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2017年9月16日 (土)

行動が物質世界を構成するメカニズム<ベルクソン「物質と記憶」を読む6>

ベルクソンの円錐において、行動が物質世界を構成するわけを考える。

前節までで、ベルクソンの円錐が過去の記憶と現在の知覚の狭間で構成されていることを見てきた。
Photo_2円錐図1

一方は、純粋の記憶であって、その弛緩しきった端においては、世界の質を豊かに含みながらもそれが分析されたりそれが何者であると理解されたりすることはあり得ない。またもう一方は、純粋な知覚であって、その縮約され緊張しきった端においては、それらは厳密に分析され比較され科学的に研究され得るのだが、それらには世界の味わいや質は一切含まれない。
そこで、当然、この両端はいかにして統合されるのかという疑問が湧くのだが、それを直接考える前に、現在の知覚がいかにして世界を分析し得るのかを問うところから今日の考察を始めたい。

 

「知覚」と「感受」

よく考えてみると、どんな現在の知覚の分析であろうと、そこに自明に絶対的に正しい判断基準などあるわけがない。いかなる判断基準も絶対なものではあり得ないことは、ウィトゲンシュタインのパラドクスやクワス算によって明らかにされたからだ。(ウィトゲンシュタインのパラドクスやクワス算についてはこちらを参照。「物質と記憶」は1896年で、「探究」執筆は少なくとも1936年以降だからベルクソンがウィトゲンシュタインのパラドクスを知るわけがないのだけど。)
そこで、ベルクソンは、そのような世界分析の絶対基準を求めようとするのではなく、「私の身体行動」という新たな特殊な基準を持ってくる。イマージュの総体という世界の中に。私の身体というものがあり、それが行動を為すことによって世界を分析するための判断が可能になるとする。その行動そのものが世界分析の基準だとするのだ。
ここでベルクソンのいう「行動」の働きには、「知覚」として行動と「感受」としての行動がある。

「私たちはすでに生命体を一種の中心と考え、その中心から周囲の対象群へと、この対象群の生命体に及ぼす作用が反射していると見なした。この反射のうちに外的知覚がなりたっている。・・・身体はそうした外的原因の作用を反射するに留まるものではない。身体とは闘うものであり、かくてその作用の何ほどかを吸収する。ここに感受の起源が存在する。知覚によって身体の反射する力が測られるとすれば、感受が測るものは身体が吸収する能力なのである。」(「物質と記憶」岩波文庫p111)

 

「知覚」について

「知覚」・「感受」の二者つのうちで、ベルクソンが物質世界を構成するとしたのは「知覚」の方である。
この「知覚」に関する行動は、真の記憶の対局にあたるもので、「習慣としての記憶」による行動である。(朗読をしたときのその一回きりの朗読の味わいを覚えているという意味での質の記憶ではなく、)九九を暗唱するときの方の、味わいや質とは無関係の、何度でも繰り返せる記憶である。
たとえば、森で狼に襲われたなら咄嗟に反射的に身体を逃そうとする。その習慣的反応があることでもって、狼の襲撃は逃れるべき対象であると判断するのだ。
また、たとえば、両手に2本ずつ鉛筆を持っているとき、それらがどれも鉛筆という物であると判断するのは習慣によるものである。論理的にはそれらのイマージュが何を意味するものだと判断するかは無限の可能性が開いているのだから、それらを同じ鉛筆だとしなければならない必然性などはないはずなのであるが、私の身体がそのように判断してしまう習慣を持つものとしてあったので、それによって、それらは鉛筆だと判断されることになる。
それが私の両手だと判断するのは私の身体が覚えた習慣によるものであり、それが2×2の本数の鉛筆であると判断されるのは私の身体が覚えた習慣によるものであり、2×2=4であると判断されるのは私の身体が覚えた習慣によるものであるのだ。

こうして、身体が外的知覚に反射することによって、論理的根拠がなくても、そこに物質世界が登場できることになる。

しかし、ここで扱われている「知覚」はもともと現在だけに関する反射であったはずであるのだが、世界に対する対応を適切に為すためには、現在の「知覚」によるだけでは不可能だ。当然ながら、習慣とは過去があってこそ成り立つものなのだから、「知覚」が世界に対応した反射を為すためには、必ず過去が必要になる。

「かくてまた、私たちの身体と区別され分離されている対象について、私たちが有する知覚が表現するのは、つねに一箇の潜在的行動である。しかし、この対象と自分の身体の間の隔たりが減少して・・・ゼロとなる場合、すなわち知覚されるべき対象が私たちの体の一部と一致するケース。・・・その場合、もはや一箇の潜在的行動ではなく、むしろ現実的行動をこそ、このまったく特殊な知覚が表現する。感受が成り立つのは、まさにここにおいてのことなのだ。」(同p112)

 

ベルクソンの「アクチュアリティ」と「ヴァーチャリティ」

いま考えているように、ベルクソンの世界において「行動」は最重要アイテムなのだが、その行動の中でも、今ここでこうしてある、この現在のこの「行動」だけを「アクチュアル」なものとしてさらに特別視する。この「アクチュアルな行動」の先端でのみ実際に現実の物質世界は構成可能な「物」となる。(「アクチュアリティ・現実性・現勢性」という語は、「act行動」が語源なのだから、ベルクソンのこの「行動としてのアクチュアリティ」という捉え方は適切だと思われる。しかし、カントにおいてこの語はもっと「ヘクシアリティ・これ性」に寄った意味で捉えられていたので、ベルクソンの「アクチュアリティ」の捉え方はやや独特かもしれない。)
しかし、いくらアクチュアルな行動が特別であってもそれだけでは世界は成り立たない。もしそのような場面になったらそのように行動し得るという「ヴァーチャル・潜在的」な行動を基盤として持ち、その基盤の上でアクチュアルな行動があったときにはじめて、そのアクチュアルな行動は意味を持ち得るものになる。
なので、アクチュアルな反射的行動は、ヴァーチャルな行動の記憶をともなって、それによって物質世界を構成する。必然的に、アクチュアリティとヴァーチャリティは食い合って、浸食し合っているのだ。

 

「感受」について

しかし、ここで挙げた意味での「反射的行動」としての「知覚」だけから構成される世界ならば、それはかならず統語論的な意味しか持たない。世界が意味論的に意味を持つためには、そこに、さらに「感受」が必要になる。
さっきの、引用文はさらに次のように続く。

「・・・感受が成り立つのは、まさにここにおいてのことなのだ。私たちの感覚が知覚に対して有する関係は、だから、自分の身体の現実的行動がその可能性あるいは潜在的行動に対して有している関係と等しい。私の身体の潜在的行動は、諸対象に関わりそれらの対象群にあって素描されている。その現実的行動は自分の身体そのものに関係し、したがって身体のうちで描き出されているのである。こうして、あたかも現実的行動ならびに潜在的行動が、その適用される点に、あるいはその原点へと真に回帰することを通じて、外的イマージュが、私たちの身体を通じてその身体の実質の内部に保留されるかのように生起することだろう。これゆえにこそ、身体の表面――これが内部と外部とに共通する境界である――は、知覚されると同時に感受される延長のただ一つの部位なのである。」(同p112)

「感受」は、世界の質を味わい感じとる作業である。たとえば、生まれ来てまだ「延長」なるものを学習していない主体がいたとしてそいつが、そこに見えている事物の延長を知るには視覚的情報だけではたりない。そこに手を伸ばして触れるなりなんなりの行動による理解があって、はじめて、「延長」は意味を持つ。その意味で、延長に限らずあらゆる知識内容は、私が世界の観客でありながらプレーヤーであることによって有意味なものになる、と言える。
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世界の質や味わいは、純粋に記憶に関わるものである。ベルクソンの示した円錐図において、それは「知覚」と「行動」を表すS点との対極にあるAB面で示されていた。だから、「感受」される内容はこの世界モデル内では、原理的には、すべて過去のものであるはずものなのだが、しかし、その「味わい」にしても、それらが完全に弛緩されたままだとしたら、それらを認識することができないことになってしまうのだから、それらが認識された「味わい」であるためには、ある程度の、某かの分析が必要である。そして、その分析が、どんどん縮約していき、その味わいを「私の身体の表面において為される感受」だとして分析されるとき、その私の身体の表面において、「感受」と「知覚」は一致する。過去であったはずの「世界の質」がアクチュアルなものになり、世界は、私が認識する物質世界として存在し、かつ、私が味わう質を持つものとなるのだ。
「行動」にこの「知覚性」と「感覚性」の2種の意味があることによって、そして、それを可能にする私身体なるものがあることによって、行動は、記憶と知覚を統合し、世界の質と形式を統合する。それによって、物質世界が構成される平面を切り出すのだ。

 

円錐図と円環図における、「知覚」と「感受」、「行動」と「記憶」の統合について

物質は、行動によって統語論的に意味づけされ、記憶によって意味論的に意味づけされる。その統語論的な行動を示すS点と、意味論的な記憶を示すAB面がどのように結びつくかという、結びつき方には、本来、論理的に「正しい」結びつき方なんてものが無いはずだったのだが、「私の身体」という特殊なイマージュを私の生に関する一点として定め、その身体が「感受」し「行動」してしまうことを、私の生として受け入れることで、そこに必然的な結びつきができてしまうことにするのだ。そして、そのように私の生を基盤とすることによって、世界は形式と質を両立させる物理世界たり得るのだ。

そうやって、形式と質が統合した世界認識はそれが一つの記憶となって、その他の、世界認識と多重の層と、さらに関係し合ってより認識を深めることができるようになる。円錐図のAB面とS点の間には無数のヴァーチャルな行動があり、それにともなって、無数の断面ができる。その断面の中でそれぞれの行動と記憶や質が関連し合い、世界認識を深めていく円環の回路ができる。さらに、それらのヴァーチャルな行動とアクチュアルな行動としたり、その逆を考えたり交換したりして、そのいくつもの円環同士を縮約したり弛緩したりする。そのように、多数の円環が互いに関連し合って、さらに複合的に世界認識を深めていく。
2円錐図2   Photo_3円環図

このようにして、円錐のS点を特異点とした物質世界が、そこに構成されることが可能になる。

ね。こんな風に読むと、ベルクソンって、結構素敵でしょ。

ここまでのところが、本節で言いたかった話の中心なんだけど、もうちょっと補足をしておく。

 

希望ある冒険的生としての身体について

「知覚というものは、どれほど瞬間的であっても、無数の記憶要素で成り立っているといえる。というより、じつは、知覚は既に記憶なのである。われわれは、実際には過去しか知覚しない」とベルクソンが言っている。このことから、ベルクソンの世界モデルでは全ては円錐に内部だけが世界であり、円錐の外部に世界は無い、とする捉え方もある。
しかし、僕には、ベルクソンの円錐は、S点の先端でもって、つねに、外に向って開いていると捉えるべきものだと思われて仕方が無い。

「私の身体が表すものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、自分の持続にあって形成の途上にあるものに他ならない。より一般的に言えば、生成のこの連続性ーこれがレアリテそのものなのだーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私達の知覚がふるう、殆ど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、他ならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。」(「物質と記憶」文庫p276)
「知覚によって表現され測定されるのは、生命体が行動する能力であり、受け入れた興奮に後続する運動もしくは行動の不確定性だ」(同p126)

ここから読み取るべきなのは、物質が存在する実在世界とは私の行動と関わり合う世界のことだということ。僕が手を伸ばして触れ得る貴方までの距離が延長になる。僕が愛を告げて振られたり受け入れられたり、新たな冒険に人を傷つけたりまた上手くいったりするかもしれない世界だけが実在なのだということ。それゆえ、実在を問うためには必然的に、私がやろうとしたことを行動する身体と行動する舞台としての空間とその持続が必要になるということ。
つまり、私は未来へ向って生き続ける生であり、「3分後には、3分後のアクチュアルな世界において、この私がUFOを食べるだろう」という希望と予測が可能であること。ベルクソンが、私の身体の表面で物質世界の実在の構成が可能になるとするのは、必ず、そのような希望と予測が可能となるような、世界モデルだと捉えるべきではないだろうか。
「行動の不確定性」と「私がやろうとしたことを行動することができること」とは全く違うことであるが、そのように読まねばならないと、僕には思われて仕方がない。

結局、僕のベルクソン解釈は、次のようなものだってことになる。

世界は、質的な内容と量的な内容という還元不能な二元的なものである。しかしながら、「私は冒険的に世界を切り開くことができる身体の可能性だ」とし、その身体を世界構成の基軸とすることで、還元不能な二元を統合する物として物質世界が成立することができる。

でも、もし、私の身体が生まれつき全く動かなくて、ベッドの上で世界を見てるだけなのであれば、物質世界は実在しないことになってしまうのだろうか。そんなことはないだろう。そのあたりの問いについても、「私の希望的冒険的活動の舞台こそが実在世界だ」とする世界モデルを採ることで解決するように思えるのだけど、それはまた次で。

この「希望」の問題や、アクチュアルとヴァーチャルの問題、二元の統合の問題など、さらに次節以降で、ドゥルーズのベルクソン解釈を見ながら、考えを深めたい。

つづく

ベルクソン「物質と記憶」を読む

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