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2018年1月 3日 (水)

「食べたい」はどこまで肉食を許す根拠になるか<アニマルライツから倫理を考える3>

倫理的他者とどうやって、どこまで「すべき」を共有できるか

前節で僕は、倫理を共有しないような他者の倫理を問うための「すべき」定義を考えた。今日は、これを元手に、人権と動物の権利の論理的正当性の強度をどう測るか、それも、ETのような倫理的他者からどう見えるかを考えてみたい。また、その考察から「すべき」を比較することそのものの意味を考えてみたい。そしてまた、具体的な話として反ビーガンが肉食を許されるとすれば、その根拠があり得るかを考える。

今日の話は展開がずいぶんあっちこっちへさまよう感じになってしまったので、道程を先に示しておく
1.倫理的他者同士の倫理価値はそのまま比べてもすれ違うだけで役に立たないこと。
2.「説得」によって一方の価値変化が起こったなら、倫理価値の共有や評価が可能になる場合もあること。
3.しかし、どうしても倫理価値を比較したり交わらせたりすることができないような外部の他者は存在し続けること。それは比較不可能なので、どちらの価値が優位であるかの議論は無効になること。
4.生物の遺伝的性質上、個体はいったん獲得した価値を変更するのがむずかしいこと。
5.それでも、多様な価値の比較をするには多彩な経験と広い想像力が有効になる。問題に関するさまざまな情報を増やし想像力をたくましくしていくことで、自身にとってより適切な「すべき」行為を考えることができること。また、それによって、他者と価値を共有させようとする努力は続けることができること。
6.他者との価値の共有を求めたうえで、それでも自分に個別の価値があることが明らかになれば、その価値が疑ぐられる根拠はなく、自信を持ってよいこと。

<1.倫理的他者同士の倫理価値はそのまま比べてもすれ違うだけで役に立たないこと>

前節で考えた「すべき」
〇「すべき」の定義1:或る主体の或る状況(時刻t0)における或る行動について、その後の同様の状況(時刻t1)でもその主体によってその行動が繰り返されたときに、t0の状況においてのその行動を取ることが、t1の主体にとっての「すべき」ことである。

この「すべき」の定義の何が良いかと言うと、恣意性をかなり排除できて、外的に見て分かることだけから実験的に検証することができることだ。それぞれの主体の「すべき」を事実だけから求め得ることにしてしまうという、或る意味ひどい力業なのだ。でも、そのように捉えると、まったく倫理的価値を共有しないETとも一緒にそれが「すべき」ことであるかどうかを確かめることができる。倫理を科学的に考えることさえできるという、結構な優れものなのだ。

しかし、この「すべき」は、残念ながら、今回の考察にそのままではあまり役に立たない。
或るビーガンが何度ローストチキンを勧められてもそれを食べないとしたら、そのビーガンにとってそのローストチキンを拒否したことの一つ一つの行為選択はそれぞれの状況において、すべきことである。それぁそーだ。僕のこの定義では、倫理的に心変わりしない限りは自分の行為はどれも「すべき」行為になってしまう。同様に、「奴隷制の非道徳性」を問うても、反奴隷制主義の人にはどの反奴隷制の行動も「すべき」行為になってしまう。なので、この定義では他者から見て、その行為者の選択の正誤を問うための根拠の材料にならない。

だったら、他者が口出しできるような形に「すべき」を作り変えてみたらどうか。

〇「すべき」の定義2:主体P2 が或る主体P1の或る状況における或る行動Aを判断するとき、P2が、主体P1と同じ身体同じ能力同じ知識同じ記憶を持ち、それと同じ状況に置かれたときに、同じ行動Aをすると判断するならば、P2が考える上でAはP1にとって「すべき」ことである。

これも使い物にならない。
或る反ビーガンP1がローストチキンを食べた行為Aについて、別の主体でビーガンのP2が判断するときに、P1の身体・能力・知識・記憶のすべてをそっくりそのまま受け継いで、その人になりきって、その上で、そこにP2の倫理観を持ち込んで判断しようというのだ。
でも、これって、どういう意味なのか、僕には分らない。P1の身体・能力・知識・記憶のすべてを受け継ぐのだったら、それはそのまま倫理観まで受け継ぐことになるのではないか。それならば、ビーガンが判断しても、そのローストチキンを食べた行為Aはその行為者P1にとって「すべき」行為だったことになるのじゃないか。脳も含めた身体も過去の経験もすべて受け継ぐのであれば、誰が判断してもそれ以外の判断はあり得ないのじゃないか。それならやっぱり、この「すべき」の捉え方でも、ビーガンの「すべき」はどこまでもビーガンの「すべき」であり続け、反ビーガンの「すべき」はどこまでも反ビーガンの「すべき」であり続け、それらが交わることはできないままだろう。
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でもだからと言って、その状況にP1とは別人がP2の体や経験を持ってきて「否、それはすべきじゃない」と言ったところで、それはやっぱり、「それぁそーだろう」って話にしかならないだろう。それは単なる他者が単なる他者として言ってる話でしかないのだから、この話でもやっぱり、ビーガンの意見はどこまでもビーガンの意見のままであり、反ビーガンの意見は反ビーガンの意見のままでしかない。逆にしても逆にダメなのだ。
つまり、至極当然の話だけれども、相手が言ってる倫理をそのまま全て受け入れてこちらの倫理を殺しても、逆にこちらの倫理を押し付けて相手の倫理を殺しても、倫理的他者と「すべき」を共有することにはならない。

<2.「説得」によって一方の価値変化が起こったなら、倫理価値の共有や評価が可能になる場合もあること>

しかし、このことから他者と倫理を共有することが原理的に無理だと結論付けるのは、まだ早いかもしれない。さらなるメタ倫理を検討してみてはどうか。例えば、そもそも、他者の倫理と私の倫理を比較したり、二つの異なる倫理規範を比較したりする方法はないか。否、比較するとはどういうことなのだろうか。倫理的他者と共有できない倫理価値について、それぞれの価値をそれぞれに確かめ合っているだけでは、そこで為される比較は比較としての意味は少ないだろう。では、こんなのはどうだろうか。

〇説得したり環境の変化を起こしたりして、倫理的他者の倫理価値の転換を図りその上で共有できた価値基準によって、倫理的他者だった人の価値と転換した価値を比較する。

例えばこんな感じ。
(課題事例)時刻t0において或るローストチキンを食べた食肉人P1に対して、それより後の時刻t1において同様のローストチキンを食べないように、ビーガンのP2が働きかける場面を考えてみる。
(できること1):P1に対して新たな知識や経験と論理的考察や非論理的考察を与えt0とは違った判断をするように促す。例えば、畜産の不幸な現状を知らせ、ビーガン食の多彩さを見せて食べさせる。そして、鶏権を擁護する論理的必然性やそれによって得られる心の豊かさを訴える。
(できること2):P1の周りの環境に変更を加え、P1がt0とは違った判断をするように促す。例えば、鶏肉を物理的に遠ざけ食べられないようにしたり、鶏肉を食べることに税金をかけたり、或いはP1の周囲の人にP1が肉食を止めることを評価や感謝をするようにしたりして、物理的や心的に圧力をかけ肉食しないように働きかける。(できること1)では通じなかったP1に対してランクアップした力業をかける。
(できること3):P1の周りの環境にさらに強い変更を加え、P1がt0とは違った行動を取らざるを得ないようにする。例えば、肉食を法的に禁じたりそれでも食べようとする場合には強制的に肉食を制止したりする措置を取る。
こんな感じで、P1の心変わりを促すことで、P1がその説得に納得したり納得しないまでもそれに従う気になったりして、ローストチキンを食べるのを止めることはあるだろう。そのときに、P1は自らの判断で肉食を選ばなくなるのだから、P1とP2は「定義1のすべき」に適う倫理規範を共有することに成功する。

しかし、P1が、どこまで説得されても心変わりすることがないような「強い反ビーガン」であってその「説得」は必ず失敗する、というパターンも考えられる。この時には二人は規範の共有に至らない。そこで、P2はさらに上の段階の働きかけをする。それによってP1は矯正されるかもしれないし、それでも「説得」に失敗するかもしれない。
それでも、このようにして、もしP1を説得して矯正に成功したなら、P1とP2はある程度の倫理的価値の共有ができる。そして、その共有できた倫理的価値の場においてなら、多彩な行動パターンの中から他者の視点までも含めた多彩な価値選択基準でもってそれぞれの最善の行動を選び、さらにその中から自分にとっての最善の行動を選ぶことができるようになるし、その基準の多様性やパターン選択の多様性についてP1とP2で話し合うこともできるようになるかもしれない。

<3.どうしても倫理価値を比較したり交わらせたりすることができないような外部の他者は存在し続けること。それは比較不可能なので、どちらの価値が優位であるかの議論は無効になること>

しかし、力ずくでビーガン生活を押し付けるなど、できることをすべてしても説得が失敗してしまうなら、当然ながら価値は共有できない。納得させることはむずかしいだろう。どんな説得も絶対有効であるとは限らない。だから、どんな説得をしてもその価値を翻さないような他者が有している倫理的価値は、もう一方の他者の倫理的価値と交わることがない。そのような他者とは、価値を交わらせることができないのだから、その価値についてはもう語るすべが持てなくなってしまう。できることは、到達できない他者の価値だと認めたうえで、相手に届かない遠吠えをするだけである。

さらに、この、価値の他者性によって価値が相手に届かない問題は、「説得」に失敗したときだけの話ではない。P1がP2の説得によってローストキチンを食べなくなったとしても、そこで共有できている「倫理的価値」は、単に結果的にローストチキンを食べなかったというその事実が示すものだけである。なぜP1がローストチキンを食べないのかの理由となる、内面的で私的な倫理的価値なんてものは、共有しようがない。そもそも私的倫理価値なんてものはナンセンスな概念で、そんなものを考えてもしょうがないのかもしれない。つまり、すべての倫理的価値の共有は、言語ゲームの不確定性の上での不安定な確証でしかないとも言える。その不安定な確証の上で、成立するゲームのみが倫理ゲームであり、倫理価値とは、そのようなものでしかないのだ。

だから、その意味では、チキンを食べるか食べないかの選択が人によって相反したり、人権を尊重するか否かの選択が相反したりする場合に、相反する倫理的な価値のどちらが優位であるかということを言うためには誰の立場での物言いであるかをはっきりさせないと意味がないということになる。当然の話であるが、倫理的なETからみたときに、論理的に絶対正しい価値なんてものはあり得ず、如何なる立場からでもない倫理的言動などナンセンスなものでしかあり得ない。

 

<4.生物の遺伝的性質上、個体はいったん獲得した価値を変更するのがむずかしいこと>

また一方、価値の変更について考えてみると、一般的に一度身に付いた価値を変えることはなかなか難しい面があると思える。例えば、生まれついた環境が、唯一絶対神に対して帰依し服従することが当たり前であるようなものだったら、その子にとってその神は自然と倫理的価値の基盤になるだろう。それはもう人生の基盤なのだから、神など存在しないと他者から言われても、どんなに論理的に論証されても納得することはできないだろう。

そもそも価値なんてものは、どんな価値でも、それがなぜ大切なのかという問いを答え続けていくと最後にはもう理屈なし理由なしに「なぜかそーなんだからそーなんだ」っていうものが倫理的基盤になっているはずだ。それは、生まれつきの身体そのものの性質として身についているものか、生まれつきの環境に順応するために身についたものかであろう。だから、そこで生まれきて身について問題なく過ごせてこられた倫理的慣習がそこにあるのだったら、それはもう、その人にとっては捨てるべきではない慣習となるだろうし、それを支える倫理的価値も簡単には捨てるべきではないものになるだろう。だから、大抵の生物はその生命活動の安定性から、特別な要因がなければ、生まれつきの身体反応と育った環境によって植え付けられた価値基盤は変えないようにできているだろう。
その価値基盤がどんなに無根拠なものでも、コミュニティ内でみんなが共有しているのであればそれはみんなが共有しているということだけで十分に、コミュニティ内での活動を円滑に回すための材料になり、欠かせないアイテムになる。しかし、複数のコミュニティがそれぞれ無根拠な価値基盤を持つということゆえに、複数のコミュニティが異なる価値基盤を持つことは必至の事柄であり、そこに必然的に価値の衝突が起こることになる。もとももとあまり根拠のない価値基準だったとしても、それぞれの価値は簡単に転換することができないので、その衝突は悲しく無益な他者非難につながりやすい。

たとえば、アングロサクソンの人が有色人種を排除し差別することで自種を優位に保つ習慣がある或るコミュニティがあったとして、そこで生まれ育った子どもはどうしても差別主義者になりやすい。何とも非道な倫理価値であるが、それでもどう説得してもその差別の非道を理解できない人がいるのは、そういうことがその一因であるかもしれない。どうにも酷い倫理価値であるが、上で定義した「すべき」で判断るなら、その差別主義者が倫理的価値を転換させない限り、その差別はその差別主義者にとっては「すべき」ことなのだ。彼らの中には、それゆえ胸を張って差別する者まで居る。

<5.多様な価値の比較をするには多彩な経験と広い想像力が有効になる。問題に関するさまざまな情報を増やし想像力をたくましくしていくことで、自身にとってより適切な「すべき」行為を考えることができること。また、それによって、他者と価値を共有させようとする努力は続けることができること>

しかし、それでも、我々は自分の信じる正義に従って相手を説得し、説得によって相手の価値を変えることができるかもしれない。
チキンを食べると言っているP1は、人間が肉食することは当然で、チキンを食べる喜びと鶏権を守ることを天秤にかけること自体の意味が理解できない。しかし、鶏飼育の現状やビーガン食に関する知識を増やしていったり、実際にビーガン体験をしてみたりするうちに鶏権を守る喜びに目覚めるかもしれない。そのように価値基準の転換があると、P2はそれまで倫理的他者だったP1とでも倫理価値を共有することができ、二人で共有させた基準でチキンを食べることの是非を問うことができるようになる。ただし、当たり前だけど、この転換は誰でも起こるとは限らない。そんなにうまいこと価値の転換が起こったら話は簡単でみんなハッピーだけど、問題なのは、どんなに説得しても転換が起こらない場合である。もちろん、説得をあきらめて、その相手とは一切交渉しないようにしても良いだろう。でも、どこまでも相手の価値と自分の価値をすり合わせようとする努力を続けることもできるだろう。

そのときに、できることは養鶏や必要な栄養など問題に関係する知識を増やすことと、相手がその価値に味わっているだろう感触を想像してその良さを感じようとし自分の信じる価値と比較できるようにすることではないだろうか。知識を増やすことはもちろん新しい価値判断の材料になり、どちらの価値を取るにしてもその是非の根拠になるだろう。そして、そこに他者への想像力を加える。相手の身体が自分の体だったと想像し、相手のしてきた経験を自分がしてきたと想像し、そこに相手が得ているだろう価値観を自分のものとして想像する。この想像は、しょせん自分の価値観においての想像でしかないので、いわゆる価値のパチモンでしかない。それでもパチモンなりに相手の倫理に手を伸ばそうとする努力は決して無駄なものではないだろう。

<6.他者との価値の共有を求めたうえで、それでも自分に個別の価値があることが明らかになれば、その価値が疑ぐられる根拠はなく、自信を持ってよいこと>

そうやって知識と想像力を広げていって、その上で自分の倫理的価値が変更されることもあるだろうし、変更されないこともあるだろう。どちらにしても、その、自分の視野を広げようとする作業を尽くして、それでもそのように行動してしまうのであれば、その状況における自分にとってそれが最善の「すべき」ことなのだ。そこでのそれが最善であることの根拠は何かと言えば、それはもはやその行動をしてしまうことそのものになるのだ。道徳的価値などというものについて種を越えた倫理まで範疇に入れて考察しようとするなら、当然、絶対的倫理なんてものに頼るわけにはいかない。だから、知識と想像力を広げられるだけ広げて、なおその行動を取ってしまうのであれば、それ自体がその主体にとっての「すべき」であることの根源的な根拠になるはずだ。つまり、養鶏の悲惨な現状やビーガン食の知識などを十分に得て、鶏の権利が守られることの良さを十分に想像したうえで、なお「ローストチキンがうまそうだから食べたい」という気持ちが勝って食べてしまうのであれば、その人にとってはそれがまさに真の「すべき」ことだと言ってよいのではないだろうか。人は誰でもそれぞれの状況に応じてそれぞれの「すべき」ことが別々にあるのであって、それぞれの「すべき」には優劣はないのだ。またどんなに理屈や理論で正しいと思われる行動規範があってもそれを破ってしまうのであれば、そこに何の理由もなく何故だか分からなくともそれを破ってしまうのであれば、破ってしまうことの方が「すべき」ことだと認めて良いのだ。
ただし、そこでやってしまう今の行動がいつでも「すべき」こととして固定されていると捉えてはならない。我々は、知識をさらに増やしたり想像力をさらに増やしたりすることによって、現状よりもさらに良い「すべき」行動を切り出していけるはずである。まるで、実無限という無限の捉え方では円周率のすべての桁の値がすでに決定されているものだと考えるのに対して、可能無限という無限の捉え方ではそのつど人が値を切り出したところまで確定値が出現するものとし、どこまでも切り出せる可能性だけが無限にあると考えたのに似ている。我々はどこまでも、新たなより良い「すべき」を切り出す可能性を持っている。だけど決してその無限の最後の達することはできない。「すべき」なんてものはしょせんその程度のものなのではないか。誰かが「本当のすべき」ことなんてものを語ろうとし出したら、眉に唾を付けて聞くべきなのかもしれない。

そのように考えると、もはや我々は、ある意味で、差別者が差別をすることを絶対的に悪だなんて言うことはできない。殺人でさえ絶対悪だとすることができない。それでも、その差別者に対してあらゆる知識と想像力を与えていけば、多くの人はきっとそれが為すべきことでないということを実感できるようになることも、一つの事実であろう。ただしどんなに「説得」を重ねてもどうしても、差別や殺人が善だとする人はいるかもしれない。僕は、そのような倫理的他者に対して指をくわえて我慢してろと言っているのではない。そのような他者には力ずくで差別や殺人をしないように押さえつけねばならないだろう。私にとって力ずくで対処すべきだと思われるならそうするしかない。他者には他者の倫理があるのは事実として認めるべきなのだろうし、それを力ずくで止めようとする他者があり衝突することも事実として認めるべきなのだろう。

<まとめ>

だから僕の今日の結論はこうだ。
誰かがローストチキンを食べるべきか否かについては、結局、人それぞれなのじゃないか。なんとも当たり前の話でしかない結論で申し訳ない。そんな結論では何の意味もないように思われるかもしれない。でも僕には、その事実を認めることが倫理を考える上でとても大切なように思われる。もちろん、養鶏の悲惨な現状を見ればローストチキンを食べるべきではないとする人が多くいると思う。でも、おそらくどんなに養鶏などの知識と想像力を総動員してもやっぱりローストチキンを食べたいと思う人も一定数いるように思える。実際に、奴隷解放など不要だとする人の数よりも、鶏権より「食べたい」を優先する人の数の方がずいぶん多いだろう。この奴隷解放問題はアニマルライツ問題の論拠とされることがあるが、それは間違いであるように思う。それを食べることに罪悪感を覚えるか否かは、有色人種に人権を与えるべきだと話とは別のもので、後者は前者の論理的な根拠にならないのじゃないか。これを論理的な関係にあると思ってしまうは、あの「二封筒問題」で単純に期待値を計算してしまうのに似た誤謬だろう。だから、もし自分がローストチキンを食べることに罪悪感を覚えるのであればその事実を受け入れたら良いし、感じないならその事実は受け入れて良いように思う。

以上。結局、他者の倫理を他者の倫理として認めつつ、その上で私の倫理の優越性を捨てないという、以前からの僕の主張をずいぶんややこしい言い方をしただけのものになってしまった。伝わるものになっていたら良いが、どうだろう。

言ってることは、当たり前のことばかりだと思うんだけど、アニマルライツ論議ではこの視点を無視してるものが多いように思う。どうなんだろう。

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