フォト

ウェブページ

無料ブログはココログ

2019年10月 6日 (日)

人為的阻止と自然的阻止〈僕にも分かる「差異と反復」序論3〉

ドゥルーズ「差異と反復」序論「反復と差異」を読む。
(今日は文庫上p46~56)

 

阻止

内包によってどうやって外延を捉えるかそれが「阻止」の問題である。今日はドゥルーズによる「阻止」の「人為的阻止」と3つの「自然的阻止」について考える。

【阻止bloquer】概念の阻止。「規定としての述語に固有な性格は、概念において固定したままでありながら事物において他なるものに生成するということ」(「差異と反復」上p48)。
「ドゥルーズに直接伺ったところ、その語はstopper(止める)、freiner(ブレーキをかける)と言い換えることができる、との答えを得た。概念の内包を固定すること、凍結することだと理解して良いだろう」(「差異と反復」財津による訳注(序論37))。
概念の内包が複数の個物を外延として指示すること、また単に、内包が外延を指示すること(だと思われる)。

阻止の分類
阻止はまず「人為的阻止」と「自然的阻止」に大別され、そのうち「自然的阻止」が「名目的概念」と「自然の諸概念」と「自由の諸概念」の3つに分類される。

 

人為的阻止

【人為的阻止】論理的な阻止。概念の内包に対し外延を論理的に限定すること。しかし、論理的には内包の情報量は有限であるがゆえに、個別の外延のような無限の指示を必要とする対象を指示し尽くすことはできないとする。
「概念の内包に対するあらゆる論理的限定は、当の概念に、1より大きくそして権利上無限な外延を、与え、現存するいかなる個物もココトイマにおいてその概念に対応することはできないという意味での一般性を与える(内包と外延の反比例の規則)。…それゆえ概念における差異としての差異の原理は覚知に最大限の可能な戯れを許す」(同p48)

【内包と外延の反比例の規則】内包の情報量が大きければ大きいほど、それが指示する外延の範囲を狭め、内包の情報量が無限のとき外延はただ一つだけに決まる。


どんな語も、それが現実世界を記述する経験的な状況を説明する内容である限り、それがどんなに情報量の多い内包であろうと、それが示す外延を個物の一つの確定するものとして定めることはできない。ここにある「これ」を指示しようとして指で差して「これ」と言ったところで、そこにある唯一つの外延を、時間空間的にも統語論的にもどこからどこまでの範囲の対象として分析し確定的に判別するものとすることは「論理的」にはできない。
たとえば、隣に座っている人間を指さして「松本さんです」と紹介しても、そこには「松本さんって誰?」と聞き返されなければならないような「指示の不十分さ」は必ず残ってしまう。「お笑い芸人で、漫才師で、ダウンタウンの浜田の相方で、映画も作ってるし、IPPONグランプリのMCもしてるし、とにかく天才の松本人志で、だれだれの子でだれだれの夫で、どこで生まれ育って・・・」と言葉を継ぎたしていったところで、同じくそこには「それは誰?」と聞き返されなければならないような「指示の不十分さ」は必ず残ってしまう。「いや、ここにいるこの人」と言っても「その、『この人』っていったい何を指示してるの?」と聞き返される「余白」はどこまででも残る。たとえば「人間をコピーして瞬間転送する機械」を考えてみる。その「ここにいる松本人志」がコピーされ、たとえば地球と火星で複数の肉体をもってしまったとしたら、火星のその肉体がその「松本」という語で指示される外延の一つになるかどうかってことは、語の意味の想定を外れているがゆえに確定することができない。つまり、「論理的」にはどうやったって語の内包を、一つの外延として確定させることも、それを個物に届かせることもできないはずなのである。

 

自然的阻止

しかし、ドゥルーズは、論理的にはそうだとしても、現実的にはきちんと実際の「内包」で実在する「外延」を指示できてしまえているとする。それが自然的阻止である。

【自然的阻止】「現実存在に関する一つの先験的論理学あるいは一つの弁証論を指し示す」(同p49)
内包が無限でなくとも、現実的に外延が有限の複数の値やあるいはただ一つだけに確定されることもあり得るとする。ドゥルーズは自然的阻止には「名目的概念による阻止」「自然の諸概念による阻止」「自由の諸概念による阻止」の3つがあるとする。
Photo_20191006235001

第1の自然的阻止

自然的阻止の1つ目は「名目的概念」である。
【名目的概念による阻止】自然的阻止の一つ。有限な名目的概念の内包が、現実に離散的広がりでもってとびとびの値をもつゆえに外延を確定できること。「内包が有限であるような一定の契機において捉えられた概念に無理やり、空間と時間における一つの場所が(すなわち通常なら外延=1に対する現実存在が)指定される。どの類も種も内包を増大させることなく、ココトイマにおける現実存在へ移行する」(同p49)「『離散的広がり』…は思考における類似のレベルを構成しているのではなく、現実存在における一つの真の反復を形成する」(同p50)
【名目的概念】「本性上、語は、名目的でしかない定義の対象であるから」「語の持つ内包が必然的に有限である」(同p50)ような概念のこと。
【離散的広がりextension discrete】離散とはデータが連続せず飛び飛びであること。有限な内包から飛び飛びの外延が個別的に特定できる状態という意味。

内包の指示する対象が、自然的な状況において「離散的広がり」をもち、現状としてその値が飛び飛びなものにしかならないのであれば、内包の情報が有限であってもただ1つの外延を確定的に定めることはできそうである。ドゥルーズはエピクロス的原子を「拡散的広がり」の例に挙げている。実際に現代の物理学で量子力学においても、物質が存在するときにとる値が飛び飛びになることが確かめられている。そして、微小な物理的実在を指す場合だけでなく、「語と一体になっている語りと筆記がココトイマにおける現実存在を与える」(同p51)と言われるように、直示的な指示など、身体的な言語ゲームとつながっている語はその言語ゲームによって、外延の確定を為し得るとしている。「松本人志は誰かって?ほら、この人」と言って指さした場合に、(「論理的」にはその指示確定は不十分ものでしかないとも言えるが、)現実の日常生活上の言葉使いでは、その外延確定は十分に機能している。
それゆえ、名目的な概念による阻止では、有限な内包が外延を確定できるとされる。

 

第2の自然的阻止

2つ目は「自然の諸概念」である。
【自然の諸概念による阻止】精神が自然を観照し表象するときの諸概念は、自然がそれ自身疎外されたものであり、無際限(潜在的に無限)な内包しか持たないが、精神の側にある差異であるがゆえに記憶と習慣によって、新しいものであるような概念を形成し得る。

これについて、ドゥルーズはカントの世界モデルを考察している。カントは、論理的には外的な存在における個物を規定することはできず、概念が無際限なレベルの無限でしかないためにライプニッツの「不可識別者同一律」が不可能だとする。しかし、それでも、カントの「感性」と「悟性」の形式をもってすれば、無際限な無限な内包でも外延が規定できるようになることを示したのだ。

(用語確認)
【無際限indéfinie(潜在的無限virtuellement infinie)】どこまででも追求し深めることができる無限。しかし、それは潜在的に隠れているものをどこまでも掘り出し続けることができるというだけで、その無限のお終いまでに辿り着いてしまうことはない。可能無限。

まず、カントは外的な存在者について「種」と「類」でもってその個体までを規定することができないとした。
【種別化の法則】「種は一個の概念であり、様々な事物に共通するもののみを含む限り、十全的に規定されることはあり得ず、個体に関係づけられることもあり得ないのであって、理性は最下位の種自体そのものと見なされない。存在者の多様性は理由なくして減少させられてはならない」(カント「純粋理性批判」B684)
さらに
「カントにおいて、概念の無限の種別化は存在するが、そうした無限は潜在的(無際限的)でしかないゆえに、そこから不可識別者同一律の立場に有利な論拠を引き出すことはできない」(「差異と反復」序論原注7)
とした。
だから、カントにおいては、世界を記述する内包は、世界を外的なものとして捉えているままではどうやったって、それが外延に辿り着くことはあり得ない。

しかし、カントは、そこに「感性・悟性」という世界を主体の側のものにする装置をもってくることで、それを可能にした。
「無際限的でしかない種別化の能力を備えた諸概念と、非概念的で、純粋に時空的な、あるいは対立的な諸規定との相関関係を見事に指摘したのは、他ならぬカントである」(同p51)
「空間と時間はそれ自体反復の媒体なのであって、現実的な対立は(最大の差異でなく)最小の反復であり回帰し自己に呼応するだけの、二つのものに切り縮められた反復である。反復は、概念なき差異として現れ、無際限に連続する概念的差異から免れている」(同p52)


カントの「感性」によって、主体にわき起こる印象が時間と空間の中にある事象だとされる。そして、その時空の中に配列されたそれらの事象どもは、そこに配列されてしまえばもはや、悟性によって分節化されなくても、反復するものとして、その事象自体が現存する固有な存在を示し得ることになる。それは「概念のない差異」として、自然そのものとして捉えるという意味である。
ここは、とてもややこしいのだけど、カントの世界モデルにおいては、感性でもって世界を時空間として捉えることを、カントは概念的な把握だとはしていない。それは、主体が主体の印象でもって自然を捉えているのだけれども、人間の概念に惑わされない自然のそのままの姿としてそこにあると捉えられているものである。それが、悟性のレベルの分析になるとき、それらが概念的に何であるかが分節化され判別できるものになる。それは、語の内包によって無際限にどこまでも分析され続けることが可能で、しかも概念的にはその無限を終えることはできず、それゆえ概念的には外延の個物に到達することはできない。
しかし、まだ、感性の段階だけであれば、そこには概念的な分析は不要であり、だからこそ「概念なき差異」がそのまま反復されることが可能になり、その意味で個物に到達する。
そしてさらに、このシステムは、自然が自然そのものではなく、そのように自然の外部の主体による観照観察表象でもって成立するしかないとするので、その自然自身に対立し「疎外された概念」として捉えられることになる。それによって、反復は、精神の側で、その記憶と習慣によって様々な概念を形成することができることになる。
つまり、「自然の諸概念による阻止」とは、主体のなす感性によって「概念なき差異」として、さらに主体のなす悟性によって「疎外された概念」として、可能無限でしかない内包でもって、自然の諸概念が指示する外延を捉えられることができるようになることだと言えるだろう。

 

第3の自然的阻止

3つ目は「自由の諸概念」である。
これはフロイトの精神分析のアイデアを持ってきて、無限な内包というものを考えようする捉え方である。
フロイトにおいて「反復」とは精神分析用語の「反復強迫」のことで、幼児期の外傷体験を無意識的行動で反復することだから、必ずしもドゥルーズの問うべき「反復」ではないような気もするが、ドゥルーズは、それを強固につなげて考える。
【自由の概念による阻止】無意識的な意識も含めて自然を認識するときに、無意識の側が即自的に無限の内包の存在を包含し、意識の側の自由な能力がそれを《私》に関係させることにより、抑圧されていた無限な世界を自由な概念によって、外延として捉え得るようにすることができるということ。

「意識は表象と《私》の間に「私は一つの表象をもっている」という表現に現れる関係よりもより深い関係を打ち立てる。つまり意識は表象を、自由な能力である限りの《私》に関係させるのであって、この自由な能力はその所産のいずれにも閉じ込められてしまうことはなく、どの所産も、その能力によっては過去として、すなわち内感において規定された変化の機会としてすでに思考され、再認されている。」(同p53)
(用語確認)
【徹底操作・ワークスルー】「解釈によってクライエントが洞察を得た後にも反復して現れる抵抗に対して、解釈と洞察を徹底的に繰り返し、体験的確信に至るまで分析内容を深化させる方法です。クライエントの自己分析が主体で永続的な変化をもたらすことを目的とします」(「心理学用語」のサイトページより)(最近の心理用語としては「徹底操作」という訳語では主体が治療者だとする誤解を与えるとして「ワークスルー」とされることが多いらしい。)
Freud_20191006235601 ジークムント・フロイト1856–1939

フロイトの精神分析においては、「追憶」は無限な内包を即自的に包含しているのであるが、それは無意識的なものであり、それが対自的な意識として「想起」され「再認」され「徹底操作・ワークスルー」されることによってそれを「自由な能力」で処理できるものになる。
無意識においては、概念化されない反復として、無限の追想を表象がすでに現れている。ただし、それは無意識に「抑圧」され「抵抗」され「強迫反復」としての反復になってしまう。それゆえ、それを意識に上らせることができるようにし、自身に対する主体として自由に自己を捉え認識できるものにすることで「反復」しなくても良いようにする。そのなかで、人は、抑圧された無限の概念を自分のものとすることができるようになる。ただし、その認識においては、無意識のレベルの反復と意識のレベルの表象とは、互いにもつれ合い対決しあうのであるが、それらは、どこまでも別のレベルのものとして世界を構成することになる。

その2つのレベルの関係を、ドゥルーズは「反復の悲劇」と「反復の喜劇」になぞらえる。
「反復は二度現れる、一度は悲劇的運命のなかで、もう一度は喜劇的特徴の中で…演劇において、主人公が反復をなすのは、まさに彼がある無限な本質知から隔てられているからである」(同p55)
演劇において、演者の演じる内容は、即自的にはどんな喜劇も悲劇であり、対自的にはどんな悲劇も喜劇になる。
たとえば、松竹新喜劇のすっちーと吉田裕との「乳首ドリル」というネタがある。舞台上で対立関係にある二人が何度も何度も乳首に棒を当てて反復してドリルするというパターンギャグである。これは、演者にとっても観客にとってもその「ドリル」が何度も反復されることを知っているから「オモシロ喜劇」として成り立つ。けれども、その演者が劇を演じているのではなく、台本のない唯一の新しい人生をただ一度きり生きているだけであり、そのドリルが繰り返されることを知らないで、その出来事が次々と起こるのを体験するなら、それはびっくりな恐怖であろうし、まさしく悲劇であろう。
つまり、その世界を生きている主体にとって、同じ一つの出来事であっても、その出来事が即自的で、理解を超えるびっくりな世界との出会いであるとする「反復の悲劇」の側面と、その出来事が対自的で、理解可能なものとして世界を受け止める「反復の喜劇」の側面との両面がある、ということだ。
それは、無意識のレベルで無限に豊かな反復としての世界を出会いながら、意識レベルで理解可能なものとして世界を生きるということだとも言えるだろう。
その二つのレベルが絡まり合って、人の生を織りなすことで、抑圧された無限なものが自由の諸概念になり得ることになる、というのが「自由の概念による阻止」だと言えるだろう。

このように、ドゥルーズは「阻止」を4つの仕方で分析した。
しかし、外延の届かないとした「人為的阻止」だけでなく、外延に届くとした「自然的阻止」も「同一性」の呪縛からは逃れられてはおらず、それらはどれも個物に到達することに無理があるとする。その点については次節で見ていく。

 

つづく

«反復が科学法則でも道徳法則でも扱えないわけ〈僕にも分かる「差異と反復」序論2〉