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2021年6月 6日 (日)

ベネターの語る「生まれてこないほうが良かった」が語り得ないわけ

「0」としての無さと「null」としての無さを手掛かりに反出生主義の主張の有意味性の射程を考察する。

ベネター著「生まれてこないほうが良かった」で、子は生まれないことによって苦しむことがなくなり得るとされている。今日は、この点についてベネターの論のナンセンス性を疑ってみたい。

ベネターの説く反出生主義論においては、生まれる子の快と苦には非対称があって、子が生まれないことで苦を失うことは良いことであるけれども、生まれないことで快を剥奪されることは悪くないと言えるとされる。この点について、その言明がどのような意味を持ち得るのかを検討し、その文が実は語り得ないものなのではないかと懐疑してみる。

ベネターは次の4つの文を挙げて存在することの害と益について考え、そこに非対称性があるとする。
「 (1)苦痛の存在しているのは悪い
  (2)快楽の存在しているのは良い
  (3)苦痛が存在していないことは良い。それは、たとえその良さを享受している人がいなくとも良い
  (4)快楽が存在していないことは、こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人がいない場合に限り、悪くない 」(ベネター同著邦訳p39)

簡単のために、ここで言う「苦」はすべて悪であり「快」は善であるとしておく。そうすると(1)と(2)は設定そのままの話なので、当然成り立つ。問題は(3)と(4)である。
(3)については

「苦痛が存在していることは(苦痛を被っている人にとって)悪いことだろうし(苦痛が存在しないことを享受する人が誰もいないとしても)その苦痛が存在していないことは良いことだから」同p41

とベネターは言う。苦が無いことは、すでに生まれてその苦が感じないでいる子供にとってももちろん良いことであるだけでなく、その苦を感じる子が生まれないままであることも、その苦がある可能性自体が無いのだから良いことだとするのだ。
一方(4)については

「(喜びを奪われる人が誰一人として存在していないだろうという場合は)そうした喜びが存在していなくてもその人たちにとって悪いわけではない」同p41

とする。快を剥奪される人がいるのならその人にとって有るはずの快を失うことは悪いことになり得るが、その人本人がいないのならその剥奪を悪いとすること自体の意味が失われるので悪であること自体が無くなる、と言うのだ。
どうだろうか。説得力のある話だと思えるだろうか。僕がこれまでに話をした何人かの反出生主義支持の人によるとベネターのこの論は正当に理解できるととてもきちんとした論理的な話だという。子が生まれないことによって快が無くなることは、生まれなかったそのことによってその損失を被る本人がいないのだから、悪とまで言えるものではないことになるとして、けれど、生まれないことによって苦が無くなることは、世界の中からその生まれなかった子の分の苦が存在しなくなるのであり、生まれて苦しむはずの子を存在させないことによって結果的に救うことになると言うのだ。
しかし、僕にはこれがどうしても説得力のある話だとは思えない。(3)において「苦がなくなる」ということが「誰にとっての苦」なのか、「不在の人にとっての苦」とは何なのかをあやふやにしてしまったための誤謬だと思われるのだ。

そこで、この(3)の「生まれないことによって苦が無くなる」ということの意味について考察し、その誤謬を明らかにすることに挑戦する。挑戦するのは次の主張である。
○ベネターの主張における「苦の無さ」とは決して「0」としての無さなのではなく、何の値でも無い「null」でしかないものであること。そして、「null」でしかない「無さ」でしかないがゆえに、それが「良い」と言えるようなものでは無いこと、である。


無い車の速度は0か

世界中に60億いる人間がそれぞれに苦を抱えている。簡単のためにその一人一人がみんな苦しみ度「1」の苦を抱えているとしよう。すると世界中の苦の総量が苦しみ度「60億」になる。そこで、世界中の人間を順に消失させていきその数をどんどん減らしていくと、その苦の総量もどんどん減っていくだろう。そして、人類最後の一人が消えるときその瞬間に人間のあらゆる苦も無くなることになる。しかし、そこで誰が救われるのだろうか。そこで消失している苦は、その消失によって誰かが救われるような苦では「ない」のではないだろうか。そこで救われる人がいないのだとしたら、ベネターの言う「(苦痛が存在しないことを享受する人が誰もいないとしても)その苦痛が存在していないことは良いこと」は、いったい誰にとって良いことなのか。
ここで、ある超巨大車とある超小型車を考えてみよう。そして、その車の重量を人の数に対応するものとしてみよう。巨大な車が大国の人民たちで、極小な車が少人数グループの比喩だと考えるのだ。そしてまた、簡単のために、世界中の人々がみんな同じだけの苦しみを持っていると想定するとして、その「一人一人が持っている苦」の比喩として、車がどれも同じ「速度」で進んでいると想定する。
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さてそうすると、ベネターが、子が一人生まれないことで世界の苦がその一人分減るからそれは良いことだと考えるのは、この比喩において、重量と速度の積であるところの「運動量」に当たるものになるだろう。世界中の車がどんどん減っていき、その重量をどんどん軽くして小さくしていったら、その重量が速度とともに無くなっていくことになるので、「運動量」としての苦の総量も減ることになる。しかし、そこでは、いくら運動量が減ったとしても、「速度」はどの車のどの部分においても決して減っていないのだ。本来、速度を落として、つまり一人一人の苦を減らすことによって人が苦から救われるから、「苦の消失は良いこと」とされるはずではないか。しかし速度を落とさずに車を少なくしていって重量を減らして、つまり人口を減らすことによって「運動量」を減らして、苦の総量を減らしても、そこではつねに同時に救われるべき人までが失われるのだから、結局誰も救われることの無いような、苦からの救出とは何の関係もない出来事が起こっているに過ぎない。たとえば多くの車が全て10km/hで走っているとして、そこから車の量を順に減らしていくとする。するとそれに応じて順に「運動量」は減少し、最後の1台を無くしたときそこには「運動量0」の状態が残ることになる。つまり人口を減らすとその総量の苦は0になるのだ。けれども、車を順に減らしていっても、走っているどの車いつまでも10km/hのままでスピードが落ちるわけではない。順に車を減らしていき最後の一台もがそのまま「速度10km/h」で走っている。その最後の一台をさらに小さくしていっても、その最後の一分子まで「速度10km/h」にままである。なのに、その分子を消失させた途端に「速度0km/h」になるだろうか。そんなわけはないだろう。車が無くなっても「速度」は決して0にはならないのだ。つまり人類の最後の一人がいなくなったとき「苦の総量」は0になるのだろうけれども、「一人一人の苦」は決して0にならないのだ。世界中の人がいなくなってもそこで自分の苦を減らすことができる人は一人もおらず誰も救われないのだ。
だから、つまり子が生まれないことで世界の苦の総量が減ったとしても、それは救われるべき者そのものをなくしただけなので、そこでその子が救われることはあり得ないのだ。そこで、誰かが救われていると感じたとしてもそれは勘違いでしかないのじゃないか。


では死んでも楽にならないのか?

でも、人が不在になることで誰も救われないというのが本当なら「苦しんでいる人が、死んだら楽になる」というのもあり得ないことになってしまうのじゃないか。それって変じゃないか?「死んだら楽に『成る』」とまでは言えなくても、少なくとも「死んだら苦があり続けることが無いようになる」とは言えるだろうから、その意味では不在によって救いになることもあり得るはずじゃないか?
しかし、そうではないのだ。確かに、その死を「私が無い状態であること」を差すものでしかないものとするなら、そこには「苦は苦しみ度の0の状態がある」とすることになるので、私が救われると考えることは可能である。しかしそれは「私が無くなることによって〈現に生きてあるこの私にとっての苦〉が0になる」という意味でしか無い。それは決して〈存在しない私にとっての苦〉ではあり得ない。それはまさしくナンセンスでしかないのだから「〈存在しない私にとっての苦〉があり続けることが無いようになる」などという文もナンセンスでしかないのだ。。


無い物差しは何m?

不在が0ではないということについて、また一つ比喩でもって考えてみよう。
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ある1mの物差しを短くしていくと長さ0mになって物差しが消失したと想定するとき、そこで不在となった物差しの長さを0mとして想定することはできるかもしれない。しかしそれは「無い物差しの長さがいつでも0m」だと言えるとするものではない。例えばその物差しを長さ1mのまま細くしていって消失させたと想定すると、長さは1mのままであることになるはずだからである。つまり、不在のものが何らかの値を持つと想定しようとしても、それが不在であることによって一意的に値が決まることはあり得ないのである。たとえそれが「0」値であっても不在が(何の前提も無いままに)値を持つことはあり得ないのだ。
そう考えると、不在の子の苦を一意的に「0」だと考えることはできないのだ。そしてそれゆえ生まれない子が生まれないことで苦から救われると考える推論にはそこに誤謬があるのだ。


無いものの質量は0と言えるか

しかしそれでも、確かに生まれない子は、生まれないことで現に苦しむ可能性自体を失っているのだから、苦があるか無いかという区別の次元よりももっと根源的な次元で「無い」のだから、苦の有無の次元ではナンセンスになっているように見えても、より根源的次元で結局、生まれない子を救えているとも言えるのじゃないのか?そのように「苦」の捉え方によっては「不在」でもってその「不在の子」を救うことができるように考えることも可能じゃないのか? 例えば、さっきの速度の話では「速度」を「苦しみ度合い」の比喩としたので不在によって苦から救われることがないという話になったが、存在物の存在する量としての「質量」を「苦」を差すものとして考えるとしたら、その「存在者そのものの不在」はそのまま「苦の不在」に直結することができてしまうので、車が減れば減るだけ質量が減るように、人が減るだけその苦も減ると考えられるのじゃないか。と疑いたくなる。
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ああしかし、それでも、不在でもってそれを享受する人がいなくなるときにその不在の子供にとっての苦痛の存在について語ろうとする限りは、「(苦痛が存在しないことを享受する人が誰もいないとしても)その苦痛が存在していないことは良い」と言うことはできないのだ。
なぜなら、「その人にとっての苦の有無」と「その人の存在の有無」とは、まったく次元の異なる話であるが、単に次元が違うというだけでなく、「その人の存在」無くしては、「その人の苦の有無」自体がナンセンスになってしまうような根源的な次元の違いがあるからである。


値としての「0」と値無しとしての「null」

「その人の存在」があれば、そこに「苦の有無」は有意味になる。そのとき「苦の有無」は「1」か「0」かで表し得る。そして「その人の存在」があるときに限って「苦の有無」は「1」か「0」かの値を持ち得る有意味なものになる。だから「その人の存在」が無いときは「苦の有無」は「苦」が無いだけでなく「有」でもなく、その値そのものの無い「null」でしかないものになる。
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例えば、Excelなどでの表計算で、数値入力が無く「null」でしかないセルが「#VALUE」を出力したときに、出力が「1」では無いからと言って「#VALUE」が「1」より「小さい」とか「マシだ」とか言うことはできない。

つまり、それゆえ、〈「その人の存在」が無いことによって「苦の有無」が無いのだから、苦の有無の可能性そのものがなくなって、結果的に「苦が有る」を回避できることになる〉とは決して言えないことになるのだ。「その人の存在」が無くなって「苦の可能性そのもの」が無くなるのであれば、その無さは決して「苦が有る」の否定にはなり得ず「苦が有る」を回避できることもあり得ない者でしか無いはずなのだ。もっと言えばその子が生まれないときの「苦の無さ」はその子にとっては、「世界そのものが無い」のと変わらないはずのものだから、そんなもの「苦の回避」のような存在世界の話とはまるで関係の無いところの話にならねばならないはずだろう。

 

 

だから、(ここが重要なのだが)〈生まれて「苦がある」ことは「悪」であり、生まれない時の「null」は「悪でさえない」から、「悪」と「悪でさえない」との比較において、相対的結果的に「null」の方が「より良い」〉と考えるのは間違いである。なぜなら、「苦がある」は「1・ある」と「0・無い」との対比によってはじめて意味をもつものであるからだ。「苦がある」が「null」との対比においてしか捉えられないのであればもはや「苦がある」の意味を持ち得ないからだ。だからそれは「悪」と言えないものであることになり、それゆえ当然「null」が相対的結果的に「より良い」と言えるはずがないことになるのだ。

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「質量」が「苦」の比喩にならないわけ

だから、もし「苦」を「質量」で持って比喩しようとするときに、「その人の存在の有無」はその質量の有無を可能にするようなより根源的な存在の有無を意味することになるはずなので、その「その人の存在の有無」は例えば「世界を映す画面の中の「石の質量」を映しているその画面そのものの有無」でもって比喩されることになるだろう。画面が消えたときに画面が消えたことによって、その画像内の石の重さが0になったり軽くなったりすることは文法的にあり得ないはずのものなのだ。
だから、ベネターがいくら「(苦痛が存在しないことを享受する人が誰もいないとしても)その苦痛が存在していないことは良いこと」と主張したとしても、その言明は、某かの恣意的な前提を敷かないままでは「人の不在が存在しない人にとっても苦が無いものである」ことを主張するものではあり得ないのだ。ベネターがこれを主張するには、例えば、「霊界に生まれない子供の国が有る」などとして、某かの「不在の状態が『存在』する」とするような前提を敷いて不在の人にとっての苦の有無を有意味にするような恣意的な設定をしなければならないのだ。


快苦が対称であらねばならないわけ

しかし、仮に、ベネターがそのような恣意的な設定をするとして、それによって不在の人にとっての苦の有無を有意味にした として、生まれない子が救われ得たとする話をするとしても、そのときには今度は、その恣意的な設定によって、生まれない子が生まれなかったことによって失った快の損失が問われ得ることになってしまう。だから、どっちにしても、ベネターの言う快苦の非対称の話は成立しない。ベネターが「生まれない子が生まれないことは、その子が生まれて苦を得るよりも良い」と語った話は言語論的な射程から外れた語り得ないことを語ろうとしてしまったナンセンスだったのだ。

 

 

以上が、僕の、ベネターの語る「生まれてこないほうが良かった」が語り得ないとする考察である。どうだろう。伝わるものになっただろうか。僕にはこの自分の考察が自画自賛的にまずまず明らかな推論になったと思えているのだけれど、人に伝わるものになったかどうかは、とても心許ないので、また様々なご意見をいただけるとありがたい。

また、僕はすべての反出生主義に反対するものではなく、単にベネターの論理に傷があることをはっきりさせたいという思いで書いたものであるので、その点についても了解されたい。

 

僕のアンチナタリズム批判の3論点

「苦の有無の可能性そのものが無いこと」は「苦が無いこと」ではない

アニマルライツと反出生主義から倫理を考える

«僕の反反出生主義)「苦の有無の可能性そのものが無いこと」は「苦が無いこと」ではない