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2018年7月16日 (月)

「事実論性の原理」と物自体の無矛盾とその存在<思弁的実在論はどこまで有意味か7>

「有限性の後で」第3章後部を読む。

物自体が無矛盾なことと存在することの、メイヤスーの証明について考える。

今日、検討したいこと:事実性でもって確認された偶然性の必然性を根拠として、「物自体の無矛盾」と「物自体が存在すること」を立証できるか。これについて、「矛盾した存在者は絶対に不可能」「即自的なものの存在が絶対的に必然なこと」という風に定式して問う。そして、その問いの中で「事実論性の原理」について考える。「事実論性」とは、事実性が非理由律においての偶然性を表すのに対して、その偶然性の必然性を表すもの。この、偶然性の必然性ということの意味を考える。

今日の話題

1.「矛盾した存在者の不可能性」の証明について
 a.第1の反論を検討
 b.第2の反論を検討
 c.第3の反論を検討
2.「即自なものが存在すること」について
 a.3つの解決法
 b.非理由律の弱い解釈と強い解釈
 c.2階の事実性
 d.事実論性の原理
 
 
1.「物自体の無矛盾」の証明について

第1テーゼ:「矛盾する存在者は絶対に不可能である」の証明

前提:

①必然的な存在者は不可能(事実性より)。

②存在者の偶然性は必然。
(メイヤスーも①と②は等価な言明かも?としているが、等価かどうかはあまり重要ではないかも?問題は、事実性を認めるならこの2者が明らかだとして良いだろう、ということ。)

証明:

・もし存在者が矛盾している場合、その矛盾は必然でなければならない。

・しかし、前提より、必然的存在者は絶対的に不可能。

・ゆえに、矛盾も絶対的に不可能。

結論:矛盾した存在者は絶対的に不可能である。

これだけの証明だ。どうだろうか。何ともあっさりしてて、証明としては説明不足で不親切きわまりない。これがどういう意味を示しているのかは、その反論に対する弁明を見ることで明らかにしていきたい。

 

a.証明に対する第1の反論:矛盾したものは何者でもないはず。

矛盾した存在者は何でもないものである。矛盾した存在者は、矛盾律を前提し論理的に考察しようとしても、そこからはあらゆることが導出してしまうものである。だから、矛盾したものについての言明は、すべてが真になってしまうのだが、その真は偽に対するものではあり得ないので、何の意味も情報量も持たないものでしかない。それは単にナンセンスであって、それを肯定することも否定することもできないはず。だからそれについて何も主張することはできない。だから、証明は失効するはずだ。

 第1の反論を検討する

〇反論の「矛盾した存在者は何でもないもの」ということは、どこからそんなことが言えるのか。その反論は、矛盾した存在者が思考不可能だってことから、その矛盾した存在者が絶対的に不可能だということを推論しているが、そんな推論は可能なのか。たしかに、矛盾したものからはあらゆるものが導出されてしまい、それゆえ逆に有意味な言明をすることは不可能である。しかし、「矛盾した存在者はナンセンスだということ」は必ずしも「矛盾した存在者は絶対的に何者でもないものだ」ということを主張するものではないのではないか。その話で反論者は「矛盾した存在者が何者でもないものである」ということを何の正当化もないままに主張しているので、それは反論にならない。

 
b.証明に対する第2の反論:それって論点先取じゃん。

証明はそもそも矛盾律が前提されているので、論点先取なんじゃないのか?証明に矛盾律が用いられているというのは、矛盾律の真理性自体がその真理性の前提にならざるを得ないという自己言及的な証明になってるんじゃないのか。

 第2の反論を検討する

〇我々の議論は、矛盾律から「矛盾の思考不可能性」だけを前提として、そこから出発して、「矛盾の存在不可能性」へ向かうものである。「存在不可能性」は前提ではないので論点先取とは言えない。さらに厳密に言うと上で示したように、我々の証明の前提は、無仮定であるところの非理由において確立された「必然性の絶対的不可能性」が前提なのだ。そこから、矛盾の不可能性が導かれているのだから論点先取ではないと言える。

 

c.証明に対する第3の反論:それでも循環証明じゃん。

証明では「存在者が矛盾しているなら、その矛盾は必然」としているが、なぜ必然性のみを推論して偶然性を推論しないのか?「矛盾した存在者は必然的かつ偶然的であり得る」という矛盾だってあり得るはず。それは矛盾なのだから「必然かつ偶然」としたって良いはず。証明は、矛盾律を前提して「必然的なものは偶然ではない」としてしまった点で循環論法なのではないか。そうであれば、その「矛盾は必然だ」としている時点でその証明は無効になる。

 第3の反論を検討する

●反論への反論1(矛盾が必然的かつ偶然としても、それ自体が必然になってしまうこと)

矛盾した存在者が存在すると仮定すると、

〇仮定より、それは「存在するともしないとも言えない」とはもはや言えない。

〇そして、「存在するものは存在しない、かつ、存在しないものは存在する」を真にする。

〇だから、それは、存在すると同時に存在しないことになる。それは、存在しないことを含んだまま、非存在になることはあり得ないものとなる。

〇つまり、矛盾したものとして実在するものは、完全に永遠的なものでなければならない。

〇しかし、これは前提「必然的な存在者は不可能」に反する。

だから、矛盾が必然的かつ偶然としても、それ自体が必然になってしまうと言える。

 
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●反論への反論2(矛盾が必然かつ偶然とすると、その存在は他性を失い、何かであることもできず、何かでないこともできなくなること)

〇〈矛盾した存在者〉はいかなる実効的な生成変化も知ることはあり得ない。なぜなら、他者になることができないからだ。他者になることがあり得ないというのは、その《存在者》自身が常に他者でもあるからだ。
つまり、その〈矛盾した存在者〉はあらゆる差異を含むブラックホールとしてのみ存在し得るものである。

〇cの反論が主張しているのは、矛盾の必然性を帰結されるには矛盾律の前提が必要だから循環論法だということだった。本来矛盾からは偶然性も帰結されるはずなのに、必然性だけが帰結されると前提して必然性だけを帰結しただけ、というものだった。
しかし、その反論に言うとおりに、〈矛盾した存在者〉が必然的かつ非必然的であると言うとすると、そのとき、その〈矛盾した存在者〉は変化を起こし得るあらゆる他性を無化することになる。それはあらゆる事物を無差別化し、この存在者が別様である可能性をすべて破壊する。
それゆえ、〈矛盾した存在者〉については何でも言うことができる。―でも、それだからこそ、―それは何を成すこともできない。或る存在者が何者かであるためには差異を再び導入することが必要で、そのための思考可能な生成変化を再び導入しなければならない。それには、矛盾する言明を否定する以外ない。

以上で、反論に対する弁明も終わりだ。

ここまでの弁明を参照して、証明にもう少し付け加えるとすると、次のように言えるだろうか。

 
証明:

・もし存在者が矛盾している場合、その矛盾は必然でなければならない。

・矛盾が必然かつ偶然とすると、その存在は他性を失い、何かであることもできず、何かでないこともできなくなると言えるからだ。

・そして、前提より、必然的存在者は絶対的に不可能。

・ゆえに、矛盾も絶対的に不可能。

結論:矛盾した存在者は絶対的に不可能である。

と、こんな感じで、最初に比べると少しだけ親切な証明にすることができた。この証明について、メイヤスーは次のようにまとめている。

●ライプニッツは、「矛盾律」+「理由律」・・・を基盤として形而上学的合理性を打ち立てた。

●ヘーゲルは、「理由律」を極め、「矛盾律」を否定した。

●ウィトとハイデガーは、「理由律」も「矛盾律」も絶対ではないとした。

しかし、

●「非理由律」を前提にする存在者は、「理由律」が絶対的に偽となるがゆえに「矛盾律」は絶対的に真でなければならない。

 
 

2.「物自体の存在」の証明について

第2テーゼ:「即自的なものが存在することは絶対的必然である」の証明

証明の考え方:
・これはライプニッツの問い「なぜ何かがあるのであって無いではないのか」と同じ問いであり、我々は「非理由律の強い解釈」を採るべき。
・「即自的なものが存在することは絶対的必然である」ことは「非理由律の強い解釈」あるいは「事実論性」から明らか。

 
いくつかの解決法について

◎形而上学的解決:理由律の《究極の理由》に訴える。《原理としての神》によって合理的に答えようとする。《原理としての神》の原理によって「ある」。

◎信仰主義的解決:懐疑論・信仰主義的立場。《全き他者としての神》によって純粋に宗教的に奇跡を受け入れる。存在は奇跡の顕現であり、無からの奇跡的離脱である。信仰とは「ある」に驚嘆することであり、そのとき、存在には理由がないと言えるものになる。

◎思弁的立場:「非理由律の強い解釈」あるいは「事実論性の原理」による。

 
非理由律の解釈の2通り

非理由律の解釈は弱い解釈と強い解釈に分類できる。

【非理由律の弱い解釈】偶然性が必然的だというのは、もし何かが存在するのだとしたら、それは偶然的でなければならない。・・・事物があるのは必然ではなく後付けの追加の事実である。

【非理由律の強い解釈】偶然性が必然的だというのは、事物は偶然的でなければならず、かつ、偶然的な事物が存在しなければならない。・・・事物「il y a ある」のは後付けの事実ではなく、必然である。

 
 

2階の事実性

この2つの解釈で、強い解釈を採用しなければならないことが分かれば、そこに我々の目的のゴール「『ある』は必然である」がある。

そこで、「強い解釈」の正当性を考える。
そのために

1.逆に「弱い解釈」のみが妥当だと仮定してみる。

2.仮定より、事実的な事物が存在するのは事実であっても必然ではない。

3.ということは、事実性というのはそれ自体が事実であって必然ではない。

4.それと言うのは、まず、「1階の事実性」(事実の事実性:必然的に規定された事物や構造が何一つ存在しない)という想定し、それに対して、「2階の事実性」(事実の事実性の事実性:事実であるような事物が存在せず1階の事実性が生じないことがあり得るという可能性があること)を想定しているということだろう。
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5.一方、そもそも何かが偶然か必然かを問うためには、それが少なくとも可能世界という俎上に乗っていることを認めねばならない。

6.だから、私は、「弱い解釈」のみが正当だとして事実性の絶対性を疑うには、事実性の有る無しの可能世界の想定ができることが絶対的に必要になり、つまり事実性が必然だとは必ずしも言えないことが絶対であることになる。(非絶対の非絶対性が絶対)

7.したがって、「1階の事実性」を主張するためには、「2階の事実性」が前提されねばならないことになって、以下、無限後退に陥ってしまう。(「主張」ってのは、それが絶対ではないからこそ、その対象の有り方を偶然から拾い上げるために、「事実性の事実性」が必要になるような言明をするってことだから。)

8.つまり、事実性の必然性を疑うということは、事実性の絶対性を思考内容として否定しながら、当の思考行為として事実性の絶対性を想定することになり、おのずと反駁される。

9.それゆえ、事実性は、どーやっても世界内の事実としてそれを疑うことができない。

10.そのため、事実性とは、事物が事実であるという事実(事実性の事実性という意味での「2階の事実性」)を指すものではない。また、事実的な事物が存在するという事実(事実的な存在の事実性という意味での「2階の事実性」)を指すものでもない。

結論:非理由律(事実性)は強い解釈でしかあり得ない。

 
事実論性の原理

この考察によって、偶然的な事物が存在しなければならないとすることが正当な世界モデルだと言えるようになる。
これを示す原理のことをメイヤスーは「事実性」と「事実論性の原理」でもって定式する。

【事実論性】事実性の思弁的本質。すなわち、事物の事実性それ自体は事物の一つとしては思考され得ないということ。事実性が非事実であり、事実性が必然であること。それは事物が「il y a ある」のは(世界の後付けの事実なのではなく)必然であること。「事実性」が非理由律においての偶然性を表しているのに対して、「事実論性」はその偶然性の必然性を表す。

【事実性の非二重性】事実性を事実性それ自体に帰属させることの不可能性。それによって事実性の絶対性を疑うことができなくなるってこと。

【事実論的】事実論性の条件を探求し限定する思弁。

【事実論性の原理】上の意味での非理由律。偶然性のみが必然だとする原理。事物の事実性それ自体は事物の一つとして思考され得ないとし、「il y a ある」は世界の中の事実ではなく、すでに常に叶えられてしまっているってこと―――それが必然であるとする原理。

こうして、事実性が二重性を持ちえないことから、「即自としての存在が事実として実在している」ということが証明された。

 
まとめ

これが、メイヤスーによる「矛盾する存在者は絶対に不可能」と「即自的なものが存在することは絶対的必然である」の証明である。
このことをもって「物自体の無矛盾」と「物自体が存在すること」だとするメイヤスーの言葉づかいはずいぶん要注意であろうが。ともかく「世界に存在する事物は無矛盾」であり、ともかく「世界は在る」とは言えそうだ。

それは、結局、「事実論性の原理」によって明らかになるものだった。「il y a ある」は世界の中の事実ではなく、すでに常に叶えられてしまっているという世界の外の事実―――それが必然であるとすることから明らかになった。それは、「世界が無いのではなく、在る」という、或る種超越的な唯一絶対の事実から明らかになるものだったのであり、それゆえ、疑いようのない絶対の言明だと言えるだろう。

とりあえずこれで、事実性から、世界が無矛盾であり世界が存在することを導いた。とりあえずこれで、わずかな一歩ではあるが「我思うゆえに世界あり」よりも少しだけ先に進むことができた・・・とは言えるだろう。

このわずかな一歩をから、さらにもう一歩前に進むために、次節では「自然の斉一性」とこの世界を説明する法則について考察する。

今日の考察は、いつものような僕自身の問いを入れないで解説に徹したので、いつもより安心して読んでもらえると思う。

つづく

思弁的実在論はどこまで有意味か

«強い相関主義と弱い相関主義とカオス<思弁的実在論はどこまで有意味か6>