哲さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
御坊哲さんのお名前はGoogleで哲学関連の語を検索したときなどによくお見かけしていました。コメントいただけてとてもうれしいです。

独我論の論駁については、たしかに駅前での裸踊りだけでは弱いですね。ご指摘の通り、この「実在論がダメなわけ」のページではまだ独我論をきちんと考えるまでにはいたっていません。
僕は自分で反独我論論者だと思っていますが、独我論のことが大好きで、このブログでも独我論を考えることを主題の一つにしています。特に「独我論のダメなわけ」や「探究を探求する(独我論論駁)」のページでは独我論を種類分けするなどして分析を試みています。よろしければ、そちらも見てください。また、感想をいただければ大変嬉しく思います。よろしくお願いします。



まだ次項を読んでませんが、コンピュータ・ネットワークを連想しました。

本項における実在論の議論で現れる「本当の世界」という曲者な概念は、
あるサーバ(神)によって作られたネットワーク(世界)を連想します。
こう考えると、神を想定するのがまずいのであれば、ネットワークの別モデルである
peer to peerネットワークの概念が役に立つのではとふと思いました。
つまり、「認識」と「相互作用」のP2Pネットワークの総体が「世界」である みたいな。。

思いつきでの投稿失礼いたしました。


コメントありがとうございます。

コンピュータのことはよくしらないのですが、サーバが情報通信と情報認識のルール設定管理を独自でするパターンと、個々のコンピュータが相互に情報通信と情報認識のルールを設定し共有し管理するパターンがあるということでしょうか。
僕がこのページ「実在論がダメなわけ」で訴えているのは、認識対象の意味付けのルールを絶対的な客観の視点(神)に求めようとしても、結局どこかで自分の偏見を密輸入させたような擬似的な「絶対もどき」にしかなり得ない、ということでしたから、すごく似たシュチュエーションですが、ちょっと違うかも知れません。
でも、とても面白い興味深い視点を提起してもらったと思います。
ありがとうございます。

私も趣味で分析哲学を少し勉強始めたところですが、深い議論をしているサイトを発見し、うれしく思います。
私も文脈をコヒーレント(一貫的)に他社と共有できれば実存というか、「実存していると理解しても問題はない」と思います。
実際に自分という意識の存在が亡くなった後に、外部の実存が存在続けることは、あの世でもない限り確認できないので、「あると理解して生きる」しかないように思います。
また、
「自由意志と物理法則を両立させようという試みは数々存在しますが成功した試みは一つとして存在しません。」については、最近、「不確定原理(電子の位置と動きは同時に特定できない)から両立を図る」という「トンでもない論理」が出ていると読んだことがあります。もしかしたら「トンでもあり」かもしれません。
全くな素人ですが、面白いやり取りに感謝申し上げます。

けんぞうさん、コメントありがとうございます。歓迎します。
「自由意志と物理法則を両立させようという試みは数々存在しますが成功した試みは一つとして存在しません。」については、「自由意志」も「物理法則」もその意味するところをしっかりと考えないと問題にすべきことを溢してしまいそうになるので気を付けるようにしています。僕はあらゆる事例に対して決定論的な物理法則が存在するとする考えはそれこそ決定不可能な仮説にすぎないと考えていますし、「自由意志」も「決定論に反して行動を決定すること」ではなしに「自分のやろうと思ったことを行動すること」ができれば自由意志があるとしてよいと考えていますので、「自由意志と物理法則が両立しない」どころか「自由意志と決定論さえ両立できる」と考えています。
ですので、不確定原理がなくても自由意志を認める立場です。けんぞうさんも自由意志容認派ですか。

また、けんぞうさんは「実在」よりも「実存」を問題にされているのでしょうか。僕は「実存」については「実在論」以上に否定的に考えています。このブログではまだ実存に関してあまり討論できていませんでしたので、その方向での話ができるのでしたら、それはそれで大歓迎です。

私は独我論者です。
ですが学者ではありません。
上記に「独我論では最終的に「世界は、どんなであるか、はっきりしない」ような地平に辿り着く。」とありましたが、私は世界は「全てが私という二分化された意識の想像に過ぎない」と考えています。
この世界が実在していると証明するには、自身以外の主観を別枠で意識できるか、あるいは絶対的客観視を打ち立てるしかないと考えています。
しかしどちらも無理だと思います。
現在考えられている実在論は、この世界が絶対的現実と考えられた上で唱えられていると解釈しています。
上記にあります、「客観的に正しい「本当の」世界がはじめにあって、私たちはそこからデータを得て、世界を像として捉えているというのが実在論により世界モデルである。」は実に正しく聞こえますが、実際この世界における「正と負」、「善と悪」はそもそもないモノであります。
全てがまだまとまっていませんので、記述を省かせていただきますが、私の考える世界にはこの世界を創造した所以とこの世界での死についての結論もあります。
大多数の人間が独我論に否定的なイメージを持つのは、生死観における生を正しいと考える思考と酷似していると考えられます。

少々反論を掻かせていただきました。
しかし、私の感性はいかなるものか私自身も疑いながら生きています。
実のところ、私の考える独我論が「偽」であることを証明したく最近は思考を巡らませていまして、ですが「偽」の証明の材料を探すうちに泥濘にはまっていっているところです。
このような哲学や思想に関して話し合いのできる場所を探してしまうのもまた、独我論の否定を探しているのだと思います。
このような場所があることに感謝し、今後ともよしなに。

クロネコさん、
ようこそ、歓迎いたします。
僕自身がこのブログを書き始めた切っ掛けが、独我論と実在論の対立について考えたいというものでしたから、クロネコさんの思索内容は僕の興味にバッチリ合っています。このようなコメントをいただけてたいへん嬉しいです。
僕自身は独我論者ではありませんが、ブログの題にもしているとおり、独今論にたいへん興味があります。

クロネコさんは、過去や未来に本当の自分がいてそれを私自身だとすることができると考えられますか。

お返事ありがとうござます。歓迎を嬉しく感じております。
さっそくですが、
私の考えるこの宇宙を基盤とする世界には過去や未来という概念はあません。
またIFの世界もなく、誕生からすでに完結していると考えています。
私はそもそも「本当の私」の存在に実態はなく、情報の塊であると認識しております。いわば情報思念体、あるいは意識の集合体という存在です。
前回のコメントにも記述しましたが、この世界は私の意識を無意識と有意識とに二分化した無意識側である意図しない私の自己が想像した世界であり、本当の私の存在はこの世界の郭の外にあると考えています。
これで質問の回答になっていますでしょうか?

クロネコさん、
たとえば、僕が↓のページで書いた「完全バーチャル主体体験1秒映画」を見ているナメクジが、その「世界の郭の外の本当の私」みたいなイメージですか。
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-a198.html

はじめまして。ジュンコと申します。
すごく分かりやすい説明だと思い感動しました!!
そこで、少し失礼ですが個人的なものなんですが質問、というか教えて頂きたいことがあります。
現在、中学3年生です。夏休みの数学の宿題で悩んでいます。
レポート課題なのですが、題は、
「無理数が現在社会に及ぼしている影響についてまとめなさい」
                                というものです・・・。
つまりは、無理数が発見されてどの様に社会は動いたのか、ということです。
まったく、書きたいことも思いつかず頭を抱えています。
無理数と現代社会の関係?まったく頭がまわりません・・・
そもそも、無理数にあまり知識がないというのが問題なんですが・・・
私が、今回ご質問させて頂くのは、無理数と現代社会との関係です。
これについて、なんらかのヒントでもいいので、教えて頂けないでしょうか?
お忙しい中失礼いたしますが、宜しくお願いします。

ジュンコさん、いらっしゃい。
もうすぐ2学期ですね。25日くらいからですか。
宿題も受験もがんばってください。

さて、お題について、詳しくないのでお力にならないと思いますが、僕の力の範囲で答えるだけはお答えします。

無理数は、どんなに延長した小数を用意してもそれが有限である限りは正確に表すことはできません。分数でも小数でもどうやったったとしてもデジタル数では表せないものです。
そのような、どうやってもデジタル化できない数があるということが分かったってことが、無理数の発見の意味であり価値であると思います。
円周率πはどうやったってデジタルでは表せないことが分かったから、人工衛星の軌道を計算するにも、その衛星の部品のアルミボールの重さを計算するにも、近似値でしか表せないこと、そして、その近似値で対応するための知恵が必要になってくることが分かったわけです。
ネイピア数eも√2も、近似値でしか表せないことがはっきりしているからこそ、それを使った電子工学の機器を作るためには、その近似を求めるための工夫をどこまでも追求し続けること必要になることが分かったことで、スマホが使えるようになり、PCが使えるようになり、こうやって僕がここに自分の考えを書き込むことができるようになりました。

こんな感じでどうでしょう。レポートにはそのままじゃ使えないでしょうが、お力になれたら幸いです。

クロネコさん、

あるいは、「我思うゆえに誰あり」↓の方で記したものの方が、クロネコさんの独我論のイメージに近いですか。
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/011.html

すごいですっ!!
「近似値でしかあらわせない」ということが分からなかったら・・・とういうことですね。
その発想はったくありませんでした。恥ずかしながら、頭がかたいもので・・・
とても分かりやすく、中学生の私でも理解することが出来ました!!
本当に感謝しています!!
これを自分なりに考えて、レポートまとめます!!
本当に助かりました!!
もし、レポートを書いているときに分からないことがあったら、質問するかもしれませんが、宜しくお願いいたします。
横山信幸さんにあえて、本当に良かったです!!
ありがとうございました。

ジュンコさん、
お役に立てて良かったです。また、いつでもいらしてください。

お返事が遅くなりました。
「完全バーチャル主体体験1秒映画」を見ているナメクジが、その「世界の郭の外の本当私」または、「我思うゆえに誰あり」とどちらが近いかと問われますと、後者が近いかと感じます。基本はデカルトの思想に非常に近い所があります。
その彼、デカルトはこの世界の内郭のことをよく考えているかと思います。
そんな彼の考える内郭の構造と私の思想とはとても酷似しています。ですが、「外郭に関すること」、「要因と根底」、「世界構想の所以」、「生死観」など「何故「私」がここに存在するのか」という疑問に対しての解が不明瞭ですので、彼が一体この世界をどのように感じて、格言を残したのか、私にはわかりません。
それゆえに、彼の思想と私の思想とが完全に一致しているとは言えません。

私は哲学を独学で学んでまいりました。
哲学とはいえ生命倫理を深く追及する身でありますので、デカルトに関しての知識は浅はかなものです。
ですので、もし横山さんが「デカルトがこの世界で「なぜ私がここに存在しているのか」をどのように認識解釈していたのか」をご存知でしたら、ぜひ御教授お願いいたします。

クロネコさん、

僕もデカルトの「方法序説」と「省察」を斜め読みしただけの知識しかありませんので、デカルトについてのご質問に答える力がありません。
ですが、デカルトの実在への懐疑は「方法的懐疑」と呼ばれる、実在を論証するための基盤づくりのためだけの懐疑です。ですから、「外郭に関すること」、「要因と根底」、「世界構想の所以」、「生死観」など「何故「私」がここに存在するのか」という疑問が、彼自身の問いに含まれていたとは限らないように思います。

返答ありがとうございます
デカルトは実在論の証明のために懐疑論をといたのですね。

横山さんに質問なのですが。
私以外の独我論者の方は「何故「私」がここに存在しているのか」をどのように考えているのか、ご存知でしたらお教え頂けますでしょうか?
それと、独我論者をどのように思いますか?

クロネコさん、

自称独我論者にお会いしたのは、僕にとってクロネコさんが初めてです。
だから、クロネコさん以外の方が「何故「私」がここに存在しているのか」をどのように考えているのか、は分かりません。

でも、その問いは、有名な「世界はなぜあるのか」という問いと同じものかもしれないという気がします。
大阪哲学同好会の仲間が、「世界はなぜ『ある』のか 実存をめぐる科学・哲学的探索」ジム・ホルト著http://www.amazon.co.jp/dp/4152094141/
をおすすめ本だと言っていました。僕は未読ですが、もしかするとクロネコさんの思索の一助になるかもしれません。

クロネコさん、付け加えます。
ぼくは独我論者ではありませんが、とても興味があります。
独我論大好きです。
でも、一般的な独我論は実在論と同様に間違っていると考えています。
それは、その独我論が「世界は本当は私の想像物である」とか「世界に本当は他我がない」などというような、「本当の世界」があるとする世界観であれば、実在論と同様に、言語論的実在論と言える範疇に入ってしまうものになるからです。世界に絶対的な「本当」の姿なんてないのじゃないか、というのが僕の考えの中心です。
もし、クロネコさんがそのようなアイデアに共感されるなら、クロネコさんの「独我論」は一般的に独我論と呼ばれているものとはちょっと違うかもしれません。

横山さん、返信有難うございます。
お勧めの著書、「世界はなぜ『ある』のか 実存をめぐる科学・哲学的探索」をぜひ読ませていただきます。
他にもお勧めの本があればぜひお教え下さい。


ここからは付け加えに対しての回答です。
横山さんの「言語論的実在論」に関する記述を読ませていただきました。
残念ですが、私の独我論は言語論的実在論の範疇に入っているのではないかと感じました。
ですが、「世界に絶対的な「本当」の姿なんてない」という記述にはおおいに賛同いたします。
ただその「世界」の言葉の中に「そう思う私の意識」をも内包してしまいますと、私は賛同できかねます。
というのも、、「世界に絶対的な「本当」の姿なんてない」という意識(思想)を持つ自らの自己はすでに存在しているのではないかと感じてしまうからです。
私の考える「世界」は「無」であります。そしてその「無」の空間にひたすら私の意識のみが存在していると考えています。


これは余談ですが、おそらくここから私の独我論が始まったのかと思う出来事です。
高1の頃、友人と話しているさなか、ふと「私と会話を交わしている目の前の彼は本当に(私の知る昨日までの彼で、生きていて、私と同じ人間である)彼なのか」という疑問にかられました。
この時私は私が私であると自らを証明できるのに対し、彼が彼であると証明することが出来ませんした。どうしても証明できず、直接尋ね「YES」という回答も貰っても尚、彼が彼であると証明できませんでした。
ですので、私の独我論は、私以外の主観の証明を立証できれば覆されると考えています。
いつかこの独我論が覆される事を心から願っています。

書きなれていないので、読みにくいかと思います。すみません。
いつか直接横山さんとお話したく思います。

僕もクロネコさんとお会いして話ができれば良いと思います。興味深い話ができそうですね。
お住まいは大阪からは遠いですか。
毎月、大阪哲学同好会で会合わを持っていますので、よろしければお越しになりませんか。

このサイトを楽しく拝見し、参考に考えています。いろんな哲学論議をみると、いろんな考えがあることを再認するし、いまさらながら、すべての論議は等価であり、哲学の発展に寄与するものだと思うし、多様な意見に感心もします。現在、哲学に関心があって、ドルーズを竹田青嗣の論を参考におに学んでいます。彼の信念対立の克服やフッサールの哲学の解釈や構造構成論や意味生成過程等、現象学に関連したことについて、理解あぐねています。これらの解釈や評価の論議がないけれども、皆さんの意見を参考にして、私たちの論議も深めていきたいと考えています。この欄でも独我論や実在論、主観と客観が論議の主流だと思うし、面白い独自な論があるのではと思います。

オールクレアさん、コメントありがとうございます。

ここの愚文たちを読んでもらえて面白がってもらえて、嬉しいです。現在はマクタガートの時間論に関する内容を書いていますが、それが一段落すれば、その次にデリダの「声と現象」などの読みを土台にして、フッサール哲学と言語ゲームとの関係を考えていきたいと思っています。オールクレアさんの問われている「フッサールの哲学の解釈や構造構成論や意味生成過程等」とも関連のある内容になると思います。少し先になりますが、よろしければ、また、ご覧下さい。

(私は自分の中に二人居る)

私は散歩します、そしてあのビル・あの公園・自転車・電柱・山々・人々が目に入って来ます。それらは私の視覚・視像でありますが、私の内側なのか外側なのかによって、違いが生じます。内か外かです「あのビルは私の外界である」というのは1万人全員がそう述べる。なぜなら、それは常識であり、現実であるからです。人は誰でもほっといたら
唯物実在です。私の外部に対して「それは私の心だ」「内部だ」などと言おうものなら
日本ではナントカのレッテルを貼られます。これらの考察のうち、面白い疑問があります。つまり、私及び私の身体は内か外か?私とは外部か内部か?という疑問です。
もしも、物質が外部にあるなら「私とは外部」であるといえるのでは?

トマトさん、コメントありがとうございます。
人格としての「私」と、身体としての「私」と、世界を感じている主体としての「私」と、行動する主体ととしての「私」と、思考し世界を記述する主語としての「私」、などなど、色々な「私」が考えられると思いますが、それぞれが必ずしも同じ対象とは限らないと確認することも重要だという気がします。「『私の身体』は『私』の内か外か」などという問いをたてるときには、その「私」とはそれぞれ如何なる私なのかを確かめながら問わねば何を問うているかがはっきりしないように思います。

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