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2018年5月20日 (日)

内的差異が矛盾なく外部と共存できるわけ<「ベルクソンにおける差異の概念」を理解するぞ10>

「ベルクソンにおける差異の概念」を読む。
ベルクソンの世界モデルを支える本性の差異は、内的差異を基盤とするものであるが、その内的差異は内的なものでありながら、「外部」との共存を、なんと無矛盾に為し得てしまうものらしい。ベルクソンの世界モデルとは、なんとも不思議なものである。今日は、ベルクソンとヒュームとダメットの世界モデルを比較し、1,2,0次内包との位置付けを考察することで、その外部を無矛盾で内的差異に取り込んでしまうトリックに迫りたい。
 
 

「強い相関主義」とベルクソンとダメット

ベルクソンとダメットの世界モデルはずいぶんと似ている。
ベルクソンの世界は、すべてがイマージュにおいて現象するものであり、現象を現象させる主体としての人間がその生を有意味なものにするための対象として組み立てられるものである。だから、世界は人間との相関においてのみが意味あるものだとするものであり、「物自体」についてそれを思考すること自体が無意味だとする世界観であるから、その意味でメイヤスーのいう「強い相関主義」である。
一方、ダメットの世界は、世界の正しい姿が世界を記述する言語そのものにおいてちゃんと現れるとする。そして、その、世界記述の言語は発話者が直接観察と排中律と語の概念を立ち上げることによって初めて意味を作り出すものであり、そのつどそのつど即時的な言語において、主体がその人にとっての世界を立ち上げるものとする。だから、それはやはり人間との相関においてのみ意味があるものだとするものであって「強い相関主義」である。
どちらも「強い相関主義」であるところにおいては同じだ。でも、ダメットは一元論でベルクソンは二元論だから全く違うものだとも言える。
しかし、強い相関主義なのに二元論ってのは変じゃないか?それってどういう意味での二元論なのか?
 
 

ヒュームとベルクソン

この点についてドゥルーズは、ヒュームとベルクソンを比較して考察している。ダメットとの比較を考える前に、そのヒュームとの比較を見てみよう。

「彼〔ヒューム〕は、なぜ純粋な反復、対象のなかに何も新しいものを産み出さない類似物の反復が、それを眺める精神のなかには新しい何ものかを産み出すことができるのかを問うた。この「新しい何ものか」、千回目の期待、これが差異である。…産み出される新しいものは、諸対象のなかにあるのではまったくない。新しいものは、諸対象を眺める精神の内の「融合」「相互浸透」「有機化」であり、他のものが現れても消えることのない前のものの保存であり、つまり、精神の中で為される縮約である」(ドゥルーズ「ベルクソンにおける差異の概念」)
Hume_2
デイヴィッド・ヒューム1711‐1776

Bergson_2
アンリ・ベルクソン1859‐1941
 

ドゥルーズによれば、「差異」に関するヒュームとベルクソンの捉え方の類似は「遠くにまで」行く。その類似点は、世界の「差異」は「千回目の期待であるような新しい何ものか」だということである。世界は過去からできていて、その過去を精神によって過去の事態として構成する。そして、その構成された世界によって未来の事態を「新しいもの」として期待することができる。ところが、その「新しいもの」は、過去においてすでに出来上がっているとしたところから「999回目まで」とは異なる「千回目の新しいもの」として飛び出すものを期待することもできる、としてしまう。できるとしてしまうのだけれども、その「新しいもの」は「精神のなかで為される縮約」に一致する。
 
 

「内」と「外」

このあたりの、矛盾するかしないかの微妙な内容について、ドゥルーズは次のように言う。

「ヒュームにあっては、類似の諸ケースは想像力のなかで溶け合っていたが、同時にそれらは悟性のなかで区別されたままであった。同じように、ベルクソンにあっては、諸状態は持続のなかで溶け合っているが、同時に諸状態はそれらが因って来る外在性の内の何ものかをも保持している。ベルクソンが空間の構築を説明するのは、この後者の点によってである。したがって、まず、縮約は言わば精神の「なか」で起こる。それは、精神の起源のごときものとしてあり、差異を生じさせる。次いで、またそれに続いてのみ、精神は縮約をみずから取り上げ直し、自由についてのベルクソンの理論にある通り、精神は縮約させ、また自ら縮約する」(同)

世界のすべては、「私」が構成した世界の内側でしかない。私が為す行為が本当に自由なものであるためには、その行為は世界の「外側」で飛び出すものでなければならないはずなのだけれども、ヒュームの世界モデルにおいては、その「外側」は必然的に定義的に「内側」と一致するはずのものであり、その「内側」と一致する限りにおいて「外側」を考える意味があるというものである。ヒュームの世界モデルは「内側」を前提として「内側」に一致する「外側」だけを受け入れることによってその両者は一致する。
ベルクソンの世界モデルにおいても、「外側」と「内側」は一致するのだけれども、その「内側」は、逆に「外側」があることを前提したうえで、その外側を飲み込んで精神自体を拡大させることによってその両者が一致するものになる、というものなのだ。

「いまやまとめ直す必要があるのは、本性の差異、内的差異、分化、および差異の程度の4つの状態である。我々の導きの糸は(内的)差異は反復と(本性において)異なる、という点にある。だが、そのような言い方は均衡を欠いている。そのことを、我々は知り過ぎるほど知っている。そこでは、差異は内的と言われながら、同時に外的世界において異なる。…ベルクソンは、差異もまた一種の反復であり、反復はすでに差異であることを示す。…反復は一種の差異となる。ただし、それは常に自己の外側に対する差異であり、自己に無関心な差異でしかない。」(同)

ここで「内的」というのは、或る対象にとってその性質を持たないことが論理的にあり得ないことを差す。つまり、「内的差異」とは、それ自体から分析的にそれ以外だとは考えることができないような差異である。ということは、「内的差異が反復と異なる」というのは、「世界構成が過去の記憶から分析的に構成されるものとして捉えるときの差異である「内的差異」が、過去から単純に反復されるものと異なる」というかなり変なことを言っていることになる。
過去から続いてきた世界が「そのまま」未来へ反復され続いていく、と捉えるだけではなく、そこからはみ出し飛び出し得るような「外的世界」までも、懐に収めるものとして捉えるべきであり、「内的差異」は内的でありながら外的でもあるものとする、と言うのだ。
ここが、ベルクソンとヒュームの違いだと言えるだろう。この、還元不可能な「内側」と「外側」とをつなぐことによって世界が構成されなければならないという点で、ベルクソンは二元論的世界モデルであり、ヒュームはその「外側」も還元可能でなければならないという点で一元論なのである。
ベルクソンモデルは、まるで矛盾したものでしかないように思える。しかし、ドゥルーズは、この無茶苦茶な話が潜在性・バーチャリティの力によって、無矛盾で為され得ると言う。
しかし、無矛盾でこのベルクソンモデルを認めるなんてことが、本当に可能なのだろうか。もし可能だとしても、それってどういう意味なのだろうか。
 
 

ダメット反実在論とベルクソン世界モデル

この点を考えるために、ダメット反実在論モデルと比較してみたい。
Dumett_2
マイケル・ダメット1925‐2011

ダメット反実在論とは、「世界に関する言明について、証拠とは無関係な客観的真理などというものはナンセンスでしかなく、世界に関する言明は必ず、我々が証拠に照らしてのみ理解されるべきもので、証拠のよってのみ真や偽となり得る」とする存在論であった。証拠によってその世界像の有効性の重さが決まり、証拠のない世界像なんぞはまったく無効なものでナンセンスでしかない。無効な世界像においては、もはや真偽を問い意味も失われ、真理値を持たず、単に「分からない」「無意味」でしかないものになる。

このダメット反実在論の世界モデルでは、未来は予想可能な面においての有意味であり、その予想可能性の重さにおいてのみ有意味性が決定される。そして、未来の予想不可能な面については、もちろん予想不可能な部分があることは認めながらも、その予想不可能な部分は予想不可能であるがゆえに、単に「分からない」「無意味」でしかないものとする。予想不可能なんだから、そんなものに意味なんかあるわけなく、それが真とか偽とかの話になるわけがないのである。このことについて、ダメットは「隣室の机があるかどうかについてを、隣室に行けば分かるとするような現象主義で考えてはならない」と言っている。隣室について言うにしても、今ここで分かっていることだけから根拠立てて語るようにする以外に世界を語る術はないのだ、と言う。

ダメットはその言明の「分かる・分からなさ」を様々なものに当てはめて考える。つまり、「物的対象についての言明」「科学理論についての言明」「心象についての言明」「数学的言明」「過去についての言明」「未来についての言明」である。
ここで、ダメットは「未来」についてだけ分からないものがあるとするのではなく、その他のすべての世界記述についても、証拠に基づいた有意味な言明と証拠に基づかない無意味な言明とがあり、我々が相手をすべきなのは、証拠の基づいた言明だけだとする。目の前に今見えているパソコン画面について「画面がある」ということも、無根拠に自明だという訳ではない。もちろん有意味に真であろう言明であるが、その有意味性は、今私に現象している視覚的感覚などが根拠であるから、かなり重い意味でそれが有意味だと言える、というものに過ぎない。同じように、妻が今飲んでいるコーヒーの味わいは僕が味わっているコーヒーの味わいとどの部分が同じでどの部分が異なるのかを語るには、どんな根拠をもっているのかだけが、その言明の有意味性を決定するとする。これは科学法則についても、数学について言われるのとまったく同じ意味で、根拠との関連において何を語っているのかということだけが、言明の有意味性の重さを位置づけるのだ。そして、それは過去についての言明についてさえ、そうであるのだ。昨日のことも3分前にことも、それは記憶違いという可能性があるわけだし、記憶があるというだけで自明とするわけにはいかない。記憶している出来事でさえ、それは根拠の一つでしかないのだ。世界とは、根拠から或る確かさのある言明だとされたり、或る不確かさのある言明だとされたりするものの重ね合わせでしかないのだ。それ以上の、「本当」にある、我々の知り得るものの「外側」の世界なんてものは、それがあるとかないとかいうこと自体がナンセンスなのだ。

このようにみると、ダメット反実在論とベルクソンモデルは、直観だけに基づいて世界を組み立てていくという点において、よく似ている。しかし、次の2点で大きく異なっている。

即ち、
(1) ダメットが、直観に基づいて分析し考察できる範囲の「外側」を排除してしまうのに対して、ベルクソンはその「外側」さえも取り込もうとする。
(2) ダメットの世界は、「今ここ」で感受するすべてを世界構成の根拠とするが、それは動かない固定したものとして捉え得るとしている。これに対し、ベルクソンの世界では感受できるすべてのものは世界構成の根拠とすることができるのではあるが、世界構成の根拠として取り出し得るものとは別に、常に動き決して固定的なものとして捉えることができないような持続としての側面があるとする。それゆえ、その根拠が「今ここ」のものだとは限らないとするところから、世界構成が出発することになる。

実際にいま直観している「これ」から世界構成を始めるのだとしても、しかし、ベルクソンの世界観ではそれを「今ここ」のものとして固定しまうとことから始めるのではなく、持続し続ける記憶の中にある「質」から、過去と今と物質の「延長」を一気に組み立てようというのだ。
ダメットの世界モデルで言うなら「私が3分後にできるUFOを味わうその味は、今想定する味だけが有意味であって、「3分後になったら分かる」などというのは意味がない」とするものであるが、ベルクソンに言わせれば、そんな世界モデルは人が実際に生きる「生」を語るものとしてはあまり役に立たない。「3分後なったら分かる本当の味」が意味あるものでなければならないはずなのだ。

ベルクソンに言わせれば、ダメットの世界モデルでは「今ここ」なるものがすべての根拠の土台とすることができるとしてしまっているが、そんな簡単に「根拠の土台」なんぞを持ってくることができるわけがないだろう、となるだろう。ダメットは「今ここ」に見えている「これ」を簡単に世界の根拠とすることができるとしてしまったが、「これ」を掴まえることも、「これ」が何者なのかを名付けることも、そんなに簡単にできるわけがないのじゃないか、という話。それ自体が猛烈な無茶を飛び越えているのではないか。

ダメット自身は、そこで猛烈な無茶を飛び越えていることに気づいていたはずだと僕は思う。だからこそ、「とりあえず」「冒険的に」世界を組み立てるしかないという話を持ってきて「反実在論世界モデル」というものを考えたのだろう。
でも、ベルクソンは、それでは納得しない。「今ここ」だけでもってそんな飛び越えをするなどというような、ちまちました限定をせず、過去も未来も他者もすべて(の本来は外側にあるようなものまで)を含めて「内的差異」として引き受けるため、その、過去と未来と他者を、本来は矛盾とされるものまで取り込んで、一気にでっち上げてしまう。「隣室に行けば分かるかもしれないということまで含めて、「今ここ」さえ確定していないこんとんからスタートして全部ひっくるめて一から世界を構成してみよう」ってことで、そういう話として「隣室に行けば分かる」も認めてしまおうって話である。
そのようにすることによってベルクソンは、ダメットが排除した「本当」の世界を取り込み、「物自体」に極限まで接近する世界モデルを作ろうとしたのではないだろうか。
 
 

「認識不可能・共有不可能」の分類

昨日ツイッターである人が「久しぶりに眼科で瞳孔を開く目薬をさされて、その後暫く世界が青く美しくなった。私はこの色が好きだ。普段はもっと黄色く濁っている。この差異の認識は記憶に基づく。他者との間にこの種の差異があっても、その差異は認識不可能だ。関連諸科学技術のいかなる進歩を想定しても、と言われることもある」と呟いていた。
ベルクソンが「外的」と「内的」を結び付けようとしたするときに、例えばこの「認識不可能」な差異みたいなものがどこまで、どういう意味で、認識不可能なものであるかを問い、そのうちで無矛盾でありながら外でもあるというぎりぎりを探ろうとしているのではないだろうか。
目薬を差されて世界が青くなる感覚を、厳密に完全に他者と共有することは無理だろう。それは「私は他者の痛みを痛むことができない」という文法的な意味での不可能かもしれない。
でも、神経回路の科学的分析心理的分析によって「目薬を差されて世界が青くなる感覚を」共有できるとするような語り方ももちろんあり得るはずだ。この段階がいわゆる2次内包のレベルの話なのだろう。それでも、その科学的分析で語りきることができないような「本当」の差異ってものがあるという話もまた可能なはずである。これがいわゆる0次内包の話のレベルとなるのだろう。しかし、このレベルの話でも、必ず他者とその感覚を共有する可能性が「無矛盾であり得る」という話と、「矛盾しなければあり得ない」という話とに分けられて、そのどちらの言葉づかいで語ることも可能なのではないだろうか。

この言葉づかいの分類をまとめるとこうなる。

(あ)1次内包や2次内包で、或る感覚が他者と共有可能だとするような言葉のレベル(1次内包・2次内包レベル)
(い)1次内包2次内包では、或る感覚を他者と共有することは不可能だする言葉のレベル(0次内包レベル)
(い‐1)1次内包2次内包では他者と共有することはできないが、無矛盾に共有する可能性が閉ざされたわけではないとする言葉のレベル
(い‐2)1次内包2次内包では他者と共有することはできないだけでなく、無矛盾に共有できる可能性もないとする言葉のレベル

このように「0次内包」レベルの話でも、矛盾するものとしないものに分類できると考えられないか。(0次内包を問うが、これは決して無内包やマイナス内包の話にはならない。)
ベルクソンが求めている「外」なるものは、1つにはこのような他者と共有できない感覚でもあると思われる。しかし、ベルクソンは常に「矛盾」を否定する。つまり、(い‐1)の「1次内包2次内包の外部まで無矛盾で他者と共有できる可能性がある」とするような言葉の使い方をすることで、そのような「外」を組み込む二元論を有意味に語り得るものとして捉えようとしたのではないだろうか。

 

ベルクソンモデルの可能性と「本当」の外部

ベルクソンが、そのレベルの話をしていると解釈すれば、ベルクソンの世界モデルは、持続する人の「生」において「3分前」にも「3分後」にも「他者」にも、私からは到達できないような「外部」でありながら、かつ、無矛盾に私の内的世界として共有できるようなものがあり得て、それを世界の構成要素とする世界モデルだということだ。
つまり、ベルクソンの二元論世界モデルは、3分後になったら私が実際に味わう味が本当にあってそれが分かることが有意味な世界として構成できる、というものだと言えるだろう。
つまり、無矛盾になるように取り計らって、無矛盾な範囲だけの外部を取り入れられるようにした世界だってことだ。しかし、そんな恣意的な世界の構成の仕方で、本当の世界を求めることになるのだろうか。
問題はやはり、その「本当」をどのように捉えるかってことになってきそうだ。私が3分後に味わうUFOの味が「本当」はどんな味なのか。

(a)3分後になってみたときに実際に味わうだろう味なるものが、現在の私とは独立に実在していて、それこそが、その「本当の味」だと考える人がいる。この考え方をとるなら、その「本当の味」はこの現在の私とは独立なのだから、現在の私が「内的」に捉えることはできない。それは矛盾でしかない。哲学者の中でもかなり多くの人がこの「実在論的」な立場をとる。しかし、ダメットはこのような矛盾した捉え方をしようとしても、言語が何を語るかという意味の先がその語りたい対象に届かないのだから、無駄な努力でしかないと考える。

(b)ダメットの考え方では、3分後に味わう「本当」なんてものはナンセンスでしかなく、今から想定できる「想定の内部としての3分後」だけが有意味なものである。「本当の3分後」があるとすれば、そのような「想定内部」の「本当」でしかない、とする。しかし、ベルクソンなら、そのような「本当の3分後が無い」とするような世界モデルでは、人が生を享受するための世界モデルにはなり得ないし、そもそも人の「生」を基盤としない世界モデルなど、世界の構成するための根拠を持たないものでしかない、と批判するだろう(まあ年代からしてベルクソンがダメット哲学を批判するなんてことはあり得ないんだけど、もし生きていてダメットを読んだらそのように批判しただろう)。

(c)そこで、ベルクソンは、3分後に味わう「本当」を現在の私の想定の外部でありながら、現在の私とは完全に独立であるわけではなく、「内的」に捉えることが矛盾しないようなものとして考えた。そうすると、それはちゃんと私が語る「本当の3分後」として意味を持ちながらそのものに届き得るものとして、捉えることができる。ただし、それはそのような無茶を超えてかなりアグレッシブにその「外部の本当」を捉えようとするものになってしまうので、「よくわからないけど、そこに本当にあるもの」という風に「よくわからないもの」でしかないものになるかもしれない。

だから、そんなベルクソンモデルを持ってきたからと言っても、具体的にはそんなに劇的に良いことがある訳ではないかもしれない。それでも、世界が有意味なものであり、かつ、人が生きていくためのステージとして有意義なものであるためには、この方法しかないように、僕には思えてならない。そのような意味で、これはかなり有効で有能な世界モデルなのではないだろうか。

過去や未来や他者まで取り込んで、記憶と身体の活動から成る現勢性・アクチュアリティと潜在性・バーチャリティでもって、一気に世界を構成してしまうという、かなりアグレッシブで冒険的な世界モデルなのではあるが、それでも、ポストモダンやその後の新しい実在論などが注視している、実在と非実在について矛盾と矛盾の間隙を問うという、非常に先見の明がある問いにあることは間違いないと思うのだが、どうだろうか。

つづく

「ベルクソンにおける差異の概念」を理解するぞ

«お詫びと訂正