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はじめに

私は死ぬ。

人間は200歳まで生きることはできない。

必ず寿命がある。

しかし、私は死なない。

死ぬ本人にとって、死は無い。

つまり、もし死後の世界というものが存在せず、死とともに私が消滅するのなら、私にとって死はありえない。

もし死後の世界があるのなら、私はそこで生きているので、私の死はやはり無い。だから、「私は死ぬ」という考えも、「私は死なない」という考えも、どちらも正しいが、どちらも間違っている。

このずれは何か。

このずれが実在論と独我論の違いだろう。

実在論も独我論もそれぞれが正しい。

しかし、両者は互いに相いれないものである。本レポートは、独今論を中心に、独我論と実在論について検討し、その統合を模索するものである。

まず、実在論と独我論また独今論のそれぞれの正当性と不当性を検証する。

そして、世界像に関する分析命題と総合命題の働きを考え、そこから、独我論と実在論が互いに一つになっていく状況を俯瞰すべくアタックしてみたい。

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私は哲学を趣味で勉強しているだけで素人なので、本レポートについても、眉に唾付けて、間違いがあると思って読んでもらいたい。

 

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コメント

言語実在論をアクセスしているうちに貴ブログに到達しました。
基本的な、疑問を記させていただきます。

>>私は死ぬ。
人間は200歳まで生きることはできない。
必ず寿命がある。
しかし、私は死なない。
死ぬ本人にとって、死は無い。

ここには根本的な誤り、事実誤認があります。
まず、かならず私は死にます。
死ぬ本人にとって死はあります。ただ、本人自体は認識し得ないだけです。なぜなら、最終的に物になり、認識できなくなるからです。

人には必ず寿命があり、死が訪れます。これは、必然ですが、それ自体は主要に蛋白質の生科学反応の偶然に依存しています。ここに、必然と偶然という対立物の統一、矛盾の存在があります。
これが、唯物弁証法が示す真理です。

貴ブログは、この事実を誤認したところからスタートする誤謬の論理展開と考えますが、いかがでしょうか。■

四方山さん、コメントありがとうございます。

僕の「私は死なない」という言葉づかいを「間違い」とすることももちろんできるとおもいます。日常的な言葉づかいにおいて、「私は死なない」などという言い分が正しいなどと言うことがある訳がありません。

つまり僕は、四方山さんの言うような、本人の認識が不可能な死をあるとする言葉づかいも、もちろんアリだと思っています。
しかし、それをないとする言葉づかいも、やっぱりアリなんじゃないかとも、思っています。
そして、言葉づかいの「前提」の違いを無視してしまえるような絶対的な真理はあり得ないのじゃないかと僕は考えています。

なので、

「私が死なない」を偽だとする話が、「本人が知らないものも絶対的にある」とする前提を持ち込むことによって、「本人が知らないものをあるとすることができない」とする前提の話を、裁くようなものであるなら、その裁きにどんないみがあるのか、

僕にはよくわかりません。

早速の応答有難うございます。
「言葉づかい」を問題にしているのではなく、事実を問うているのですが?

単に言葉の綾を問題にし、論じられているということでしょうか。
表現としての芸術が存在するのは事実で、それは想像、空想の世界を扱っています。

貴ブログで展開されているのは、空想、想像に関する言葉づかいの問題ということでしょうか。しかし、それは真理とは異なる世界です。

真理を問題にするのであれば、対象としての現実世界を問題としなければならず、死んだ人は自分の死を認識することはできません。ヘーゲルのような絶対精神の輪廻転生を仮定する観念論の世界観としては可能かもしれませんが。■

四方山さん、

ぼくの「言葉づかい」という言い方が誤解を招いたかもしれません。
「言葉づかい」でもって言いたかったのは、「形相」であり「形式」であり「論理」です。どんな前提に立って、どんな論理に基づいて問いを問うか、というところです。

そして、僕が感じたのは、次のようなところです。
上の記事において「僕は死なない」の問いは「主体と一切相関のないものの存在をどう問うべきか」というところに主眼があるのですが、四方山さんの批判は、その問いに関する思索のすでに終わったところを前提にし、論理付けされた話を展開されてしまっているのではないか?ということです。
もし四方山さんが「主体との相関のないものでも有るものは有るのだ。そんなことを問う価値などない」と言われているのであれば、議論の交点を探すのは難しいかもしれません。

いかがでしょうか?

横山 さま

応答ありがとうございます。
下記のように考えます。

>>「主体との相関のないものでも有るものは有るのだ。そんなことを問う価値などない」と言われているのであれば、議論の交点を探すのは難しいかもしれません。

主体とは認識主体であり、主体とその認識対象の相関を問うのは意義あることと考えます。それは、認識の在り方であり、科学的な認識論が展開されなければなりません。

アリストテレスはこの問題を取り上げ、椅子に対して木材を、彫像に対して青銅を、形相と質量として区別しています。そして、相互転化についても論じ、木材は椅子に対しては質量であるが、切られない木に対しては形相であるという考え方をしております。そして存在するもののもっとも基礎的なものは、すこしも形相を含まない、純粋な究極の形相としての神の精神であると説明しています。それゆえ全体としては観念論的な踏み外しがありますが、形相を単に質量に即して存在する受動的・固定的な外部の形式と考えているのではなく、質量から実現してくる・質量に区別と規定を与えて現実的なものとする・能動的な存在と考え、現実的なものを形相と質量との不可分な統一としています。

アリストテレスはこのような現実的な形相を、つまり客観的な存在としての形式を認めています。それゆえ、たとえ客観的な物質的な世界を認めて、それがわれわれの目や耳を触発するのだとはいっても、その物質的な世界は「認識することのできない物自体」でしかないと主張するならば、その不可知論はアリストテレスからも後退していることになります。

このような不可知論ではなく、形式と内容の統一として認識対象を捉え、形式は内容に含まれていると同時に内容に対しては外的なものでもあり、その内容の運動が形式をも変えていくものとして、内容と形式をつねに統一として捉える弁証法的な論理により科学的な認識論を展開していかなければならないと考えています。

>>「主体との相関のないものでも有るものは有るのだ。そんなことを問う価値などない」と言われているのであれば、議論の交点を探すのは難しいかもしれません。

主体とは認識主体であり、主体とその認識対象の相関を問うのは意義あることと考えます。それは、認識の在り方であり、科学的な認識論が展開されなければなりません。

アリストテレスはこの問題を取り上げ、椅子に対して木材を、彫像に対して青銅を、形相と質量として区別しています。そして、相互転化についても論じ、木材は椅子に対しては質量であるが、切られない木に対しては形相であるという考え方をしております。そして存在するもののもっとも基礎的なものは、すこしも形相を含まない、純粋な究極の形相としての神の精神であると説明しています。それゆえ全体としては観念論的な踏み外しがありますが、形相を単に質量に即して存在する受動的・固定的な外部の形式と考えているのではなく、質量から実現してくる・質量に区別と規定を与えて現実的なものとする・能動的な存在と考え、現実的なものを形相と質量との不可分な統一としています。

アリストテレスはこのような現実的な形相を、つまり客観的な存在としての形式を認めています。それゆえ、たとえ客観的な物質的な世界を認めて、それがわれわれの目や耳を触発するのだとはいっても、その物質的な世界は「認識することのできない物自体」でしかないと主張するならば、その不可知論はアリストテレスからも後退していることになります。

このような不可知論ではなく、形式と内容の統一として認識対象を捉え、形式は内容に含まれていると同時に内容に対しては外的なものでもあり、その内容の運動が形式をも変えていくものとして、内容と形式をつねに統一として捉える弁証法的な論理により科学的な認識論を展開していかなければならないと考えています。

しかし、実在論と独我論などという形而上学的なあれかこれかの二分論の発想では科学的な認識論を展開するのは論理的に不可能であり、観念論に転落するしかないのではないでしょうか。■

てすと

まだ、ブログのあちこちが表示不安定な様子。

四方山さん、
コメントありがとうございます。

僕は、認識不可能な物自体の存在をそのまま認めることは困難だと考えますが、だからと言って、あらゆる物的存在を物自体だと考えなければならないと考えているわけではありません。

また、僕の大好きなウィトゲンシュタインの相関主義的な思索にも、相関主義的的観点から実在論を望もうとするメイヤスーにも、とても豊かな思索が溢れていて、僕にはあまりに魅力的です。
僕の「独我論」や「実在論」という言い方があまりに乱暴なため誤解させたのかもしれないと思います。そうであればたいへん申し訳ないです。
僕の目指している思索はウィトゲンシュタインやメイヤスーやその他の哲学者と同様に、ある意味で観念論的な有限性の世界と、ある意味で実在論的な無限性の世界の統合の可能性を探るものです。それはゴールのない不可能を求めた探索かもしれないです。しかし、決して無駄な思索であろうはずがないような気がしています。

>>ある意味で観念論的な有限性の世界と、ある意味で実在論的な無限性の世界の統合の可能性を探る

世界の統合の可能性ではなく、現実に統合された世界が存在しており、そこに見られる本質と法則性を明かにする科学が求められているのではないでしょうか。それは、哲学ではなく事実に基づく科学でなければなりません。

すでにエンゲルスは『フォイエルバッハ論―ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』で、哲学はヘーゲルで終焉し、「自然と歴史から追放された哲学に対してなお残るものは、純粋思惟の王国だけである。すなわち思惟過程そのものの法則についての理論(Lehre)、論理学と弁証法である。」ことを明らかにしています。

「思弁的唯物論」を提案し、「それは、私たちの認識能力の有限性に根拠を与えている、世界には認識不可能な法則が存在しているという、哲学の伝統的な前提を否定」しても、事実が、歴史がそれを反証しています。

人間の認識能力は有限であるとともに、無限であり、現在認識不可能な法則も将来は明かにされる可能性があります。つまり、人間の認識能力は有限であると同時に無限であるという矛盾として存在しています。この矛盾の存在を無視し、これを、頭の中だけで論じようとする哲学は必然的にヘーゲル以前に後退するしかありません。

フランスで従来流行した思想は、大きな目でみればいずれも観念論の系列に属するもので、それら全体を通じて見られるのは前ヘーゲル的な発想であり、構造主義もまたそうした流行の一端に過ぎません。しかし、それも、ポストモダンへと移行し1994年のソーカル事件により、あっけなく終息することとなりました。

その後に生まれたのが、メイヤスーの「思弁的唯物論」であり、マルクス・ガブリエルの「新実在論」ですが、それは科学ではなく哲学で、前ヘーゲル的な段階への後退でしかないと考えます。

ウィトゲンシュタインの言語論も又、「意味を求めるな、用法を求めよ。」と命じ、用法を意味と見做せば認識の問題を、従って「現実に存在しないものを対象とする認識」の問題を棚上げにできると考えた機能主義に過ぎず言語の科学を展開することはできません。

このような、前ヘーゲル的な段階への後退ではなく、唯物弁証法に基づく科学により人類の思考、思惟、認識の前進を図るべきと考えますがいかがでしょうか。■

科学的物理研究によって世界のあり方が次々と明らかになっていく。我々はその恩恵によってどんどんと世界の構造について詳細を知り得るようになっている。
それは、否定しません。その通りだと思いますが、それゆえに、その科学が見せてくれる世界が何を意味するのかを問う必要がなくなるとは思えません。科学が明らかにしたものはいかなる意味のものなのか、という問いは、どんなに科学が進もうと、どんなに問いを深めようとこれ以上問いのない最終的な答えに到達することはないと思われます。少なくとも僕にとっては、どこまでも、科学とは別の哲学の視点での問いは有意味ですし、それを問うことが面白くて仕方ありません。

ただし、そんな哲学的問いなど馬鹿馬鹿しいと思う人がいても、それを間違ってるとは思いません。それは、合ってるか間違ってるかの違いではなく、好き嫌いの違いだと思うからです。四方山さんの批判は、僕にとっては、「僕とは価値観の違う人が居るなあ」というものです。

ですので、やはり、これ以上の議論の交点はあまりないかもしれないと感じています。

科学的物理研究は自然を対象とした学問ですが、社会、精神、認識を対象とした社会科学、人文科学が学問として研究されなければならないと考えています。

そこでは、哲学はもう不要であり、そのために現在、社会科学、人文科学の学問としての在り方が問われていると考えます。

このような哲学的思考が歴史学、言語学、文法学、文献学を停滞、後退させ、混乱させていると感じているので、コメントさせていただきました。

個人的な趣味にとやかく言うつもりはありません。■

哲学が何の役にも立たないと言われるのは、その通りかもしれないという気もします。

ただし、「科学は決して数学的問いに答えられない」というのと同じ意味で、「科学は決して哲学的問いに答えられない」とは言えると思います。

ですので、役に立たないと言われようとやめることができません。

科学は時間軸に沿って事実を積み上げていくけれど、歴史は人文知によって作られる。
ヘーゲルのところで終わったのは真理の探究としての哲学で、精神の営みとしての哲学は全く衰えていないのではというのが個人的な考えです。(尤も、より勝手なことを言わせて頂くとカントで近代までの哲学は完成したと思っていますがw)
人間は感情に振り回されるし、認識の範囲も驚くほど狭い。そういう人類という単位でやっていくにはどうしても個々の事象、つまり事実に直接的には基づかない、より抽象度の高い範囲で捉え考えていくという営みが必要となります。そういう営為に於いて哲学というツールは大いに威力を発揮する。議論の中でも少し触れられているように、それを芸術という形で表現する人もいますが、詩人や文学者より、より言語的に表現し、解釈する、そういう人種が出てくるのはやっぱり人間は言語的な生き物なのでとても自然ですね。
カントは抽象能力というものをとても強調し、多分人間の理性の根本的性質というぐらいに思っているのですが、それには僕も同意で。よって、人間の性質上哲学的営為は持って生まれた病のようなもので切り離せないぐらいに思っています。
余りにも良質の議論だったので、ついコメしてしまいましたm(__)m

テスト

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ああ、はじ銀さんだ。ありがとうございます。うれしいです。

僕は、実は、四方山さんの言われることが分かるような気もするんです。
哲学の思索という「黒箱」は、「問い」を入れても、「新たな問い」を出してくるだけで、どこまで繰り返しても「答え」を出してくれることはない。
我々に必要なのは「答え」なのであって、どこまでも問うだけなんて無駄じゃないか。と。
最近の「大阪哲学同好会」でも同じような議論がありました。

でも、やっぱり、どこまで行っても、哲学じゃないとできないこともあるような気がするんです。はじ銀さんが言ってくださったように、それは、芸術とか文学に近い活動なのかもしれないという気がしています。


言語がポエムを含んでなければ、実はそこには意味論的意味はあり得ず、
言語が哲学を含んでいなければ、やはりそこには意味論的意味はあり得ない。
哲学があるからこそ、科学やその他が生み出す答えに「色」を付けることができる。
みたいなことを、とても実感している今日この頃です。

私の専門に近い分野で言えば、
言語学の「語用論」や「形式意味論」などの分野は明らかに20世紀の言語哲学からインスパイアされて発展してきた分野です。
そしてその分野は現在、自動翻訳という実用面にも応用されています。

ああ、ウラサキさんまで来てくださった。ありがとうございます。

哲学が役に立つかという話で、哲学もいろいろと有用だってことですね。

すでにある技術面で役に立たないことを純粋に深めようと思索するからこそ、
まだ確立されてない分野で新しい学問が始まったり新しい技術革新に結びついたりするってことですかね。

やはり表示が不安定。
いつまでも調子悪いココログ

やはり表示が不安定。
いつまでも調子悪いココログ

私の個人的な哲学との付き合い方は、
以前にも明言した通り、「探偵小説としての哲学」。
実用面は全く顧慮せず、純粋娯楽として楽しむ、というものです。
生き方に影響を与える事もほぼありません。

ウラサキさん、ありがとうございます。

それが真正に純粋な哲学との向き合いかたのような気もします。
僕は、死が怖くて何かその答えを探れるんじゃないかと思って哲学を趣味にしてますが、どうもそんな不純な動機はうまくないらしく、そこを探ろうとしては哲学から遠ざかってしまいそうになっちゃいます。

横山さん、

死の恐怖から逃れる為に、古来より宗教というジャンルがあるのではないでしょうか?
哲学はむしろその宗教に対して疑問を抱かせる作用の方が強いと思われます。
哲学に首を突っ込んでしまったが為に、自殺したり人生を踏み外したりする人の方が、
哲学から安心立命を得る人よりもずっと多いのでは?

哲学はあまり真剣にならず、片手間で気楽にやるのが吉かと。

片手間、良いですね。ホントにそう思います。
仕事も遊びも哲学も、肩に力を入れ過ぎないで、というの大事ですね。

何にでも面白がってしまい近づきすぎて逆に見えなくなってしまうのが僕の長所かつ短所だと、自負と自戒と半々な感じです。

面白そうなコメント欄の内容に吸い寄せられ遅ればせながらコメントさせていただきます。

私は哲学も科学も矛盾を受け入れてるとは思いません。
矛盾があるとすればそれは「特異性(点)に到達できるか否かに対する回答」です。
科学も哲学もこの回答には直接答えてはくれません。ただその特異性(点)の存在を指し示すのみです。
回答は私を含めた個人それぞれがあらゆる場面でその時々に応じて行うのです。
故に矛盾となる。排中律を拒否すれば良いとはならない訳ですね。
だから科学も哲学も理論としては優劣はないと思います。
哲学は応用すれば「私」の役に立ち、科学は応用すれば「人」の役に立つ。
この点で科学が重宝されるのは間違いないでしょう。

特異点といえば最近「ブラックホール」に関するニュースがありました。
「事象の地平線」や「裸の特異点」などの考えはこのコメント内容にも通じるものがあると思います。
科学も哲学も理論だけなら「ロケット」です。
「ロケット」を「特異点(ブラックホール)」へ飛ばすとどうなるのか。
「ロケット」を観察する我々からはどう見えるのか。
そして「ロケット」からは何が見えるのか。

これは「特異性(点)に到達できるか否か」と同じですね。
これが永劫回帰というやつなんでしょうか。

Jさん、コメントありがとうございます。
Jさんは、以前コメントを下すっていたJさんでしょうか?
また、この「はじめに」のページのコメントで「永劫回帰」について触れられているのは、僕の新しいドゥルーズ等に関する記事も読んでもらってのことでしょうか。コメントとてもうれしく思います。

ご指摘のように、まさにドゥルーズの読みおいての「永劫回帰」は、「特異点」を「他なるもの」に繋ぎ得る視点として捉えたものだと思います。ただし、そこで言われている「特異」は単なる「連続性の喪失」という意味だけでなく、「一般化を拒む個別性」という意味合いで捉えられているもののようです。
そして、そのような意味での「特異性」をどう語り得るものとして掴まえていくかを考えるとき、そこでは、哲学はどこまでも科学を必要とし、科学はどこまでも哲学を必要とするようなものになるように思われます。

(その問いにおける「特異点」という言葉の意味は、「ブラックホール」について言われるときの「特異点」とはややズレるものであると思いますので、僕の回答はJさんのお話とはズレた話をしてしまったかもしれないですね。そうであれば、申し訳ないです。)

> そして、そのような意味での「特異性」をどう語り得るものとして掴まえていくかを考えるとき、そこでは、哲学はどこまでも科学を必要とし、科学はどこまでも哲学を必要とするようなものになるように思われます。

その様な形で特異点へ到達しようとすることは理想であり、その時「特異点」は「中庸」と言えるのかも知れません。
しかし「誠」であり続けることは大変難しいと思います。
またその結果手に入れた理論により、「互いに必要としあった哲学と科学」の内容は不要になる可能性があります。
理由は今までの「時間+3次元空間」にさらに次元が加わるような世界の見え方(捉え方ではない)になり、特異点の観察が共有化されるという様になるのではという妄想からですが…。

この妄想に関して書き連ねたい気持ちもありますが、元々の「永劫回帰」について私は
> そして「ロケット」からは何が見えるのか。
を重視した結果だと考えます。より詳しく言えば
「ロケット」から何かを見続けた人が、回答に確信を持ち、且つその確信を尊重した結果
だと考えます。
そしておそらく回答は、「特異性(点)に到達できる」でしょう。
だからこそ「永劫」なんだと私は思います。

> Jさんは、以前コメントを下すっていたJさんでしょうか?
そうです。記事も読ませていただいてます。
内容はちゃんと理解できてるか分かりませんけども。

Jさん、ありがとうございます。
とても興味深いコメントです。

特異点に到達できるか否かという点に、奥深い考察の可能性を感じています。
ぼくも、我々の「言語」は個物に到達するとする立場に強く共感します。
でも、その特異点自体に到達可能だというのは如何なる意味でなのかという点で、とても興味深く感じています。

例えば、僕たちは地球上からブラックホールを望むことができ、その輪郭を見ることができます。しかし、我々はロケットに乗って行っても、思考実験としてでも、ブラックホールの特異点はおろかシュバルツシルト半径に到達することさえできないらしいです。地球上から見るとロケットがその半径に達したように見えたとしても、ロケットから見えるその半径はどんどんと逃げて遠ざかって行って決して辿り着けないらしいです。
同様に、「個物と一般」や「分析と総合」の統合という無限遠の彼方に実際にたどり着くことは無理なんじゃないか、その無限遠は可能無限でしかないのじゃないか、という感じです。

そのあたりの視点も含めて、ドゥルーズは永遠回帰をどう捉えているかに注目して、読みといていきたいと考えています。

師匠 すいません。おじゃまします。

哲学の「特異点」は、「私」だと思います。ここにコメントする「私」です。
この哲学の「私」は、宗教から排除され、科学からも排除された「私」です。
今や、すごく狭いスペースに追い込まれて、崖っぷちって感じです。
ただ、この「私」は無限後退という必殺技を身につけていて、ロケットから逃げ続けられるんですね。
今や足の裏のスペースも無いような「私」ですが、追い込まれれば、追い込まれるほど、際立つという逆説があり、小さく重いがゆえに無限に落ちていく「特異点」と似ていると思います。

ブラックホールの中にビッグバンの「種」(特異点)があるという異端な仮説があるらしいです。つまり、この特異点が、次の宇宙との結節点になり得るということだと思います。宇宙の「無限ループ」ですね。ニーチェの「永劫回帰」、仏教の「輪廻転生」、を暗示(明示?)しているようにさえ思います。神学的には、「魂のルフラン」(エヴァ)です。

それから、私は、「ブラックホール」は、哲学の「ニヒリズムの穴」と思ってます。
「生」であれ、「次元」であれ、「言語」であれ、あらゆる言説を一瞬に、呑み込んでしまうようなところがあるからです。

昔、ニヒルな私に、友人が教えてた大切な一節があります。
「たとえ世界が明日滅びるとしても、私は今日、リンゴの木を植える。」(マルティン・ルター)
これは、「明るいニヒリズム」や、「誠」は、繋がる。と思いました。

taatooさん、ありがとうございます。

僕は神学や仏教をあまり知らないので、おっしゃっていることを何となくのイメージでしか捉えられていません。
でも、「特異」が「私」だという話はよく分かる気がします。

そして、その「私」を如何なるものだと考えたらそこでどんな特異が入手できるのかを丁寧に分析することが、ここでの問いの最も重要で最も面白いところだと思います。

そのうえで、その私が到達できる無限はあり得るのか、例えば「隣室に行けば隣室の机があるどうかが分かる」のレベルであれば大丈夫なのか、という思索が大事になってくるように思えて、今そのあたりに興味を持っています。

おそらく、それがtaatooさんのおっしゃる「明るいニヒル」にもつながるかな?という気がしています。

ごめんなさい。なんだかよく分からない返答になっちゃいました。

師匠 こんばんわ

ブラックホールの写真から、にわかに宇宙オタクとなって、WEBチェックしてると、面白い記事があって、「ビッグバンのとき、宇宙は点でしかなかった。この点が宇宙の全てなので、点には内側しかない。点には外側がない。」(ホーキング織野氏)だそうです。

宇宙論って、けっこう形而上学してます。

内側しかない世界モデルで、そもそも世界には外側などないって、すごくないですか。点が全てで、点の内側だけで、外側がない。

もし、そうであれば、宇宙も世界も有限という話ができそうですが。記事の別のところに、全体の話であって、ローカルな話ではないという言い方もありましたが、ビッグバンって、ローカルな話なんだろか(・・?

宇宙の中のハエは、永久に外に脱出できない。師匠、どう思われますか。


はじめまして。哲学初心者の年寄です。人生も最終段階かというこんなところで突然”真理”ってなんだろうという疑問にとりつかれて彷徨い、ここに来ました。内容は文字通り議論の余地があると思いますが、質問者とブログ主様との”~なければならない”という表現の有無のちがいが気になります。これ、なんでしょうか。

taatooさん、ありがとうございます。

宇宙に外部がない、という話。僕はもともと中学の理科教師だったので、とても興味があります。
外部がないというのは、外部から侵入不可能性および外部への脱出不可能性ということだと思います。宇宙空間の曲率が一定以上であれば、光が光自体では直進しながら曲がってしまって帰ってきちゃうものになります。
どこでもドアの中にむかって真っすぐ前に進むとそのスタート地点のすぐ背後に戻ってきちゃうようなイメージだと思います。多分、宇宙の最初に宇宙が点だったというのは、そのような曲率の極限において、宇宙に空間がなかったということだと思います。
また、宇宙はビッグバン以降の空間の誕生とともにエネルギーと質量を獲得しその内容を持ち得るようになったそうですから、その「点」では質料とエネルギーが「0」であるような極限だと考えられるものだと思われます。

しかし、僕の解釈のように、この「外部がない」が「外部との相関の不可能性」という意味だったなら、その「ない」は「ある」の否定ではなく、「ある」の肯定でも否定でもない「ナンセンス」という意味だと考えられますので、
宗教的あるいは超越的な外部の存在は不可能だという話ではないと思います。

みゅうさん、コメントありがとうございます。
よくお越しくださいました。歓迎いたします。

みゅうさんのコメントから、とても根源的な問いを問われているような感じを受けています。
しかし、僕の読解力の弱さのため、

>「質問者とブログ主様との”~なければならない”という表現の有無のちがいが気になります。これ、なんでしょうか。」

という問いの『なければならない』という表現がそれ以前のコメントのどの部分を指されているのか、よくわかっていません。なので、もう少し詳しく教えてもらえますか。もうしわけないです。

師匠 ありがとうございます。

「戻ってくるドア」なんですね。ということは、「普通のドア」ですよね。
宇宙論的には「外側」がないということで、言語論的には「外側」はあるかどうかナンセンス。
で、結論として、宇宙は、有限なのか、無限なのか(・・?

もちろん、科学的宇宙論としてでもいいんですけど、実際、私みたいに宇宙は無限だと思っている人が多いと思うんですけど、織野氏は宇宙は有限だと言っていると思うんです。だけど、別のところで、宇宙全体の原理について、「宇宙には特別な場所がない。」とは、「宇宙には中心がない。」「宇宙には果てがない。」ことを意味している、とも言っておられるんです。

これは、宇宙は無限に膨張しているが、無限であるがゆえに、内側という概念は、有限性を保持する、ということを言っているように思うんですけど、師匠、どうでしょうか。

無限に膨らんでいるフーセンの内側は、フーセンが破裂しない限り、内側は内側のままだから、有限は有限だって言えると思うんです。それに、このフーセンは、破裂しないんですね。なぜなら、宇宙には外側がないからです。

フーセンの中のハエは膨張して巨大なハエになり、フーセンがしぼめば小さなハエとして、フーセンの中で一生を終える。

安直ですが、この有限、無限は、師匠がよくおっしゃる可能無限とかの話しとつながりますか?


taatooさん、

①「内と外を隔てる区切りとしての果てがない」という話と
②「要素が限りなく無数にある」という話は、
別な話であるように思います。
「宇宙に中心がない」「宇宙に果てがない」は①の意味の話で、
「織野氏のいう宇宙は有限」は②の意味だと思います。

たとえば、二次元の宇宙があったとして、それをボールの表面(球面)状になっていると想像する。
これは、①の意味で、果てのない、中心も隅っこもない宇宙です。
そして、②の意味で、その面積が限られている有限の宇宙です。
そんな感じでしょうか。

でも、その違いは、僕の考えたいと思っている可能無限と実無限の違いとどうかかわるのかは、よくわかりません。

スクロールできる範囲(人によって違うかも)のはじめのほうの四方山さんとの対話で感じました。雑な表現をお許しください。

みゅうさん、

おっしゃっているのは
「科学的物理研究は自然を対象とした学問ですが、社会、精神、認識を対象とした社会科学、人文科学が学問として研究『されなければならない』と考えています。そこでは、哲学はもう不要であり、そのために現在、社会科学、人文科学の学問としての在り方が問われていると考えます(四方山さん)」
のところでしょうか?

ここでの四方山さんとの討論において、四方山さんは、科学的にどんな知識を得れるかという意味での「答え」を求めることだけが、世界を得るためには「されなければならない」というものだ。という話をされていたとおもいます。

それに対して、僕は、そのような「答え」を求めるのではなく、その答えが何を示すものなのかを問い続けることに意味はある。としていたとおもいます。

みゅうさんのご質問はそういう話なのでしょうか

最近、哲学そのものについて考えることがあり、ブラッシュアップのために、こちらに提題しご意見を頂きたいと思いましたが、題材がまずいと気づきました。全くぶしつけ、勝手で、失礼なことですが、お詫びしてお題を引き取らせていただきたいと思います。ご迷惑おかけしました。スマートなお題を準備して再度挑戦でよろしいでしょうか。

みゅうさん、

了解しました。
またいつでもお越し下さい。新しい題を楽しみにお待ちしています。

師匠 ありがとうございます。

なるほど、球体の話しは、とても分かり易いです。
球体って、2次元と3次元の融合、有限と無限の融合の説明のメタファーとして、とてもいいと思いました。

師匠の①と②の区別は、私もそう思います。
たぶん、私の言葉で言えば、①は容器で、②は中身です。
ただ、宇宙論は容器が無限に拡大しているという話しなんだと思います。
実はこの①と②は、三位一体説を二つの層に分けるアイデアのもとになるものです。

宇宙論を考えるときの「拡大」は、「時間」の概念によるものと思いますが、球体を考えるときの「曲面」、あるいは円を考えるときの「曲線」も、「時間」と関係しているように思いますが、師匠は、どう思われますか?

さて、平成が終わります。懲りずに、令和でもよろしくお願いします。令和は、無限のイメージと有限のマテリアルの融合によるダイバーシテイの時代になって、哲学オタクにとっても、もっと楽しい時代になればいいのにと思います。

taatooさん、

持続こそが時間の本質だとするベルクソンは、アインシュタインの時空論に対して、そのような固定的な時空の捉え方は正しいわけがないと批判したそうなんですが、

でも、アインシュタインの時空論は、それはそれで僕には非常に魅力的です。3次元空間に時間の1次元を加えた、4次元時空において、時空のゆがみが質量になり、そして、あらゆるものの局地的に物質は最短距離を運動するとすると、あらゆる質量に重力が働くことが説明できてしまうのは、ベルクソンの批判によって捨てるには惜しすぎる整合的な美しさがあります。

しかしそれでも、アインシュタインや科学の求める4次元時空理論だけでは、生の哲学が拓く世界描写には重ならないようにも思います。
なので、僕は、その二つが交差するところを、今後是非見てみたいと熱望しています。

(今日2019年4月30日は、当たり前ですが、平成の最初で最後の2019年4月30日で、明日2019年5月1日は、当たり前ですが、令和の最初で最後の2019年5月1日。みんなが皆、平成と令和の区切りでものを考えるのなら、僕はその区切りでものを考える必要はないかな?という気がしています。へそ曲がり者で何かすみません。)もちろん、これからもよろしくお願いします。


てすと

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師匠 こんばんわ

師匠らしいですね。でも、実は、私も同感です。でも、社交辞令も嫌いではないです。

アインシュタインの理論と生の哲学の違いのポイントが、垣間見えて、勉強になります。私は、温故知新的なので、どちらかと言えば、ニュートンやアリストテレスや神学が好きです。なので、師匠が、アインシュタインが捨てがたいというのは、なんとなくわかるように思います。また、また、稚拙な好み論で恐縮ですが。(-_-;)


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