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2018年4月22日 (日)

本当のアクチュアルな私の死なんてものが本当に無いこと<私の死と私の同一性9>

今日2018年4月22日大阪哲学同好会「死の意味」を風邪のため欠席。でも、自分の考えをある程度まとめて、会の掲示板に載せたので、それをさらに少し膨らませてここにまとめておく。

「私の死」

「自分の死とは何か?」「今生きているこの生が終わるとはどういうことか?」
これについて、「死」が怖い僕は昔からずっと悩んできて、未だに明確な答えを見つけられていない。
でも、少しだけ自分なりの整理もできた。

 

現象学的世界モデルにおける「私の死」

今日の例会をツイキャスで聴いてたら、話の初めは「独我論」から始まっていた。僕はある意味では独我論を肯定するが別の意味では否定する。
「本当は他者の意識がない」という独我論を否定する。
「私の知覚だけが世界であって、知覚されない外部はない」という独我論も否定する。
しかし、「すでに現れている現れの全てから合理的に構成され得る世界だけが世界の全てであり、その現れと独立で無関係なものは存在することも存在しないこともない」というものが独我論というのだとしたら、それは肯定する。

その現れから構成される世界の中には「私」という存在や「他者」という存在があり、「今」という時間や「過去」「未来」もあり得ると僕は思っている。それを根底において支えているのがいわゆる無内包だと言えるかもしれない。そういう意味でそれは「独我論」そのものではないが「独我論っぽい世界モデル」と言えるかもしれない。

この、独我論っぽくて現象学的な世界モデルで「私の死」とは何かを考えてみる。

 

「リアルな世界における私の死」

1つは、その世界の中に「想定」できるものとして存在する「私」なるものの死だ。これを「リアルな私の死」と呼びたい。
この「想定」とは、起こり得る可能世界を想定し、現実に起こり起こった実在世界を想定するようなイメージだ。その想定によって実在世界の内部に現実に存在することになる「リアルな私」は、過去にも現在にも未来にも想定され実在することができるようにになる。
この「リアルな私」は、身体を持ち、その身体に対応した感覚を持つ。それは当然、死ぬことも可能で、その身体は死体になり感覚を失いもする。その私が癌に苦しんで居たのなら、その身体はそのリアルな死によって、その苦しみの感覚を感じることはなくなる。感覚を感じる反応を失い、ある意味で苦しみから解放され得る。なので、このレベルの話において「安楽死」というアイデアは十分に有効である。

なので、僕は安楽死を否定しない。
ふつうの日常会話で一般的に語られる「死」の多くは、この「リアルな死」のレベルの話だと思う。そのような「リアルな死」について語るのなら、安楽死は十分に語る意味があるし、現実の話として、僕ももっと安楽死は導入されるべきだと考えている。

ただし、それは、まさしく「リアルな私の死」なのだが、「他人事としての死」でしかないものかも知れない。
「リアルな死」は実際にそれを感じる私にとっては、常に未来の出来事か他者の出来事であって、実際に現在や過去の出来事としながら私の死として現れることはあり得ないからだ。

これが、いわゆる「不在」としての「死」だと僕は捉えている。

 

「アクチュアルな私の死」

そこで、もう1つ「他人事でない私の死」というものを考えたい。いわゆる「無」なのだが、「無」と言っちゃうと誤解されそうなので「無」はいったん忘れて欲しい。

今考えている世界モデルにおいて、その内部に想定されるような「リアルな私」ではなくって、その想定を基礎づけるような、既にある「現れ」自体としての「私」を考える。それを「アクチュアルな私」と呼ぶとする。「アクチュアルな私」は身体がなくっても存在することができる。身体がなくても、とにかく某かのすでに現れている「現れ」があればもうそこに「アクチュアルな私」があると言えちゃうことにするのだ。そうすると、時間さえあれば空間がなくても「アクチュアルな私」は可能になるだろう。

僕が考えている、いわゆる「無」としての「死」は、これの喪失だ。

 

「アクチュアルでありリアルでもある私」

でも ただし「アクチュアルな私」は、「アクチュアルな私」だけでは、3分後に出来上がるカップ麺を現実に自分で食べるという想定ができない。なぜなら、「アクチュアルな私」はそれだけでは身体を持てず生きることさえできないはずだからだ。
そこでカップ麺を食べるために「リアルな私」の想定が必要になる。「リアルな私」と「アクチュアルな私」を重ねて世界を捉え直して、「リアルな私」が3分後に味わえるリアルな味を「アクチュアルな私」そのものが味わえるように「なる」ということにしてしまう。
「私は3分経ったら、3分後の私に『なる』」っていう世界把握は、ふつうは誰にとっても自明の話かもしれないが、「アクチュアルな私」の「死」を問うためには、その自明なことまでを自明とはしないようなレベルへと掘り起こさないといけないのではないかと、僕は考えている。
私たちはそれを自明と思ってるのだが、その自明の根底で、「私は3分経ったら、3分後の私に『なる』」という想定を為していて、その想定の上ではじめて、生を享受できるものになったと言えるのではないだろうか。

そう考えると、私は「アクチュアルな私」でありながら「リアルな私」でもある、とすることによって、生きて行為するものとなり得る。つまり、「『アクチュアルでありリアルでもある私』は3分経ったら、3分後の『アクチュアルでありリアルでもある私』に『なる』」という、結構無茶な想定によって、私は生を享受できるようになった、と言えることになりそうだ。

アクチュアルでリアルな私の死

さて、それでは、その「アクチュアルな私」でありながら「リアルな私」の「死」とは、どう考えれば良いか。
「リアルな私の死」は問題なくあり得る話だったから、問題は「アクチュアルな私の死」だろう。
それは、「すでに私が世界の開闢を失ってしまった後の私の喪失」ということだったから、明らかに矛盾だ。つまり、「アクチュアルな私の死」なんてものはあり得ないはずの概念だ。

「『アクチュアルでありリアルでもある私』は3分経ったら、3分後の『アクチュアルでありリアルでもある私』に『なる』」という、ある意味かなり無茶な論理飛躍を受け入れて、私は生を入手することができたのだが、それはその「生」に関するところだけがその射程であって、その「死」はもはや射程外だってことになるのではないだろうか。なので、その、「『アクチュアルでありリアルでもある私』は3分経ったら、3分後の『アクチュアルでありリアルでもある私』に『なる』」という論理自体を受け入れることができなくなるはずだろう。

つまり、結論としては、至極あたりまえ当然のことなのだが、「アクチュアルな私の死」はあり得ない
となるはずだ。

そのような「アクチュアルな死」を「無」と呼ぶならば、「無」としての「私の死」など初めっからなかったのではないか。「無」としての「死」に達することなどあり得ないのじゃないか?
すべての「死」は所詮「リアルな死・他人事としての死」でしかないのじゃないか?

あるいは、そこでもまた無理して、「「死」とは「無」となることだ」と言えることにしてしまうと言うのならば、その「無」は何処にでもあるものになるはずだ。正に今私は死に続けてるとも言えると思われる。

 

本当のところはどうなの?

でも、「死」をそのように捉えるとすると、私が癌に苦しんで安楽死を望んで死んだときには、私の苦痛はどうなるのだろう。

「死」を「リアルな死」として捉えるのなら、私の身体が死体になり苦痛に対する反応を失うのだから、死体が感じる痛みは「無くなる」と言える。だから、安楽死にも意味がある。

でも、その「死」を「アクチュアルな私の死」と捉えるなら、それは最早ナンセンスになってしまうのだから、死後に「苦痛がある」とは言えないだけでなく、反対に「苦痛が無い」とさえ言えないことにもなってしまって、「死んだら楽になる」ことさえ出来るわけじゃなく、そもそも、生きている苦しみと死後を比較すること自体ができなくなってしまうはず。

それでも、あぁそれでも、私が死んだらその「アクチュアルな私の苦痛」は本当はどうなるんだ?と問いたい。
本当のところは、どうなんだ?

答え、
「アクチュアルな死」に「本当」なんてものがあるわけがない、

だ。

本当のアクチュアルな私の死なんてものが本当に無いわけ

「アクチュアルな世界」とはすでに現にあるこの「現れ・現前」のことだった。そして、しかしそのままでは、何も世界の構成を為さないままでは、私は生者としての身体を持つことも某かの行為をすることもかなわないのだった。だから、そこに私という生命体の身体と行為を構成するために、「リアルな私」という存在と「アクチュアルな私」を繋げ、「『リアルにしてアクチュアルな私』は3分後に、3分後の『リアルにしてアクチュアルな私』に『なる』」ということにしてしまって、それを「私」という存在の表裏としたのだった。
それは、ある意味で「私」という存在を何かは霊的な魂としてでっち上げる創作だと言えるかもしれない。
そのでっち上げられた「私の魂」によって私は、行為を為す生者として食べたり出逢ったり愛し合ったり失ったり擦ることができるようになったのだった。

「アクチュアルな私」は生だけがその射程であるというのは、「アクチュアルな私」にとって構成できる範囲が生にしかないということであって、それは、だから、その射程外に「本当のところ」なんてものが本当に「無い」ってことだ。

「本当のところ」が本当に無いんだから、その外側に真の答えを求めることには意味がない。それゆえ、逆に、その外側の答えはでっち上げるしかできないのだし、でっち上げることこそが最良の方法なのだ。

たとえば、その外にさらなる「アクチュアルな私」を再生産して、「リアルな私の死」の外に「アクチュアルな私の生」があることをでっち上げるとか、ができるかもしれない。この場合、その外の「アクチュアルな私の生」とは、つまり「あの世」である。

また、たとえば、「アクチュアルな私の生」を「リアルな私の生」の外側に想定することができないことを受け入れ、その上でその外側に出ないままで、「アクチュアルな私の生」がその「後」も続くとするのなら、それは「私の一生」を再度最初からやり直すいわゆる「永遠回帰」という想定をすることができるかもしれない。

たとえば、「リアルな私」の死後に「アクチュアルな私」が誰か別の人に例えば自分の娘に受け継がれるというでっち上げも可能だろう。これは「輪廻」というアイデアに近いものになるか。

あるいはもちろん、たとえば、素直に「リアルな死」とともに「アクチュアルな私」が完全に失われ、そこにはリアルな世界しか残らないと考えることもできるだろう。

でも、重要なことはそのうちのどれにも「本当のところ」なんてものが無いってことなんじゃないだろうか。

自分の死なんだから、本当に自分が好きな解釈をしてしまって良いということなんじゃないだろうか。

 

唯物論モデルでも考えてみよう

ここで考えた現象学的な世界モデルにおける「私の死」は、また一方で、唯物論的で物理的世界モデルのぴったりと重なるものでもある。だから、決して、独我論っぽい世界モデルを考えたから「私の死」がナンセンスなものになったという訳ではないのだ。

例えば、物理的世界モデルにおいて横山信幸と呼ばれる身体があって、その身体の神経回路などにおいて意識の発生につながるような物理的反応が起こると、そこに何の神聖さなどなくてもちゃんと一瞬間の意識が生まれる。その一瞬間の意識はありありと世界の現れを感じる。その現われには、眼前の知覚として判別されるべきものが含まれるかもしれないし、記憶として判別されるべきものや、空想として判別されるものまで含まれるかもしれない。この時に、その現われをその現われの側から見たものが「アクチュアルな世界」になるという訳である。
この物理世界モデルにおいて、時刻t1には「t1の横山信幸の意識」が発生し、時刻t2には「t2の横山信幸の意識」が発生する。でも、「t1の意識」と「t2の意識」は物理的には並置的に存在しているだけで、霊的な魂がt1からt2へと成り代わっているわけではない。霊的な魂が移行していくようなものではないのだけど、そこにまるでそれが為されているかのように解釈する「勝手な思い込み」がぶち込まれることによって、「私の生・私の命」が存在してると「想定」されるのだ。
つまり、「私」という物理現象はこの瞬間の神経回路の発火に過ぎないのだから、「私」と3分後の神経回路の発火との間に神秘的な相関などはなく、3分後に発生した意識はある意味で他人でしかない、とも言える。そこで、「私」が、3分後の意識に「なる」と想定することによって、そこに、「世界に対して行為することができる主体」を構成する、という訳だ。
この構成は、上で考察した「『アクチュアルでありリアルでもある私』は3分経ったら、3分後の『アクチュアルでありリアルでもある私』に『なる』」と、ぴったり一致するのだ。

この考察から分かることは、結局、行為者としての「私」というものは、物理モデルをとっても現象学的モデルをとっても、何か「魂」のようなものをでっちあげて構成したものでしかない、ということだ。

横山の身体が3分後にカップ麺を食する。それは物理的に考えればただただ幾つもの瞬間の意識共がそれぞれ並置的に連なってあるだけ。それを「僕という魂・僕という生命がUFOを食べるんだ」と捉えることで、僕は未来に対して希望を持ち、やりたいことを考えてそれを「為す」ことができる。

そーゆーことなのだ。

「私の生」自体がでっち上げなのだ。だからこそ、当然、「私の死」も自分勝手に、好きにでっち上げて良いのだ。否、もっと言えば、好きにでっち上げるべきなのだ。
「私はアクチュアルには死なない」と言っても良いし、「あの世を愉しむ」と言っても良い。
ただし、それでも、矛盾を受け入れるのでないなら、「死によって私の意識はすべて失われるが、それでも私は死によって苦痛から逃れることができる」などという矛盾を言うことは許されない。

否、自分の生死に「矛盾」を入れることを許したくないと、僕は思うのだけれども、それも、自分勝手に考えたら良いのかもしれない。

もともと「生」も「死」もでっちがでしかないのだ。自分がどう自分の生を捉えたいか、自分の死を捉えたいか、それだけを元にして決めたら良いのだろう。

私の死と私の同一性

大阪哲学同好会掲示板で私の死について討論しています。こちらもご覧ください。

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