フォト
無料ブログはココログ

2019年2月17日 (日)

ドゥルーズが「存在の一義性」を説くわけ<「差異と反復」を読む1-3>

ドゥルーズ「差異と反復」第一章「それ自身における差異」を読む。

ドゥルーズがアリストテレスの「存在の一義性批判」をなぞっていって結局、論駁してしまう論説について、考える

いよいよ、「差異と反復」の読みに入る。ドゥルーズはこの書で「存在そのもの」について自ら問い深めていくのだが、まず、第1章では、アリストテレスの問いを振り返りながら、スコトゥスやスピノザやニーチェなどの考えも絡ませて、存在そのものを差異として捉えて問いを進める。
アリストテレスによれば《存在》は一義であってはならないのだけど、ドゥルーズはそのアリストテレスの考察を辿ることによって、《存在》は一義でなければならないという全く逆の結論に至る。今日はそれを見ていく。

〔まあ、とにかく読みにくい書だけれど、読みの正確さよりも、自分なりに理解できたことをきちんと(出来れば「高校生にでもわかる」ように。そんなこと無理だろうけど、意気込みとしては「高校生にもわかるぐらい平易」に)、記していきたいと思っている。そのため、正確さは置き去りにする部分もあると思う。間違いばかりのこのブログだけど、この「差異と反復」については特に眉唾で読んでもらいたい。〕

 
「差異と暗い背景」

何かが存在するとはどういうことか?「在る」と「無い」とは何が違うのか?それは「差異がある」か「差異が無い」かの違いなのか?とドゥルーズは問い、「差異」こそが「現前と明確さの唯一の契機」だとした。
「差異がない」と言うのには二通りあると考えられる。一方は「全くの無差異」で、世界の側が均質で一様でどの部分も異なるところがない場合。もう一方は「一切が溶け込んでいる未異化未分化の深淵」、「つながりのない規定がバラバラになった肢体のように漂っていて」、世界を見る側が世界を分節する以前の状態。分節させることができるような目をもっていれば異なったものと見えるはずだが、分節させることができる目をもたず未分化のまま一様ではない所を見出だすことができないために「何かがある」と言えるものを見つけられない、というような差異の無さ。この二つはまるで異なり、後者の方は「見かけだけの無さ」に思われるかもしれない。しかし決してそんなことはなく、どちらも劣らずに無差異的・「差異がない」状況なのだ。では「在る」と「無い」との違いは何か?
それは、〈「存在する」とは「そこに差異があること」そのこと自体だ〉ということだとドゥルーズは考える。つまり、
「× もともと最初に(時間的な「最初」ということではなく、論理構成上の基盤として)、何か存在者がはじめに在って、その後に、それによって何も無いところと何かが在るところに違いが生じる」というところに答えがあるのではなく、
「○ 先ず『某かの差異がある』と認識されるからこそ、それによってそこに何かが存在することになる」ということではないかと、疑うのだ。
そしてさらに、ドゥルーズは、
「思考とは、そこにおいて規定作用が未規定なものとの一方的で明確な関係を維持することによってはじめて一つの規定へと作り上げられる、当の契機」(「差異と反復」文庫上p90)
とし、「思考は差異を『つくる』」(同)とする。そして、「規定されるものが未規定なものと本質的な関係を維持する点」「ルドンのキアロスクーロで育まれる抽象的で厳密な線」が規定作用そのものであり、差異はその「罪」をもつだけの「怪物」だとする。

(ルドンは19世紀のフランスの画家で幻想的な版画が奇妙に魅力的。キアロスクーロは明暗を強調する表現技法。版画で白黒つけることによって、差異が生まれる、ということ。)
Redon_2ルドン「眼=気球」

それは、思考が差異を生み、思考が存在を生むとするものだ。まるで、独我論的観念論を説いているようにも思える言いぶりである。しかし、ドゥルーズの考察は決して独我論や観念論を良しとするものではなく、どこまでも実在と思考される概念の一致を問い続ける。そして、さらに、ここでドゥルーズが問うのは、単にその存在を内在的なものか外在的なものかを問うだけのものではなく、如何にして差異の発生が可能になるのかという点に注目する。それを問うには、世界に存在する存在者を前提してしまってはダメだとする。なぜなら、世界にキアロスクーロの線を引いて存在者を取り出そうとしても、その線は、線の内側を浮かび上がらせるとともに、線の外側も浮かび上がらせてしまう。それゆえ背景は暗く静まっているだけのものではない。図と背景の違いが世界の側にもともと備わっているはずもなく、ただただ虚無的にそこにあるだけのもののはずだ。それでは、そのような呪われた状態から、そこに存在を規定するのは何なのか?ドゥルーズはそこのところを執拗に問う。

 
「表象の4つのアスペクト」

そこで、ドゥルーズは、〈「差異」こそに世界を構成する規定作用があるのではないか〉と考える。そして、その考察の意義を確かめるためにギリシャ哲学から、世界を構成する「理由」となるような「表象=再現前化」の4つの要素を持ってくる。
(カントにおいての「表象représentation」は、直観としての「個別的表象」と概念としての「普遍的表象すなわち反省的表象」の両義があるが、ドゥルーズにおいての「表象représentation」は多くで「無意味で虚無的な現前」ではなく「概念化され有意味になった世界としての現前」としての「表象」(普遍的表象すなわち反省的表象)である。そのためつねに「再現前化」としての意味合いを絡ませるものとして語られるので、財津訳では「表象=再現前化」とされている。)

世界の理由となるような表象の4要素
①「未規定な概念の形式における同一性」
②「規定可能な諸概念間の関係における類比」
③「概念内部の諸規定の関係における対立」
④「概念それ自身の規定された対象における類似」

【同一性】他のものから対立区分されていることで変わらずに等しくある個の性質。(wiki)
あるものがあるものとして存立しあるいは同定identifyされるとき,そのものは同一性をもつという。同一性は,したがって,一面,あるものがあるものと異なったものでないことをいうものとして,差異differenceないし差異性と対立し,他面,あるものがあるものと異なったものになることがないことをいうものとして,変化と対立する。ここで,同一性―差異,同一性(恒常性)―変化という2組の対立概念は,いずれも,一方を欠いては他方の規定が困難になるような種類のものである。 (世界百科事典)
哲学上最も基本的な概念の一つ。差異性の対概念。Aが異なった状況においても常に同じものであり,同じものとして認められるとき,A は自己自身と同一である。このとき A=A において同一性が成立しているという。 A=A で表わされる同一律とは,いかなる概念も一連の思考過程においては厳密に同義であることを要求する論理学的原理であり,換言すればある判断において使用された概念的表象が不変の意義を維持することについての要求といえる。(ブリタニカ)

同一性は、ふつう、すべての存在の原理にされるものだろう。だけど、ドゥルーズは、それはつねに原理的に「未規定な同一性」でしかないと疑う。二つのものが同一であるか否かという弁別は、何かの規則によって行われることはできない。これは多分、(ウィトゲンシュタインの「規則のパラドクス」的な意味で言っているのではなく、)某かが同一だってことを存在者のことを語る基盤とするときに、その基盤を支えるものはあり得ないという話(だと思う)。しかし、その「未規定な同一性」を世界構成の基盤とするしかないのだから、でっち上げだろうと何だろうと、ともかく同一性を立ち上げる。

【類比】アナロギア。トマス・アクイナスをはじめとする中世のスコラ哲学の思考においては,超越者たる神の同一性は,神ならざる被造物の同一性とは質的に区別されたものであり,後者を出発点とした類比的な〈アナロギア〉の道にしたがう思考によって達せられるべきものである,というように考えられている。(世界百科事典)
一義性と多義性の中間にある特殊な意味の類推。でっち上げられた「同一性」をもとにして、規定可能な概念の関係が「類比」される。この「類比」は前節で取り上げた。概念の関係も同一性だけでは、論理的には関係づけられない。そこで、超論理的なつながりも含めて関係づける作用としての「類比」によって概念の関係を考えることを可能にする。

【対立】伝統的形式論理学で、同じ主語と述語をもつが、質と量において異なる四種の定言命題の間に成立する関係。(日本国語大辞典)
考察可能になった論理的な概念の内部で、「有るか無いか」「黒か白か」「熱いか冷たいか」「肯定か否定か」などという「対立」が可能になる。

【類似】互いに共通点があること。(デジタル大辞泉)
「対立」によって生じる対立ベクトルの狭間で、「類似」が語り得るものとなり、概念に規定されたものの程度が論理的に語り得るものとなる。

 
存在概念と種的差異と類的差異

ドゥルーズは、この「同一性・対立・類比・類似」の4つのアスペクトの働きを考察するために、アリストテレスを尋ねる。
AristotelesアリストテレスAristotélēs BC384~BC322
アリストテレスにおいて、「存在の概念」は、個別の基体から類比的に判断される。そしてその存在概念によって存在者の同一性が立ち上がる。そして、その存在者について「種的差異」と「類的差異」が問われ得るようになる。
このとき、「種的差異」は、未規定な概念一般の「同一性」に差異を刻む。或る存在者と別の存在者を「同一種だ」とするのだけど、それはもう無規定な基盤として差異を刻んでいる。それが「種的差異」である。つまり同一性の側が種的差異によって逆に規定されているとも言える。
一方、「類的差異」は、一般的な規定可能な概念の「準=同一性」に差異を刻む。種的差異のよって規定された「同一性」を援用してきて、或る存在者の「類」と別の存在者の「類」が同一だとか違うとかを言って差異を刻む。
この世界構成モデルにおいて、「種的差異」によって同じとか違うとか言われた「種」は、それ自体が世界構成の基盤とされたのだから、そのことによってそれはそこにある個別の基体それ自体を語っているものだと言うことができる。この世界モデルのシステムにおいて、種的差異は必然的に世界そのものに到達せざるを得ないのだ。しかし、それだけでは「種」は「如何なるもの」でもない。ただ「それが何か」と言われただけで「それが如何なるものか・どんなものか」については全く語られていない。それは「類」によってはじめて語られ得るのだ。だから、その意味で、「種的差異」と「類的差異」は両者があってはじめて「表象=再現前化」を可能にする。「類的差異と種的差異は、表象=再現前化において共犯関係を結んでいる」のだ。

 
アリストテレスにおける4つのアスペクトによる世界モデル

このモデルにおいて、「種的差異」はそれが種的差異である限りにおいて必ず(現に「ここにある」この個別であるところの)存在として存在するものだ、と言える。そうすると、その「存在そのもの」は「類」ではありえないのではないか。もし「存在」が類であるとするなら「類としての存在」の差異は種的差異と同じものになってしまう。そうなっても、なおそれが「種」ではないものとしての「類」であると考えるのであれば、そこには「種的差異」が存在し得ないということになってしまう。しかし、それでは最早、今考えている世界モデルとは違うモデルになってしまう。
そしてこのことは、「類」が、表象による判断が選択されることを前提とする「類比」によって規定されることを要請し、「種」が、具体的表象における感性的直観の連続性を前提とする「類似」の直接的知覚によって規定されることを要請する。「類」を構成するためには超論理的な類比的なアイデアを持ち込む必要がある。そしてそれによって可能になった論理的な類似の規定によって「種」が構成され得る、というわけだ。
「類」は超論理性を孕むことによって「種」とともに論理的に世界を語り得るものにしてる、と言うのだ。だから、つまり「共通な類の中で種が一義性をもつことは、異なる類において存在が一義ではないことを示す」と言えることになる。このようにして「類比」と「類似」の2つのアスペクトは、それぞれ有機的(オルガニック・構成され組織されたものとしての)な表象=再現前化の2つの限界を構成する。この2つのアスペクトの両方で《差異》は反省概念として現れる。我々は、世界を後から意味づけて理解する概念でもって知ることしかできない。だからこそ、「類比」という判断において体系的に為される配分と、「類似」という知覚においての連続性とが、どっちも世界構成にとっては不可欠であるのだ。

 
(僕の勝手読みによるアリストテレスモデルの要約)

というところが、ドゥルーズによるアリストテレス世界モデルの説明の要約なのだが、もう少し僕なりに(僕の偏った理解による)突っ込んだ説明にトライしてみたい。(ここから少し、僕の特段の勝手読みなので、特段に眉唾で読んでほしい。)
世界を理解するということは世界モデルを構築できることではないか。つまり、例えば、世界を座標化する等して概念化することだ。「同一性・類比・対立・類似」はその座標を構成するための4要素だと考えるのだ。
つまり、
①「同一性」によって、某かの座標において、対象を対象として同定可能にする。
②「類比」によって、座標の座標軸を立ち上げるための次元を作る。時空的な延長の座標はもちろんのこと、それ以外の、世界のあらゆる性質をモデル化するための軸を立ち上げるということ。それによって世界に対して「判断」を為すことが可能になる。
③「対立」によって、②で出来た軸において反対のベクトルをつくる。そしてそれによって、個別の対象を座標に配置する。
④「類似」によって、さまざまな個々の性質を、同一の座標軸において比較出来るとしたり、異なる軸で比較しないとダメだとしたりして、一つの座標軸のなかで複数の様々な個々の事態を連続的に並べることができるようする。
ということ。この4つの要素によって、もともとは必然的な概念化の方法を何一つ持たなかったはずの世界を、座標化して概念化する。無茶してアリストテレスの世界モデルを単純化すると、このような多次元な座標でもって世界の像を表現可能にすることだと言えるんじゃないかと思う。
4aspect
そして、そのような世界モデルを採るならば、世界を理解するためには絶対に「類比」と「類似」の両方ともが必要であり、「同一性」と「対立」の両方ともが必要だと言える。とくに「類比」がなければ「概念」や「性質」は生じようがない。
だから、アリストテレスにとって、神や無限のような超越的な対象を考えるときには、他の何とも共有できないような「超越的な類比」による「超越的な概念の座標軸」が絶対的に必要になるのだ。それゆえ、それは必然的に「一義的に捉えることができない彼岸」でなければならないものになるのだ。
(特段の勝手読みはここまで。)

こう見ていくと、ここで示されたドゥルーズのアリストテレス解釈はまったく「《存在》の多義性(一義性批判)」を支持しているように思える。まさしくこの論旨においてきちんと「存在の多義性(一義性批判)」は保証されている。しかし、ドゥルーズはこのアリストテレスの論説にそのまま乗っかっていって、結局その「多義性(一義性批判)」を反駁してしまう。

 
差異と有機的な表象=再現前化

《差異》はこうして次の2方向から世界を構成する。すなわち一方では、《差異》があるからこそ、隣り合う似通った「種」から「類の同一性」への移行が可能になる。したがって、《差異》は、感覚される連続的セリー(時間系列などさまざまな系列)の流れの中から「類的同一性」の先取りや切り取りを可能にするものである。また他方で、《差異》は、同一的なもろもろの「類」から、それらの類が純粋に知的な「類比関係」へ移行することを可能にする。この反省概念としての《差異》の2方向の働きによって、《差異》が「表象=再現前化」の要請に服従していることが示され、「表象」はその服従によって「有機的(オルガニック)な表象」へと生成される。そのために《差異》は、「概念に関する同一性」「諸述語に関する対立」「判断に関する類比」「知覚に関する類似」に反省概念として服従しなければならないのだ。

 
カタストロフとしての差異こそが基底であること

しかし、この概念は反省的概念でしかないのだから、そこで類似と類比によって示された概念の本来性と実在性は必ずしも絶対的なものではない。或る意味で、その概念も実在性も共に失われ得る仮設的な世界構成でしかないとも言える。

「事実、差異が反省概念であることをやめ、現実に実在的な概念を取り戻すのは、その差異が、例えば、もろもろの類似のセリー〔系列〕における連続性の断絶や、類比的な諸構造のあいだの越えがたい裂け目といった、カタストロフ〔破滅〕を指し示す限りのことでしかないのだ。差異は、反省的であることをやめれば、必ずカタストロフ的になる。・・・だがまさに、カタストロフとしての差異は、有機的な表象のみかけの安定の下で活動し続けている一つの不屈な反抗的な基底を証示している」(同p105)

この、《差異》が反省概念に過ぎず、それによって構成された世界が仮設的なものでしかないという状況こそが、その実在性を保証する。それが仮設的な世界だというのは、類比の働きによって造られた世界の骨組みが仮設であって「裂け目」を孕むものでしかないということであり、類似の働きによって構成された連続性はつねに「断絶」している可能性を孕むものでしかないということである。そして、その「裂け目」と「断絶」でもってつねに世界が「カタストロフ・破滅」の上に成立しているものでしかないということである。その「カタストロフ」としての差異だけが、世界が本当にあること・それが実在的であることを保証することができる唯一の基底ものなのだ。
Deleuzeジル・ドゥルーズGilles Deleuze1925~1955

 
存在の一義性

このように、ドゥルーズは、《存在》が反省概念によってのみ構成可能なものであり、実在し得るものになると考察し、
「結局、〈《存在》は一義的である〉という存在論的命題しかなかったのである。結局、唯一の存在論、すなわち存在に唯一の声を与えるドゥンス・スコトゥスの存在論しかなかったのである」
と結論付ける。世界が内的存在であるために反省概念に支えられるとするだけでなく、実在するものであるためにも、それは反省概念によって支えられる以外ないとする。そして、それゆえに、現に「ここにある」この個別であるところの《存在》とすべての《実在》がことごとく「一義的」なものとして扱われなければならないとする。すべての実在世界は反省概念として捉えなければならない。それは、すべての客観的世界が私にとっての世界と一致しなければならないということに他ならない、ということなのだ。

こうして、ドゥルーズはアリストテレスの論説に乗っかっていって、そのままアリストテレスを論駁してしまうのだ。どうだろうか。僕にはドゥルーズの言い分はとても納得のいくものなのだけど、否定的に思われる方もいるだろう。
ドゥルーズはそこで、その考察がスコトゥスの分析に一致するというとした上で、スコトゥスの考察はまだ考察としては不十分なところがあり、スピノザ、ニーチェを経て補完されていくとして、さらに考察を深めていく。
この点について、次節で見ていって、さらに突っ込んだ考察に挑戦したい。

つづく

<「差異と反復」を読む>

«アリストテレスのカテゴリーと存在の一義性<「差異と反復」を読む1-2>