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2018年9月18日 (火)

「隣室の机は行ったら分かる」とはどういうことか<思弁的実在論はどこまで有意味か13>

ここまでメイヤスーの考察をいろいろな方面から見てきたが、再度全体を振り返って一応のまとめとしたい。

メイヤスーが「有限性の後で」で主張したことは一言でまとめると、結局、「偶然性の必然ゆえに即自は到達不可能。でも事実論性にもとづくならその《全き他者》に対して「可能性」が開かれる。つまり、実験仮説の手法は目撃から独立な内容を語ることを担保し『隣室の机の有無は隣室に行けば分かる』という他者性を担保した言明を有意味にできる」とすることができるだろう。
はじめは「祖先以前的言明」という問題として掲げられた「全き他者」の問題は、本の後半では「隔時的言明」の問題として捉え直されている。それは単に時制的な他者性の問題にとどまるものでなく、クオリア問題を含めたさらに多彩な他者問題にも関わってくると考えることができるだろう。

今現在のこの世界に存在者がどう存在しているか、をどうやったら知り得るかというとそれは、次のようなことであろう。
つまり、主体は世界の中に物質的経験的に位置づけられることでのみ超越論的目撃者になり得る。そのとき、超越論的主観は有限な対象として局所化されねばならず、そのためには物質的経験的な身体としての受肉が条件になる。この超越論的主体が某かの物質的身体を持つことは経験的なことでなければならない。ただし、この超越論的主体が物質的経験的身体を持たなければならないという条件は、超越論的形式であり非経験的条件である。
「世界がどんなである」とか「世界がある」とかいう言明を有意味にするのは、私が私の身体でもって世界にどう接し得たかという経験的知識によってだということ。世界の中に存在する「私の身体という感覚器」と「私の身体という運動器」があることによって、超越論的な主体が世界の様子を知ることができ、世界に対して働き得ることができるようになる。私の身体が「赤色」を見たことでもって「赤色」に一つの意味を与え、私の身体の指先が「5㎝」動いたことでもって「5㎝」に一つの意味を与える。さらに、私の身体が「赤色」を見るだろうという話を有意味にし、私の身体が「5㎝」動き得るだろうという話を有意味にすることでもって、未経験の範囲にまで世界を拡張させ得るようになる。
この方法によって、「そこに目撃者が存在しない、祖先以前の40億年前の地球に関する言明」も有意味に語れるようになる。つまり、40億年前の地球に私の身体があったとすればどう感じどう行動し得るかを実験的仮説的に考えることでもって、その言明はナンセンスなんかではなくって確かに有意味になる。

しかし、そのやり方って、単なる「後方投射」ではないのか?

40億年前に私の身体が「あったとしたら」などという考察はそのまんま「後方投射」であるように思える。しかし、そこがちょっと違うのだ。そしてそのちょっとの違いがじつは物凄い違いなのだ。
何が違うかというと「隣室の机の有無について隣室に行けば分かる」という話をアリにしてしまうのだ。
例えば(典型的な相関主義者に当てはまるであろう)前期ダメットは、「隣室に入ればテーブルのセンスデータを得るだろう」という解釈はダメだと言った。「現に得ているセンスデータから隣室にテーブルのあることが推論できる」は大丈夫だけど、「隣室に入ればテーブルのセンスデータを得るだろう」としてしまっては神の視点による「本当」の答えがあるとしてしまうことになり、その答えを形而上学的なものに求めていることになると言って否定した。
また例えばウィトゲンシュタインは「論考」で自身の論考を独我論だとしているが、その独我論は「私以外の人間には心が無い」というタイプの独我論ではなく、「私の観念以外の存在者など無い」というタイプの独我論でもなく、「私が把握可能な内容の外側に本当の世界があるとするような『本当』など無い」というタイプの独我論であった。そのような独我論は或る意味で実在論とぴったりと重なるものになり、「5.64ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実在が残される」(「論考」)とする。つまり、ここで考えられているのは後方投射として「私の把握できる世界の正当性だけが世界の実在そのものであり、その私の判断できる正当性を超える「神の視点」の「本当」などというものを認めない」とする立場である。
この前期ダメットやウィトゲンシュタインの考えでは「隣室の机の有無について、そこに私の身体が行ったとしたらどう感じるか」という課題を後方投射として捉え、その真理性はその推論の正当性のみに委ねられるとする。しかし、メイヤスーの求める真理性は、そのような正当性としての真理性だけでは満足しない。そこで求められているのは、「実際には私は隣室に行ってないけど仮に行ったとしたら」という「正当性探求のための反実仮想」としての「行ったら分かる」ではなく、「実際には行ってないのだけど、実際に行ったらその場で実物として真に分かる」という「現実的かつ形而上学的真理に到達するための反実仮想」としての「行ったら分かる」ではないだろうか。それは、隣室に行ったらそこにある机を現実現在の存在としていわゆるクオリアまで含めて「こうである」と言えるような現実的な現在性。言語や数学的分析はクオリアを切り捨ててしまいクオリアを掬い取れないという風なことが、よく言われるのだけれども、メイヤスーは数学的認識でクオリアが失われると考えるのは相関主義がだまされた「幻」だとする。メイヤスーが求めるのはそのクオリアまで感じ得る現在性現実性を掬い取れる水準での、「隣室の机は隣室へ行ったら分かる」なのだ。それは神の視点の「本当」があることを認めてしまうことなのかもしれない。後方投射とすごく似ているのだけど、まるっきり違うのだ。

でも、メイヤスーの哲学は決して手放しでの形而上学的な神の視点を良しとしない。それが、メイヤスー自身が自らの立場を「実在論」とせず「唯物論」とする理由なのだろう。メイヤスーが説いている「事実論性」は、世界が偶然でしかないことが必然であるとするものなのだから、隣室の机の「本当」に私が今この室にいながら到達することは決してできないはずだ。私が今この室で発言する内容が隣室の「本当」を言い得てしまうという可能性はまるで無いのだ。だから、無根拠に神を持ち出してきてその「本当」について言及しようとしても何の価値も無いでっち上げにしかならないし、それはまさにナンセンスでしかないとする点では相関主義と変わらないのだ。だから、その到達できないはずの「本当の隣室の机がどんな○○である」は決して有意味にはならないのだが、しかし、その到達できないはずの「本当の隣室の机はどんな○○であるかは行ったら分かる」は有意味に言えるとするのである。その点で「本当の隣室の机」は相関主義の言うようなまるで語り得ないものではなく、はっきりと語り得る事柄を有するものなのである。

メイヤスーの思弁的唯物論は、相関主義が語り得ないとしていた、隣室の机の実在性も、3分後の自分が現在化することも、他者のクオリアに対しても、(それらに対して今ここから完全に確定的に真実を言い当てることはできないとしても)それらについてそこに実際に目撃者が出向いたら目撃するはずの実在的真実があり、その実在的真実に向き合とための武器として「近代科学の根本原理」(実験仮説の手法は目撃から独立な内容を語ることを担保する)をもってくることによって、『隣室の机の有無は隣室に行けば分かる』などの他者性を担保した話を語ろうとすることを有意味なものにすることができるのだ。

相関主義というのはそもそも、私の生、私が生きていることそのものを世界の基盤とするものなのだから、生の哲学そのもののはずである。ところがウィトゲンシュタインや前期ダメットの相関主義では「実際に隣室に行ったら分かる」という発言が、「この室で『実際に隣室に行ったら分かる』と発言しているそのままの状態で、その正当性をどこまで求められるか」ということだけをその真理性の基準としてしまった。だから、現実の現在の問題として実際に隣室に行ったら分かるという話は、言語化不可能なものとして不可知の領域に押し出してしまっていたのかもしれない。でも、それでは私は3分後にできあがるカップ麺を現実に現在の問題として味わうことができない。そのような問いしかできないのであれば、私は生きていることを真に問うことができない。その意味で、相関主義は十分な生の哲学ではなかったと言わねばならないのかもしれない。
その生の哲学を再生させ得るのがメイヤスーの視点なのかもしれない。

そのようなわけで、僕はメイヤスーの哲学が相関主義と一つになって、今後の哲学の主流になるように思えてならない。
メイヤスーの思索はこのように見ていくとまるで当たり前の話ばかりで、面白くも何ともないようにも見えるのだけど、その内容をよく考えてみると、まだまだ、謎が多く残されていて、哲学の新しく切り拓くべき原野を見せてくれたものであるように思われて、僕にはずいぶんと魅力的だった。

長々とした話になってしまったけど、ここで、メイヤスーについてはいったん締めくくりたいと思う。

さて、おそらくメイヤスーの思索と同様の考え方から、後期ダメットは「隣室に行けば分かる」という視点を受けいれそれまで「反実在論」としていた自分の立場を「正当性主義」と言い換えている。そうなってくるとダメットの哲学とメイヤスーの哲学はかなり近いものになったと言って良いだろう。それでも、その「正当性主義」は断固として思弁主義よりも相関主義に足場を置きながらその問題を考えてるので、これもかなり興味深い。次節からは、ダメットの方に話を向けてみたい。
(なかなかドゥルーズに行けない)

つづく

思弁的実在論はどこまで有意味か

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